第5話

村上健太は返却された模試の結果をみてひどいショックを受けた。

第一志望、私立の東英学園の判定はD。

合格圏外だった。

このままでは、東英学園に入る事は出来ない。


東英学園に入ることは健太の小さい頃からの望みだった。

中高一貫校の東英学園は、全国でも屈指の進学校で、名古屋圏では間違いなくトップ高だった。東英学園に入学出来れば、東大や京大への進学も現実味を帯びる。


健太の父親は地元の私大出で地銀に勤めている。

十年ほど前、健太が幼稚園の頃はバブル経済の絶頂期で、地銀勤めの父親も意気揚々だった。その頃、村上家も派手な生活だった。父親は外車を買い、毎週のように一家で外食し、健太にも多くの習い事をさせた。

ピアノ、水泳、テニス、英会話などだ。

しかし九十年代にバブルが弾け、大手の証券会社が潰れた。その後、銀行業界も吸収合併、統廃合の嵐が吹き荒れた。

健太の父親が勤める地銀はまだ辛うじて生き残っているが、明日はどうなるかわからない。

意気揚々だった父親もすっかり自信を失くしている。

そして自信を失くした父親が決まって持ち出すのが学歴だった。

健太の父親は元々、強い学歴コンプレックスがあった。


「せめてメイダイにでも入っていればなあ」

が父親の口癖だ。

この辺りでメイダイとは名古屋大学の事になる。

父親は一浪して、早慶と名大を受け、すべてに落ちた。結局滑り止めの私大を出たのだが、いまだにそれを引きずっているのだ。もう四十になるというのに。

「俺はけっして頭が悪くて早慶に落ちたわけじゃないぞ」

と健太に言った。

「要は環境だよ、環境」

「結局な、まわりがバカばかりだと自分もバカになる、それだけの事だ」

オヤジは負け犬だが正しいと健太は思った。

だから自分も最高の環境にいないといけない。


健太は中学受験をした。周囲に中学受験をした子供はいなかった。

受けたのはもちろん東英学園の中等部。

しかし受からなかった。


中学に入ってからは、高校こそはと強い信念をもって勉強した。

だから中学の勉強など目もくれてなかった。あんなものに精力を使う気は毛頭ない。

事実、テスト勉強などしたことがなかった。

それでも上位の一割には余裕で入れた。

学校の成績はまったく気にしていなかったが、気に食わない事が一つだけある。

それはクラスの野口珠緒に成績で負けっ放しな事だ。

女子に負けるというのも許せなかったが、よりによってあの女に負ける事は健太のプライドが許さなかった。

無論、テスト勉強を本気でやれば絶対勝てるという自信が健太にはあった。

野口珠緒。

小学校時代からあいつは目ざわりな存在だと健太は感じていた。

腐れ縁というか、小中学校を通じて、信じられない事に六回も同じクラスになったのだ。

そしてその度に学級委員と副学級委員のペアを組まされた。


珠緒はクソ真面目で融通が利かない女だった。

忘れもしない。

あれは小六の時だった。クラスの女の子が事故で骨折し、入院した。

それでクラスを代表して学級委員と副学級委員がお見舞いに行くことになった。

クラス全員の寄せ書きの色紙と見舞いのクッキーを持って行くように担任に言われた。

しかし、お見舞いの当日、健太は病院には行かなかった。

その日は、進学塾で大切な模試があったのだ。中学受験を直前に控えた最後の重要な模試だった。それはどうしても受けたかった。

それで野口珠緒に「自分は急用で行けない。悪いけど一人で行ってくれないか」と頼んだ。

プライドを捨て、頭まで下げたのだ。

彼女は口を尖らせ、ダメと即答した。

「だって、先生に二人で行くようにって言われているじゃない」

「そんなもん、黙っとけばわからない」

「行けない理由は?」

「いや、ちょっと」と健太は口ごもった。さすがに塾の模試で行けないとは言えなかった。

珠緒は、ふーんと鼻を鳴らした。

「私、知ってるよ」

「えっ」

「塾でしょ」

「・・・」

半笑いで野口珠緒は言った。

「あんた、東英学園受けるって?」

「なんで知ってるんだ」

健太は本当にびっくりした。

「お母さんから聞いた。あんたのお母さんがそう言ってたって」

健太は自分の顔が赤くなるのが分かった。すべてを知っている。誰にも知られていないと思っていたのに。落ちたらみっともないので黙っていたのに。

「あんたじゃ、受かんないわよ。東英学園」

その一言で健太はキレた。

うるさい、と健太は怒鳴った。

なんて女だ。俺をバカにしやがって。こんな侮辱を許すことはできない。相手が女じゃなかったら殴りかかっていただろう。

「お見舞い、行かなかったら先生に言ってやるから」

珠緒はそう言ったが、健太は無視して歩き出した。

言いつけたければ言えばいい。ともかく、俺は死んでも行くものかと健太は思った。

野口珠緒は先生に密告はしなかった。

だが、中学で顔を合わせた時、「やっぱりね」という見下した表情を見せた。受験に失敗した事を笑っているのか。少なくとも健太にはそう見えた。

本当に忌々しい女だ、と健太は思った。



