第12話

岡田りえの『オタク・カゲジョ』チームは、理科室に最後まで残っていた。

山田晴美は英語の辞書を、森麗奈は日本史と社会科の本を携えている。

別に調べてはいけないなんてルールはなかった。始めからそうすれば良かったのだ。

りえは数学だけは得意だったので、最初の一次方程式は彼女が解いた。

残りの二問は森麗奈と山田晴美に任せた。

森麗奈は教科書を開かなかった。頭の良くない麗奈でも答えはすぐに出た。

源義経。

一方、山田晴美は手こずっていた。

一つ一つ英単語を調べていく。りえも英語は得意ではない。しかし、りえから見ても簡単と思える英単語まで晴美は調べている。

りえは口出ししなかった。時間はいくらでもある。別に優勝したいわけではない。単なる暇つぶしだ。本音を言えば、MDプレイヤーで音楽を聴きたいぐらいだった。

晴美が一生懸命、英語の辞書を捲っている間、りえは麗奈とお喋りをしていた。



先週末、りえは森麗奈の自宅に遊びに行ったのだった。

森麗奈は裕福な家庭の子供だった。

コンクリート建てのモダンな自宅。

高い外壁で囲まれ、車庫には白の高級車とクリーム色の軽。そしてもう一台、紺のスポーツカーが停まっていた。

家に入ると、吹き抜けの玄関ホールに大理石の床。

玄関で待っていると麗奈が階段を半分だけ降りてきて微笑みながら手招きをした。

麗奈の部屋はいかにも女の子という感じの部屋だった。

淡いピンクの壁紙に可愛いキャラクターグッズの数々。

白いベッドはレースのカーテンに包まれた天蓋付き。

壁には男性アイドルグループのポスター。

りえとは相容れない趣味。もちろんりえも、はなから麗奈と趣味が合うとは思っていなかった。

それでもせっかくお呼ばれしたのだから、とりえなりに気を使った。

「これ、可愛いね」

整然と並んだグッズのコレクションを指して言った。

「ありがとう。岡田さん良かったらひとつあげようか」

「いいよ、そんなの」

自分が大切にしているキャラクターグッズを簡単にあげようとするなんて、どんだけ人が良いんだろうか。

いや、違うのかもしれないとりえは思った。

麗奈は必死なのだ。せっかく作った友達を失いたくないという気持ちが強いのだろう。

その気持ち、りえにもよくわかる。

りえも教室で孤立していて、休み時間はイヤフォンで音楽を聞きながら、SF小説を読んでいるが、やはり寂しさはある。心の底では友達が欲しいのだ。だからこそ、森麗奈に誘われた時に「行く」と即答したのだった。

