第13話

鮎川陽子は、誰もいない自宅に帰って来た。

時刻は午前十一時半。

もうお昼の時間だが、食事をする気にはなれず、水を一杯だけ飲むとキッチンにあるテレビを付けた。

つい今まで高校時代の友人らと喫茶店でお喋りをしていた。

毎週水曜日のお決まりだ。市内の喫茶店でモーニングをとりながら心ゆくまでお喋りを楽しむ。

この辺りでは、コーヒー一杯の値段で、厚切りトースト、野菜サラダ、茹で卵が出てくる。充分ブランチ代わりになった。

話の内容はほとんどが夫の悪口になってしまう。

みんなそれなりに不満を持っているので、いいストレス解消になる。

友人の一人、小百合は早婚だったので、既に子供が独立していた。

夫は単身赴任でいない。だから家事に縛られない。好きな時間に寝て、好きな時間に起き、食べたい時に食べる。掃除や洗濯も気が向いたらやればいい。

「小百合はいいわねえ」と陽子は羨ましがった。自分も早くそういう身分になりたいものだと彼女は思った。

中学生の若葉が二十歳になるまで後五年か。

あの子は短大ぐらいには行くのかしら。

結婚はどうだろう?

確か野球部の沢村くんと付き合っていたわね。案外、小百合と同じで十代で出来ちゃった婚だったりして。

そんな事を考えながら、ぼんやりとテレビを見ていたら、ニュースで、またあの「幼女誘拐殺人事件」をやっていた。

知れば知るほど気持ち悪い事件だったが、そのニュースはすぐに終わり、この地方のローカルニュースに切り替わる。

最初に交通事故のニュース。愛知はまた全国ワーストの事故死になりそうだとアナウンサーが言っている。

『・・・続きまして、一昨日、五日の深夜、豊石市花山町の緑台小学校に何者かが侵入し、学校で飼育されていたウサギやニワトリ数匹を殺害した模様です。朝、登校してきた児童によって発見されました。警察によりますと、バットか金属棒のようなもので撲殺されたという話です。豊石市では、ここひと月の間に、小中学校の飼育小屋を襲った事件が頻発しており、警察は関連を調べています』

陽子はぎょっとした。

自分の住んでいる町でも、物騒で気味悪い事件が起きている。

あの関東の事件がここで起きてもなんの不思議もない。

嫌な世の中になったものだわ、と思った。



三浦大吾の作った謎解きコールドゲームの第五問、すなわち最終ステージにまで進めたのは結局、若葉、珠緒の『ユウトウセイ』組と健太、エリカの二つのチームだけだった。

男子達はすぐに投げ出し、女子達も途中で挫折した。

少し難しすぎる、とみんなが思っていたようだった。


学校の図書館に、その二チームがいた。

図書館で調べなければゲームの答えはわからない。

最初の数学の問題は若葉は相当な難問ではないかと思った。玉緒でさえ、解くのに三十分以上費やしている。ただその数学の問題は一見、簡単に解けそうに思える図形の問題だった。だから若葉も、もうひとりのメンバー藤井美穂も挑戦した。

ところが、どんなに考えてもけっして解けなかった。

「後は珠緒に任せるわ」

そう若葉は言って、二問目、三問目を美穂と協力して取り掛かることにした。

二問目はすぐに答えが分かった。県内にある「茶臼山」だ。

三問目は、また難問だった。

ヨーロッパの建築物らしいが、それほど有名な建築物ではないようだ。図書館にある西洋史や建築物にかんする本などを手あたり次第に手に取って調べたが、なかなか判明しなかった。

