第21話

中央公園に車で到着すると、木崎は地図を手に取り確認した。

ここからはすぐか。

地図を畳み、ダッシュボードに放り込んで車を降りた。公園の敷地内を歩きながら、もっと早く来るべきだったかもしれないなと木崎は思った。

かなり複雑な事情で転校してきた子だったが、すぐにクラスに馴染んだ。最初は心配していたが、どうやら杞憂に終わったと感じた。そして学級委員にまでなった。文化祭も彼が企画した。

なんの問題もないと思っていたが、大切な秋の三者面談に親が来られず、本人と二人だけの面談では「まだ決めてません」と、どこかはぐらかされた感じがした。

進路の事は本人とは何一つ話せなかった。

もちろん、高校へは進学するのだろうが、どこを希望しているのか見当もつかない。

成績は悪くない。公立の進学校だろうか。いや、そもそもこの辺りの高校に進学するのか、東京に戻るのかもわからない。

それも確認する必要があった。

「ごめんください」

と木崎は玄関先から大きな声を出した。

古い日本家屋で引き戸式の玄関ドア。チャイムはなかった。

「はい」と言って、やや、やつれた感じの細身の女性が出て来た。

三浦大吾の母親だった。

「はじめまして。担任の木崎です」

「大吾の母です。この度はお手数をおかけしました」

彼女は深々と頭を下げた。


居間の掘り炬燵に足を突っ込んで待っていると、大吾の母が日本茶をお盆に載せて運んで来た。

何もありませんが、と彼女は申し訳なさそうな表情をみせた。

どうかお構いなく、と木崎は言った。

「大吾くんは?」

「トレーニングとか言ってましたけど」

「何のトレーニングですか」

さあ、と母親は曖昧な返事をした。

いつ戻って来るのかもわからないと母親は首を振った。

そうですか、と木崎は残念がった。

今日、この時間に家庭訪問がある事は前もって連絡してある。という事は大吾はこの場にいたくなかったのだ。しばらくは帰って来ないだろう。

「大事な話なので、大吾くんにも居てもらいたかったんですが」

「ええ」

「高校受験の事です。クラスで大吾くんだけ志望校がわかりません。どこを受験するつもりなんでしょうか?」

「それが・・・」

母親は困惑して、視線を泳がせた。

「高校へは行かないと」

えっ、と木崎は驚いて、口に運びかけた湯飲み茶碗を止めた。

「行かないんですか?」

「本人が言ってました」か細い声で母親は答えた。

「それでは就職するとか、専門学校に行くとかですか」

A組でも二人、高校へ進学しない生徒がいる。一人は美容師志望の女子生徒で、もう一人は家業を継ぐと言っていた民芸作家の息子だった。二人とも勉強が大嫌いで、はなから高校は諦めていた。

母親は違います、と首を振った。

「ゴルフですって」

「ゴルフ?」と木崎は聞き返した。

「プロゴルファーになるから、ゴルフスクールに通う。それも海外の、と言ってました」

あまりにも突拍子もない話で、木崎は面食らった。

中卒でゴルフ学校に行く? しかも海外?

「本当にそんなことを彼は言っているのですか」

申し訳なさそうな顔で母親は首を縦に振った。

木崎は思った。・・・あるいは自分の知らない、そういう道も世の中にはあるのかもしれないな。だがそれは田舎の中学教師には全く思い付きさえ出来ない、想像外の、雲を掴むような話だった。

木崎は再度確認した。

「大学へは行かないのですか」

三浦大吾なら、将来、有名大学にも行けそうに木崎は思えた。

「気が向いたら大検を受けて行くとか」

なるほど大検か。それなら木崎にもリアリティを感じられた。不登校の子供が社会問題になった昨今、大検が脚光を浴びてきたのは知っている。

「そういうのってお金がかかるでしょう。海外のゴルフスクールなんて。失礼ですが、それほど裕福には見えないのですが」

母親は近所のスーパーで働いている。今日もわざわざ休みをとって時間を作ってもらったのだ。彼女は慣れない仕事のせいか、かなり疲れているように見えた。

「確かに生活は楽じゃありませんが、ここは家賃とかかかりませんし。それに夫の蓄えと保険金があるので」

三浦大吾の父親は東京で敏腕弁護士だったと聞いた。その父親が亡くなって、東京の私立中学を辞め、母親の実家に戻って来たのだった。その辺りの経緯は大まかに木崎も掴んでいた。

