第17話

「今日は先生からみんなに話したいことがある」

と木崎は言った。

木曜日の六時間目。

道徳の時間だった。

「この中で塾に通っている者は? いたら挙手してくれないか」

クラスの半数ぐらいが手を挙げた。

わかった、と木崎は手を下ろすように言った。

「塾も学校も勉強する場所だが、違いがある。それがわかる人?」

川崎、どうだ?

木崎は前に座っている男子生徒に尋ねた。

川崎はちょっと考えてから、たぶんと言った。

「たぶん、塾は勉強だけやる場所だけど学校はそうじゃない」

木崎はゆっくりと頷いた。

「その通り。学校は勉強以外の事もいっぱいやらなくちゃいけない。掃除、部活動、運動会に文化祭、遠足・・・。君たちは朝八時に家を出て、部活がある時なんか夕方の七時まで学校で過ごすこともあるだろう? そうなると十時間以上も学校にいることになるわけだ」

一番後ろの席に座っていた岡田りえは、静かに教室の後ろの扉が開くのに気付いた。誰かが教室に入ってきた。その人の顔を見て「あっ」と思った。

森麗奈の父親だった。

「つまり、君たち中学生は一日の大半を学校で過ごすことになる。『社会』という言葉があるが、君らにとって社会はまさに学校なんだよ」

木崎が視線を麗奈の父親に一瞬向けたのに、りえは気付いた。りえは木崎がこれから何を話すのか見当がついた。

「大人社会でも色んな問題が起きる。深刻な問題が次から次へと。まあ、ニュースを見ていればわかると思うが」

社会がうまく機能するためには、と木崎は話を続けた。

「人々が協力しなくちゃならない。ルールを守り、自分のやるべき事をやる。役割を担い、ズルをしない、そんな事が必要だ」

俺は残念ながらこのクラスではそれが出来ていないと思う、と木崎が言った。

「文化祭の話を聞いた。男子は反省して欲しい」

ミニサッカーをやっていた男子生徒は一斉に下を向いた。

「社会にとって何が一番必要か、少しみんな考えてくれ」

木崎は沈黙し、生徒に時間を与えた。

「思い付いたら手を挙げて発言してくれないか?」

ポツ、ポツとまばらに手が挙がった。

法律、家族、仕事、病院、国会、役所・・・そんな答えが出てきた。

「三浦、お前はどう思う?」

学級委員である三浦大吾に木崎は正解を期待しているとみんなが感じた。

ちょっと抽象的になるかもしれませんが、と大吾は落ち着いた声で言った。

「人間関係じゃないでしょうか」

木崎は大きく頷いた。

「そうだ。人と人との関係が結局は社会の根っこになっている。他人を信頼する事、他人を思いやる心、それが出来ないと社会は成立しない」

いいか、と木崎は口調を強めた。

「これは君らも同じだ。クラスで除け者にされたり、意地悪をされたら、学校なんか来たくなくなるだろう?」

木崎が再び、視線を森麗奈の父親に向けたのに、りえは気付いた。

あの話をここでどこまでするのか?

りえは、斜め前に座っている新海エリカを見る。後ろ姿からは表情を窺えなかった。

「イジメは大人社会でもある。だから当然、子供社会にもあるんだ。なぜなら子供社会は大人社会の雛型だから」

『雛型』って何ですか?と川崎が聞く。

あっ、悪い。ちょっと難しかったかと木崎は口元を緩めた。

「まあ、ミニチュア版って意味かな」

「だから君らだけにイジメはやめろ、みたいな上から目線の命令は出来ないと思う。言うのは簡単だが言えない。その前には、まずは大人社会が模範を示さないと、と思う」

木崎は実のところ、A組にイジメなど存在しないと思っていた。しかし考えが甘かったと痛感させられた。

実はな、と木崎は言った。

「森さん。森麗奈さんなんだが」

花瓶が置かれた空席を木崎の視線が捉えた。

「彼女は、その、イジメられていたそうだ」

教室はしーんと静まり返っている。息さえ止めているような静かさだ。

「それでな、少しみんなには考えてもらいたいと思って」

これは一人一人の意識の問題なんだと木崎は強調した。

「森さんはもういない。過去は変えられない。イジメをしていた者も後悔していると思う。その者を責めても今さら何も解決しない」

木崎は新海エリカを何気なく見た。下を向いていて、まったく顔を上げようとしなかった。

「大事なのは、明日からの君らの行動なんだ。三年生だから受験の事で頭がいっぱいだろう。みんな自分の事で精一杯かもしれない。でも、他人を思いやる事はできるはずだ」

木崎は白紙の用紙を生徒に配った。

「残った時間で、今日の話で思った事、感じたことをなんでもいいから書いてくれ。それでこの授業は終わりだ」

プリントを配ると、生徒たちはさっそく鉛筆を走らせた。


木崎は教室の後ろに向かって歩き、森麗奈の父親に会釈すると、後ろのドアから一緒に廊下に出た。

麗奈の父親は「無理を叶えてくれて有難うございました」と木崎に頭を下げた。

「ご不満かもしれませんが、これが精一杯です」

いえ、と彼は言った。

「今わかりました。これは自分本位の我儘だったんだと。麗奈はイジメが原因で死んだわけではないのですから。もちろん娘をイジメていた新海さんに恨みがないわけではないですが。でも一番憎いのは自分自身なんです」

父親は唇を噛んだ。

「結局、娘が悩んでいたのに気付いてやれなかった。助けてやれなかった。その思いが強いんです」

わかります、と木崎は言った。木崎とて同じ気持ちだった。

「先生が言っていた『過去は変えられない』・・・本当にその通りです。変えられません。だから明日がより良くなればと。娘への贖罪の気持ちも含めて、先生にご無理を言ったんです」

森麗奈の父親は深くお辞儀をして、帰っていった。


木崎は生徒が回答した用紙を持って職員室に戻った。

別にこれに評価点をつけるわけではない。本当に生徒がどう感じているのか知りたかったのだ。


白紙のままが五枚あった。名前も書いてない。

村上健太や野口珠緒、藤井美穂ら優等生は長文を書いて出した。優等生らしい模範解答だった。木崎が「おっ」と思ったのは鮎川若葉の感想だった。イジメについて独自のアプローチをしている。

その他、森麗奈に対して「ひどい事をした」という謝罪のようなのが二つ。ノリでやってしまった。森さんがそこまで悩んでいるなんて知らなかった。自分が仲間外れにされるのが怖かったなどと書いてある。

新海エリカのグループに属する女子生徒のものだった。

「ごめんなさい」とだけ書かれた用紙が一つ。

名前はない。おそらくこれが新海エリカだろう。筆跡で分かる。

しかし、何故新海がそこまで執拗に森麗奈をイジメていたのか、その原因はわからずじまいだった。木崎には、新海がそんな事をする生徒には見えなかったのだ。

木崎はある一人の生徒の回答を知りたかったが、その生徒の回答は見つからなかった。

白紙の中の一枚かと少し残念に思った。

パラパラッと生徒の回答に最後まで目を通してから、その束を引き出しにしまった。

子供とは言え、感受性や考えは本当に人それぞれだと木崎は思った。今日のようなシリアスな内容の授業でさえ、悪ふざけの回答があったのだ。

そこにはこんな事が書かれていた。

「森麗奈は殺された。これは殺人事件です」と。

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