三十分ほど、書物を漁っていたら、美穂が「これじゃない?」とある本に掲載されている写真を指さした。

「ワルシャワラジオ塔、だって」

「何それ?」

「知らないけど」

珠緒に報告しに行くと、ちょうど珠緒も「解けた」と小さく声を上げたところだった。

「本当?」

珠緒はたぶんね、と言った。

「答えは21よ」



村上健太は、最終ラウンドの数学の問題を見て、言葉を失った。

なんで、こんな問題出しやがるんだ、三浦大吾のやつは、と心の中で毒づいた。

健太の心には、苦しみや悲しみ、悔しさが次々と吹き上がっていた。それは思い出したくもない感情だった。

新海エリカが「まだあ?」と間抜けな顔で覗き込んできた。

「うるさい」

と健太は声を張り上げた。

図書館にいた他の生徒が一斉に健太を見た。

「何怒ってるの? バカじゃない」

エリカが文句を言う。

「うるさい」健太はもう一度言った。

エリカは「なによ」と言って、ふくれっ面をし、傍を離れた。

遠くのテーブルに野口珠緒が座っている。おそらく同じ問題を解いているのだろう。

彼女はちょうど今、問題が解けたらしい。その姿が健太の視界に入って、さらに血が頭に上った。

よりによって珠緒に先を越されたのだ。

健太はその瞬間、もうどうでもよくなり、問題の書かれている紙を丸めて放り投げた。

「こんなのは数学じゃない」と吐き捨てた。



『ユウトウセイ』三人は屋上への階段をゆっくりと上がった。

非常扉は空いている。

開けると、三浦大吾がいた。

彼はフェンスにもたれかかっていて、若葉達に気付くと目を細めた。

「おめでとう、優勝は君たちだよ」

パチパチと二、三度手を叩く。

しかし浮かない表情をした。

「でもさ、なんか、シラケちゃったみたいだね」

屋上から中学校のグランドが見えた。

グラウンドの隅でA組の男子がまだミニサッカーをやっていた。

「そんなことない、けっこう楽しめたよ」と若葉は言った。

でも問題難しすぎ、と珠緒が笑った。

「はい、これで合ってる?」と解答を見せる。

大吾が一瞥した。

「大正解」

「この校舎、高さ二十一メートルもあるんだ、知らなかった」

珠緒が言った。

茶臼山は県内最高峰。ワルシャワラジオ塔は世界でもっとも高い建造物。そしてこの敷地内でもっとも高いのは二十一メートルの校舎の屋上。

「あの数学の問題は三浦くんが考えたの? 難しかったわ」と珠緒は尋ねた。

すると大吾はまさかと言って、首を振った。

「あれ、数学じゃないよ。ただの算数。小学生が解く問題」

「本当?」若葉が驚く。

「有名私立中学の入試問題をそのまま出した」

そう言えば、と珠緒が言った。

「難関私立中学の入試問題は東大生でも手こずるって聞いたことがあるわ」

歪んでるね、と大吾は薄く笑った。

大吾はこの企画は失敗だったと呟いた。

若葉はそうは思わない。

発想は良かったし、充分楽しめた。ただ、もっと問題が簡単な方がみんな脱落しなかったかもしれない。特に第二ステージ。

あれでほとんどが脱落した。たぶん男子もあの問題でギブアップしたのだろう。

それにしても、女子バスケの鳥羽亜紀さんのコートネームの事は誰から聞いたのだろうか。


大吾は屋上のフェンスの金網を両手で掴んで、「見晴らしは最高だよ」と言った。

「僕は高いところが好きなんだ。俯瞰とか鳥瞰とか言う言葉があるけど、すべてを見通す目みたいな感じがいいんだよね」

「三浦くんは政治家とか向いているんじゃない?」

珠緒が言った。

若葉も三浦大悟ならなれそうな気がした。

「いや、政治家は無理」

「注目されるのが好きでしょ?」

「どうかな」

「じゃあ、何になりたい?」珠緒は大吾の顔をマジマジと見ている。

透明人間、と大吾は真顔で答えた。

「なんだ。三浦くんも男の子なんだね」

あははと女子三人が一緒に笑い声を上げた。



給食の時間になって男子がゾロゾロと教室に戻ってきた。

「謎解きコールドゲームに優勝したのは鮎川さん、野口さん、藤井さんのチーム」と大吾が発表した。

優勝は座席を選べる事だったが、それは辞退することにした。

珠緒がエリカに遠慮したのだった。若葉は座る席なんてどこでもいいと最初から思っていた。


給食の準備をしている時、担任の木崎が「あれ、女子が少し足りないんじゃないか」と言った。

確認すると、岡田りえ、森麗奈、山田晴美の三人がいなかった。

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