もう一つ、大吾の事で気になっていた事を木崎は聞きたかった。

しかし、それをどう切り出していいか迷っていた。

「東京の私立はお金がかかりますものね」

と木崎は言ってみた。

いえ、と母親は首を振る。

「お金の問題じゃないんです。私立中学を辞めたのは」

「そうなんですか」と木崎はとぼけてみせる。

「イジメが原因です」と母親は顔を歪めた。


木崎は三浦大吾が東京の私立中学を辞めたのはイジメが原因だと知っていた。

ただ、具体的にどんなイジメかは知らされていない。前中学から送られてきた内申書には成績と共に「イジメ」の事が記されていた。が、詳細は書かれていなかった。

だからA組で、もしイジメが発生したら、そのターゲットは三浦大吾になるかもしれないと危惧していたのだった。

まさか、森麗奈がそうだったとは思っていなかった。

大吾が高校に行きたがらないのは、イジメが根底にあるのではないかと木崎は考えた。

木崎はその心配はないと言いたかった。

「東京と違って、こっちはそんなに殺伐としていませんよ。現に大吾くんは学級委員までやってますし、仮に高校に行ってもイジメは大丈夫じゃないでしょうか」

木崎がそう言うと、母親は眉根を顰めた。

違うんです、と彼女は苦しそうに言葉を吐いた。

「大吾は加害者です。イジメをしていた方です」

木崎は絶句した。

「本当ですか」

「ええ」

あの子がイジメをしていた? 想像できない。

「どんな風に?」

木崎は思わず踏み込んで聞いた。

母親は黙り込んだ。言いたくないのだろう。それはもっともだと思った。自分の息子の暗部なんか母親なら喋りたくない。

沈黙がしばらく続いた後、彼女は口を開いた。

「・・・突然、同級生を殴りました。相手の子は大吾の親友でした。それなのに」

「理由は何だったんでしょうか」

「それがわからないんです」

理由を大吾は喋らなかったそうだ。きっとよっぽどの事があったのだろうと木崎は思った。

「ひょっとしてお父さんの死と関係あるのではないですか」

「あるいは・・・そうかもしれません」

苦悩の表情を浮かべたまま母親は言った。

両親の死が原因で性格が一変する子供はいる。喪失感に伴うストレスだ。

でも、と母親は続けた。

「大吾が変わったのは、もっと前なんです。小学三年生の頃からです」

母親は視線を壁際のタンスの上に向けた。

そこには家族写真が飾ってある。

「大吾には二つ下の弟がいました」

父親と母親と小さな男の子二人。男の子二人はそっくりの顔だった。

頭一つ高いのが大吾だろう。大吾以外はみんな微笑みを浮かべている。

キャンプに行った時の写真らしかった。

『一九九二年八月四日、丹沢にて』というキャプションが付いていた。

「弟の方は亡くなりました。ちょうど、あの写真を撮った直後に川で溺れて亡くなったんです」

それはお辛かったでしょうと言って、木崎は写真から目を外した。

「ええ。ちょうどその時、私は川原で食事の用意を、主人は釣りをしていたんです」

最初は口ごもり気味だった母親だが、喋り出したら、言葉を止めなかった。

ここまで話したらすべてを吐き出したい気持ちになったのかもしれない。

木崎は黙って聞くことにした。

「大吾と弟の祥吾は、橋を渡っていました。橋と言っても、川幅のないところにかけられた簡易的な橋です。地元の釣り人が使うんでしょう。木の板で出来ていて、ロープで吊るされていました。長さは十メートルぐらいでしょうか。仮に落ちても大人ならどうってことないです。川の流れが速いといっても足が川底に付きますから。辰雄も釣りをしながら二人が視界に入っていて、危険はないと思っていたようです。二人の川下にいましたから」

辰雄というのは主人のことです、と彼女は言った。

「先頭は弟の祥吾でした。祥吾は『怖いよ』と言っていたようです。後ろの大吾が『早く渡れ』と急かしていたと主人が言ってました」

木の板が腐っていたんでしょうね、と母親は言った。

「祥吾が落ちて、そのまま仰向けで川に流されました。ゆっくりと線路の枕木のような木端と一緒にどんぶらこって感じだそうです。大吾はちょっと笑い声を上げたそうです。大事になるとは思っていなかったのです。主人も同様で、簡単にキャッチできると思い、釣り竿を置いて流れの下手で弟を拾い上げようと川の中央に入って行きました」

ところが自然を舐めていました、と母親は目を伏せて言った。

「主人は水に足を取られ、なかなか前に進まなかったのです。川の中央は見た目以上に川底も深くなっていました。それでも、主人は最後は飛びついて祥吾の足をキャッチしたんです」

でも、と母親は目を伏せたまま言った。

掴み切れなかった、と。

「私は、主人が大声で『誰か助けてくれ』と叫んで、初めてその事に気付きました。私が見た時には祥吾の姿はもうありませんでした」

母親は深い溜息をついた。

「それ以来、大吾の様子が変わった気がするんです」

母親は視線を上げて、木崎の顔を見た。

そして湯呑のお茶が冷めていることに気付き「入れ直しますね」と立ち上がった。

木崎はそれを制して「もう、おいとましますから」と断った。

木崎は一つ、疑問に思っていた事があったので、最後に尋ねた。

「大吾くん、相手を殴ったぐらいの事で東京の学校を辞めることはなかったんじゃないですか」

子供同士の喧嘩なんか日常茶飯事ですよと木崎は言った。

とんでもない、と母親は顔を小さく振った。

「あの子は、突然キレて親友を滅茶苦茶殴ったんです。相手の子は鼻と顎を骨折してしまって。入院までしました。主人の同僚の弁護士さんが何とか示談にしてくれて済んだんですけど。相当な問題になったんです」

息子は学校を辞めたんじゃなく、辞めさせられましたと母親は言った。

「強制退学です」



中央公園の木々の影に大吾は身を潜めていた。木崎が白いカローラを発進させたのを確認してから家に戻る。

母親は台所で夕飯の準備をしていた。

大吾は掘り炬燵のある部屋に向かい、タンスの上に置かれている写真立てを取る。

写真立ての向こうに隠してあったボイスレコーダーを上着のポケットに突っ込むと二階に上がった。

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