第20話
一台のマイクロバスが伊良湖岬の突端にある旅館のロビーに到着した。
マイクロバスからは中学生の子供達が次々と降りて来る。
渥美半島は、温泉と海の幸を楽しむことが出来る県内有数の観光地だが、訪れるのはリタイヤした年配者、もしくは会社の慰安旅行の人が主だった。
したがって大勢の中学生が十二月の末にここに来るというのはいささか奇妙に映った。
しかも、どの子供たちにも笑顔が見えない。どこか悲壮感さえ漂わせている。
村上健太もその中にいた。
これから冬休みの二週間、この旅館に泊まり込んで勉強漬けの日々を送るのだ。
彼らにはクリスマスも正月もない。
健太が通っている進学塾、毎年恒例の行事だった。
参加は任意だが、ほとんどの塾生が申し込んだ。費用は十五万円。名門私立校を目指すようなリッチな家庭にとって十五万など、はした金に過ぎない。
朝六時の起床から夜十時の就寝までみっちりとタイムスケジュールが組まれ、それを機械的にこなしていく。
この二週間の合宿をクリアーすると、受験に成功するというのが、売りだった。
塾生には必勝のハチマキを巻かせ、モチベーションを上げていく。
一番前にはビタミン類のサプリ、ブドウ糖補給のための飴、眠気覚ましのガムなどが山積みされていて、生徒たちはそれを口にしながら勉強を続けた。
「村上、ちょっといいか」
塾の講師の一人が健太を呼んだ。参考書に齧りついていた健太は頭を上げ、「はい」と言って立ち上がった。
「一息入れよう。話もあるし」
講師はちょっと歩こうと言って、旅館の前の海岸に健太を連れ出した。
真っ白な砂浜が面前に広がっていた。海は濃いブルーだ。
「調子はどうだ?」
「あまり上がってません」
そうか、と講師は海を見ながら呟いた。講師の名前は朝倉。朝倉は健太の成績の現状など、とうに把握している。何故、そんな事を聞くのかと健太は訝った。
「やはり東英学園にこだわるか」
そういう事か、と健太は思った。
「今の成績では無理だから旭台に落とせ、という事ですか」
進学塾の最大の宣伝は合格実績だ。健太が東英学園に受かればそれでいいが、受からなければ実績として残せない。それならば旭台高をということになる。
旭台は県下では二番目の名門私学だが、東英学園とは大きな差がある。
「まあ、受けるのはお前だけどな」
「先生も東英学園出身ですよね」
朝倉は頷いた。
朝倉は出身大学が慶応。この塾の講師はその他、同志社、中央、東京外大、上智など有名校出身ばかりだった。中学の教師のほとんどは教育大卒だから、学歴では断然勝っている。
健太はその点だけでも、中学の教師を蔑み、講師の方を尊敬していた。
「東英学園は中学入試より高校入試の方がはるかに難しいことは知ってるよな」
「はい」
「ズバリ言うが、中学受験で失敗した奴が高校入試で成功する確率は、ほぼゼロだ」
「ゼロ、ですか」
健太はショックを受けた。信頼している講師から死刑宣告を受けたようなものだからだ。
「東英学園は定員が四百人。そのうちの三百五十人が中等部からの内部進学者。残りたった五十人が高校からの受験組だ」
つまり、中学入試で失敗して、もう一度東英学園を受けても受からないんだ、と朝倉は言った。
「可能性は小さくても五十人は受かるじゃないですか」
健太は反論した。
「その五十人は、中学受験などしていない奴らだよ。あいつらはろくすっぽ勉強してなくても簡単にどこにでも受かるようなIQを持ってる天才ばかりだ」
IQ、それを言われると健太は絶望的になる。努力ではどうにもならない。健太は自分のIQがどれくらいか良く知っていた。
「それでも東英学園を受けてみたいんです」
健太は言った。今、ここで東英学園を諦めると、これまでの自分の人生すべてを否定することになると思えたからだった。
そう言うと朝倉は「よし、わかった」と健太の肩を叩いた。
「だったら、戻って戦おう」
旅館に戻りながら、健太は思った。野口珠緒は俺よりIQが高いんだろう。だからイラつくんだ。
・・・IQか。彼の頭に、もう一人、別の顔が浮かんだ。
奴は転校してきたばかりで数学の授業なんか受けてなかったのに、あの難問を解いた。あいつのIQはいったい、いくつなんだろうか、と。
岡田りえは手提げ袋を持って、森麗奈の大きな邸宅の前に立っていた。
少し躊躇してから、チャイムを鳴らす。
応対に出たのは女の人の声だった。期待していた人物ではなかったが、だからと言って引き返す事は出来ない。
「同級生の岡田です」と告げた。
ちょっと待ってね、と返事が来て、すぐに麗奈の母親が出てきた。
「よく来てくれたわ。寒いでしょう? 中に上がって」
洋間のリビングの向こうに和室が見える。
そこに花とキャラクターグッズに囲まれた小さな祭壇があった。
りえはまず祭壇に向かった。どうやるんだろうか。作法とかわからなかったが、とりあえず線香に火をつけて、立て、そして一生懸命拝んだ。
祭壇の麗奈の写真はアイドルのブロマイドのように可愛らしかった。