公立中学の生活は健太にとって苦痛だった。

ここは自分がいるべき場所じゃないと常に感じていた。

だから勉強は塾の方に力を入れ、学校の方は流した。周りにいるやつらを仲間と思わないことにした。自分の本当の仲間はこの学校にはいないと考えた。


憎たらしい女、野口珠緒とは三年でまた同じクラスになった。そしてまた学級委員をあの女とやらされている。

だが、それも後半年の辛坊だ。我慢しよう。そんな事より東英学園合格のために今は気を引き締めなければいけない。


夏休みが終わって、二学期が始まった。

学級委員である健太は珠緒と共に職員室に呼ばれた。

ホームルームの議題について担任の木崎と打合せがあったのだ。

今日の議題は二つあった。

一つは学級委員を含めた各生徒の所属委員会を新たに決めること。

後期はだいたい前期をそのまま引き継ぐのが恒例だった。もちろん変更も可能だ。

このままで行くと、後期も健太は珠緒と引き続き学級委員をやるのが濃厚だった。

もう一つの議題は来月にある文化祭でうちのクラスは何をやるかを決めることだった。


「じゃ、よろしくな」

木崎に言われて、二人は職員室を出た。

「後期は学級委員やりたくないなあ」

健太はわざとらしく呟いた。

「わたしだって、同じだわ」と珠緒が嫌そうに言った。

いつも健太と珠緒はセットで学級委員をやっていたので、村上と野口の二人は付き合っているのではないかという噂が一時流れたこともある。

とんでもない誤解だ。仮に地球上で二人だけになってもそれは御免だと健太はむきになって否定した。

健太は口に出したことはないが、実は好きな女の子が他にいた。

しかし今はそんなこと考えている場合ではない。

東英学園の事だけに集中するんだ。

廊下を歩きながら、健太はナイスアイデアを思い付いた。

試してみるか。

「俺、後期はやらなくてすむかも」

とカマをかけた。

「じゃあ誰がやるのよ?」

珠緒が前を向いたまま聞いた。

「三浦、かな」

転校してきて、まだ三か月ちょっとだが、三浦大吾はA組ではもはや中心人物になっていた。勉強はそんなに出来る感じではなかったが、人を惹きつける魅力を持っている。話も上手い。よく東京の話なんかをする。渋谷や自由が丘や青山がどうのこうのという内容だ。みんなが興味を持つ。とくに女子は。大吾は人に囲まれて話をするのが楽しそうだ。

あいつなら、自分の代わりにこの雑用を引き受けてくれそうだと健太は考えた。

三浦大吾という名前を出したら、珠緒が微妙な表情をしたのに気付いた。

ははーんと健太は思った。

やっぱり、好きなんだなと。

まあ、クラスの女子のほとんどは大吾の事が好きだからな。

ジャニーズのアイドルのような感じだから、モテるのは当然だろう。

どうでもいい事だが、三浦大吾というやつは捉えどころがない部分がある、と健太はひそかに思っていた。

何を考えているのかさっぱりわからない。

テニスでダブルスを組んだ時、健太は最初嫌だった。川崎と組んでいた方がずっと良かったと思った。ただ川崎と組むより強くなれたのは間違いなかった。現に夏の大会では、あと一歩で地区予選突破出来たのだ。

あと一歩?

いや違う。

確実に突破出来たはずだ。

あいつがわざとミスショットをしなければ。

あれは明らかに故意にレシーブをミスしたのだ。

大吾は今日は調子悪いなと苦笑いしたが、突然ド素人みたいにホームランを連発するなんてあり得ない。


試合が終わった後、「何だよ、あれ」と問い詰めたら、大吾は笑いながら「だって村上くん、こんな大会にいつまでも出たくないでしょ」と言いやがった。

図星だった。

塾での成績が頭打ちだったので、それをなんとかしたいと考えていた。早く部活なんて終わればいいと。だが、いったん試合をやり出したら勝ちたい気持ちが強くなる。当たり前の事じゃないか。

もう一つあった。

健太がもっとも気にしていたのは転校してきた大吾がどれぐらい頭が良いのかという事だった。それで数学の時間、返却された大吾の解答用紙をバレないように覗き込んだ。

点数は六十五点だった。ちょうど平均点だ。なんだ、たいした事ないなと思ったが、よくよく大吾の解答用紙を見て、変だなと思った。

その時の数学のテストは一問だけ、難問があった。

解けたのはクラスで三人だけだと数学の教師は言った。

健太と珠緒とそしてもう一人が大吾だったのだ。

大吾は難問が解けているのに、他の簡単な問題で不正解を出し、平均点だったのだ。

あれもわざとか?

でも何のために?

よくわからないやつだ、と健太は首を傾げた。しかし、まあそんなことはどうでもいいか。

珠緒に「三浦大吾を次の学級委員にしたいから協力してくれ」と囁いてみると、否定も肯定もしなかった。

つまり協力するということだ。惚れているからな。やってくれるだろう。

健太は学級委員の雑用と野口珠緒から離れられると思うと清々した。

これで東英学園の受験に専念できるぞ。

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