寂しいのはみんな同じ。

りえは本棚にぎっしり詰まった少女漫画を見て、言った。

「あれ、読んでいいかな」

「もちろんよ」

三時間ぐらい麗奈と雑談しながらコミックを広げた。

退屈と言えば退屈だったが、りえは気分が良かった。

退屈だけど心地よい不思議な感覚。友達ってこういうものかもしれないなと彼女は思った。趣味が合う合わないの問題じゃない。相手を気遣えるかどうかの問題なんだ。

麗奈が楽しそうだったので、地下のオーディオルームの話は切り出せなかった。まあ、いいかとりえは思った。

夕方近くになったので、そろそろ帰ろうかなと思っていると、麗奈が思い出したように言った。

「岡田さん、音楽を聴きに来たんだったわよね」

麗奈に案内されて、地下のオーディオルームに行くと、そこには膨大な数のレコードがあった。りえはその光景を見て圧倒された。

ブルース、ジャズ、ロック、カントリー・・・ジャンル別かつアーティスト順に整然とラベリングされている。

部屋の中心にはウッド製の大きなスピーカーがあり、スピーカーが両隣りを挟むように、四段式のラックとレコードプレイヤーが配置されていた。

チューナーやカセットデッキやアンプ類と円盤状のレコードプレイヤー。

すべてが銀色に輝いていた。

りえはレコードというものを聞いたことがなかった。

手に取ってみるとCDとは比べ物にならないぐらい大きい。

レコードジャケットは、アートのように見えた。

「どうやって聴くの?」

麗奈に尋ねると、彼女は適当に一枚レコードを取り、かけてくれた。

『アズ・ティアーズ・ゴー・バイ』

ジャケットの左上に「ローリング・ストーンズ来日記念発売」と書かれていた。

流れてきたのは静かな曲だった。

麗奈は好きなだけいていいから、とそのまま自分は部屋に戻っていった。

彼女は古い音楽に興味はないようだ。

ステレオセットの前には横長のソファーが置かれている。

りえはそのままソファーに座り、しばらくその音楽を聴いていた。

「今時の中学生にもストーンズはいいのかね」

男の人の声がして、びっくりしてりえは立ち上がり、「お邪魔しています」と言って慌てて頭を下げた。

麗奈の父親だった。

いいから座って、と言う感じのジェスチャーをして、ゆっくりと近づいてくる。口ひげをたくわえた長身の男性だった。

「うれしいなあ。君らのような若い子が古いロックを聴いてくれて。麗奈はまったく関心を持とうとしないから」

そう言って彼は、りえの横に腰を下ろした。強めの男性コロンの匂いがした。

「君はどんな音楽を聴くんだい?」

りえはちょっとまごついた。変な事を言ったらバカにされるのではないか。

娘はジャニーズのアイドルとか聴いているみたいだけど、と彼は笑う。

「ブルーカルトとかです」

そう言うと彼は大きく頷いた。

「彼らは素晴らしいね。綺麗なパンクだ。日本にもああいうバンドが出てきたんだって私は驚いたよ」

ストーンズのレコードが終わると、「どれでも好きなのかけてごらん」と彼は言った。

そう言われてもりえは何をかけていいかわからない。戸惑っていると「じゃあ、僕が選んでかけてあげる」

と言って数枚レコードを取り出し、順に音楽をかけてくれた。

サム・クック、アレサ・フランクリン、ジェームス・ブラウン・・・

彼は音楽の事を丁寧に教えてくれた。

「エルビスもストーンズもビートルズも黒人音楽を発展させたものなんだよ。どんな偉大なアーティストもゼロから作ることは出来ない」

迫力ある音楽が次々とウッドスピーカーから流れる。

りえは夢心地の時をそこで束の間、過ごした。



骸骨標本の前で、一生懸命調べていた山田晴美がパタンと英語の辞書を閉じた。

ようやく分かったらしい。

「で、何だった?」

とりえは尋ねた。

「バスケットボール」と晴美は小さく答えた。

「7、バスケットボール、源義経か」

なんだろうね、と森麗奈が顎に手を当てて、考える仕草をする。

すると、山田晴美が突然「あっ」と声を上げた。

普段無口な晴美が急に声を出したので、りえは何事かと思った。

「どうしたのよ」

「私、わかったかも」

そう言って晴美が理科室を勢いよく飛び出した。

りえは驚き、麗奈と顔を見合わせた。

あの子がこんな風に走り出すとは意外だった。二人で急いで追いかけた。

晴美は階段をひょいひょいと駆け上っていく。小さな体にまるで羽が生えているようだった。

息を切らした麗奈が「ちょっと待ってよ」と階段の下で言った。

晴美は少し振り返ったが、待とうとしなかった。

そんなに急がなくても、どうせ私達はビリなんだからと麗奈がぼやきながら登ってくる。

いいから早くと、晴美がニコニコ顔をしている。

りえはこんな生き生きした表情の晴美を見たことがなかった。

どうしたって言うんだろう?

晴美は三年C組の教室に向かうと、誰かを呼んでいた。

一人の女子が出てきた。

「彼女は誰?」

りえが尋ねた。

「部活の友達」

と晴美。

遅かったじゃない、とその女の子は不満顔を見せた。

晴美が紹介した。

「名前は鳥羽亜紀さん」

晴美は言った。「私、バスケ部なの」

りえは知らなかった。こんな小さい子がバスケ部だったなんて。

「亜紀は副将よ。背番号は7。ポジションはフォワード」

彼女、ジョーダン並のプレーをするのよと晴美は自慢げに言った。

「で、彼女のコートネームが『ツネ』ってわけ」

義経の『はっそう飛び』をイメージして付けられたと晴美が説明した。

鳥羽亜紀は微笑んで、封筒を差し出した。

「第三ステージにようこそ。あなた達が一番乗りよ」

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