母親が「麗奈、お友達が来てくれたわよ。良かったわね」と涙ぐみながら言った。
「さあ、こっちでお茶にしましょう。美味しいケーキもあるから」
母親が手招きした。
りえはペコリと頭を下げ、リビングの席に座った。
紅茶とモンブランのケーキが出された。
紅茶のカップに手を出す前にりえは手提げ袋から、自分の母から渡された煎餅の包みを差し出した。
「これ、母から」とだけ言った。何故、こんなものを持っていくのかわからなかったが、それが礼儀だとりえの母は言った。
麗奈の母親が微笑んだ。
「ありがとう。気を使わせてしまったわね」
手提げ袋の中にはもう一つ渡す物がある。
前回、この家に遊びに来た時に借りたレコードだった。
りえはそれも取り出した。
プラターズのレコード。
「それは主人の物だから直接渡してあげて。今、犬の散歩に行ってるの。じきに戻ると思うから」
きっと、主人もあなたに会うのを楽しみにしているはずだから、と。
りえはそう言われて耳が赤くなった気がした。
私は彼に好かれているのだろうか。だったら嬉しい。
麗奈の母親は上品でとても美しい人だった。名前は忘れたけど、こんな感じの女優さんがいたなと思った。着ている服もこのままどこに出かけても問題ないように着飾っている。体形も全然崩れていない。自分の母親は中年太りで、家ではだらしない恰好をしていた。とても同年代には見えなかった。
麗奈の母親と差しさわりのない話題を交わしていたら、小型犬の鳴き声とともに玄関がバタンと閉まる音が聞こえた。
「ちょっと待っててね」と麗奈の母親がリビングを出て行った。
りえは胸が少しだけ高鳴った。
「いらっしゃい。来てくれて本当に嬉しいよ」
麗奈の父親が笑顔を見せた。
また音楽聴いて行くかい?
と彼が言ったので、りえは「はい」と答えた。
二人で地下のオーディオルームに降りた。
りえは借りていたプラターズのレコードを棚に戻そうとした。
「そのレコード、君が貰ってくれてもよかったんだよ」と麗奈の父親は言った。
「でも、私の家、もうレコードプレイヤーがないんです」
昔は、りえの家にもレコードプレイヤーがあったらしい。かなり古い代物で長方形の家具調の物だったと母は話した。しかし、近所のゴミ捨て場に母親が邪魔だと言って捨てたということだった。りえがまだ小さい頃の話で、りえにはレコードプレイヤーの記憶がない。両親は六十年生まれだからレコード世代なのだが、新し物好きの彼らには不用品だったのだろう。
「今はCDの時代だからなあ。しかしもったいない。それ五、六十年代に作られたアンティーク物で価値が出るかもしれなかったのに」
そう言えば、捨てて一時間もしないうちに誰かが持って行ったと母が笑った。「物好きもいるものね」と。
価値がわからないのはうちの両親の方だったんだとりえは思った。
「じゃあ、そのレコードはどうやって聴いたのかな?」
「親戚のお兄ちゃんの所でカセットにダビングしました」
それは面倒だったねと彼は笑った。
「今度からはここでダビングして行くといい。カセットでもMDでも録音できるから」
ありがとうございます、とりえは言った。
後ろめたい気持ちもあったが、今日が最後だと思っていたのに、またここに来られるかと思うと、りえの心は弾んだ。
聴きたい音楽はある?
と彼が聞いた。りえは首を振った。
「じゃあ、適当に選ぶよ。気に入るといいけど」
かけたレコードはドゥービー・ブラザーズ。
軽快な音楽が大きなウッドスピーカーから流れた。
「気分を紛らわすにはノリのいい音楽がいい」と彼は言った。有名な曲なんだろう。二曲目の曲は、りえにも聞き覚えがあった。
ソファーに座るように彼がりえを促した。
りえが座ると、彼も横に腰かけた。
しばらくは音楽を聞いていた。
三曲目が流れ始めて、りえが尋ねた。
「これなんて曲ですか」
チャイナ・グローブ、と彼が答えた。
「このリフ、聞いたことあります」
たしかテレビのCMかなんかで・・・と言ったところで、りえの手の上に、彼が自分の手を重ねてきた。
りえは驚き、顔を上げた。
彼は涙を流していた。
「麗奈はここにはほとんど来なかった・・・一緒に音楽を聴きたかったし、世の中には素晴らしい事が一杯あるって教えたかったけど」
彼は目を細めて麗奈について少し話をした。
りえは黙って話を聞いていたが、頭の中では別の事を考えていた。
年の差は二十五ぐらいか。やはり親子にしかならないか。
だけど親子でもいいとりえは、その時思った。
「まだ人生は始まったばかりだったのに」
彼の涙が零れ落ち、ソファーに染み込んでいく。
りえは、もう一方の手を回し、彼の手の上に自分の手をしっかり重ねた。
「一つ、教えておきたい事があるんです」
りえは言った。
「今は確証がないんで言えないんですけど、証拠を掴んだら必ず話します」
「大事な事?」
はい、と岡田りえははっきりと返事をした。
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