第3話

校舎の裏門に背中を預けたまま、左手にグラブをはめ、右手で握ったボールをパンパンやりながら、沢村正樹が退屈そうな表情で待っていた。

正樹がこちらに顔を向けたので、若葉は近づきながら、胸元で小さく手を振った。

おせーよ、みたいな顔を正樹は作った。


部活がない日は二人で一緒に帰ることにしていた。

正樹とは中学で結局一度も同じクラスにならなかった。若葉はそれがかえって良かったと思っている。

中学では公認のカップルだったが、同じクラスだと続かなかっただろうと若葉は思った。


「付き合うってどういう感じ?」

と珠緒から一度聞かれたことがある。


中学生カップルの恋愛など知れたものだった。

デートと言っても、たまの休日、映画やカラオケやボーリングに行く程度だ。

豊石市にも映画館やボーリング場ぐらいはあったが、地元で同級生と出くわすのは嫌だったので、わざわざ名古屋まで出かけた。

しかし、名古屋まで行った日に限って、地下鉄や映画館で同級生と鉢合わせしたのだった。

不思議なもので、そういう場面がけっこうあった。

そんな時、正樹は決まりが悪そうな感じで若葉から少し離れていく。

若葉はけっこう平気で、居合わせた同級生が男子だろうと「偶然だね」「これから映画?」みたいな事が言えた。

同級生が去ると正樹が戻って来る。

「勝手にフェードイン、フェードアウトするな」

と若葉が怒った素振りを見せると、

お前、よく平気だなと感心する。

「ああいうシチュエーション、苦手だわ」

若葉は男の子がここまでシャイな人種だとは思わなかった。

告白したのも若葉からだし、手をつなごうとしたのも若葉からだった。

だいたいデートのプランも若葉が立てている。

ほとんど若葉に任せっきりだ。


「珠緒は恋に恋してるだけよ。けっこうがっかりな面もある」

若葉は珠緒にそう答えた。


ポケベルも携帯も禁止だったので、その頃、若葉の中学では、付き合っているカップル同士が「交換日記」をしていた。それが一時期、流行っていた。

私達もしようと若葉は正樹に提案した。

女の子は相手が日々、何を考えているのか、日常をどう過ごしているのか、好きなテレビ番組や音楽は何かなど知りたがるものだ。

一方、男の子というのは、そういうやりとり自体が「めんどくさい」と思うらしい。

正樹はしぶしぶ了承した。

若葉は日記帳いっぱいに色んな事を書いた。そして正樹に渡した。

すぐに日記が返ってきた。

若葉は渡された日記をワクワクしながら開いて、何これと思った。

ほんの四、五行だった。

しかも箇条書きで、今日は部活をやり、夕飯を食べ、テレビを見て、何時に寝た、とだけ書いてあった。

「もっと色んな事書いてよ」

と若葉が文句を言うと、正樹は素っ気なく言った。

「書くことがない」

それで若葉は交換日記を諦めたのだった。がっかりはしたが、若葉には免疫があった。家で父や兄を見ていればわかる。男とはそういうものだと。

ただ、ひょっとしたら正樹は例外かも、と期待しただけだった。



「夏の大会、もうすぐね」

二人で肩を並べて歩きながら、若葉は言った。

うん、と正樹は答えた。中学最後の部活。若葉もソフト部のエースとして気合が入っている。若葉は何気なく聞いた。

「正樹は高校でも野球やるんでしょ?」

視界の開けた、まっすぐの道。辺りには田園風景が広がっている。工場が多いので交通量は多い。道路脇には、こんもりとした雑木林が所々で点在している。

「やらない。もう野球は充分だわ」

手にはめたグラブを見て、正樹は首を振った。

「えっ?」と若葉は少し驚いた。

予想外の返答だったのだ。

「どうして?・・・うまいじゃん、野球」

「うまくなんかない」

「だって、三番ショートでしょ」

そう言うと正樹は、苦笑した。

「若葉はうちの野球部のレベルを知らないだろ。初戦突破して三回戦まで行けたら御の字。ちょっとした強豪校だと確実にボロ負け」

「でもさ、チームが弱いのはしょうがないじゃない」

若葉は昔、河川敷で見事にダプルプレーを完成させた正樹の姿を思い浮かべた。野球はピッチャー次第ってところもある。

「もしさ、本気で野球やるつもりなら、部活に入らずシニアに行ってたよ。でもそれは諦めた。軟式に妥協した時点でもうダメなんだ」

シニアリーグは硬式野球。シニアに入っている子は中学の部活は避けると若葉は聞いたことがあった。

「だけど一生懸命やってたじゃない、野球」

正樹がどれほど真剣に野球をやっていたかを若葉は知っていた。小遣いすべてをバッティングセンターにつぎ込み、絶えずグラブとボールを手放さない。暇さえあれば近くの公園の壁に向かって投げ込んでいた。

正樹は野球と常に一心同体、若葉にはそう思えた。

一生懸命か、と正樹は溜息をもらした。

「だからダメなんだろうな。才能があれば、そんなものなくても四番でエースになれる」

オレはイチローにはなれないよ、と呟いた。

前年、日本がワールドカップに初出場してサッカー熱が高まっていた。しかし野球人気にはまだ及ばない。

フィジカルエリートの男の子はみんな野球を目指していた。

だから、どこの中学でも野球部というのは運動神経のいい子が集まる。正樹はそういう野球部の中でも中心選手になれるのだから、生まれ持った身体能力もある。ただ、上を目指すにはもっと飛びぬけた何かがないと不十分だ。

正樹はそう言いたいのだろう。

でも、と若葉は思った。

「まだ十五じゃない。どうして諦めてしまうの?」

これから才能が開花するかもしれない。まだ放り出すには早いよと言いたかった。

正樹は答えなかった。

グラブとボールを弄っている。

「じゃあ、正樹は高校では何するの?」

「決めてない」

帰宅部かな、と正樹が呟く。ふーんと若葉はトーンを落とした。

「何だよ、何かしないといけないのか」

「そうじゃないけど、野球は続けてほしいな」

若葉は野球に打ち込んでいる正樹が好きだった。それが見れないのが寂しかったのだ。


気まずさを感じたのか、正樹が話題を変えた。

「俺さ、出来れば高専。行けないなら工業高校に、って思っているんだ」

「うん」

「エンジニアとかメカニックとか、そういう関係に将来就きたいから」

夏の大会が終われば、受験メインの中学生活になる。

受験、というのをこの辺りの生徒は初めて体験する。だからみんなそれなりに不安を抱えているのだ。

どこの高校を選ぶか。

若葉達にとって人生で最初の重要な選択なわけで、案外これで将来が決まると担任の木崎が言っていた。

確かにそうかもしれないと若葉は思った。

大学を目指すならある一定レベルの普通科への進学が不可欠だし、農業高校や工業高校に行けば、その先の職も絞られる。

「毎日スーツを着て満員電車に揺られる、なんてイメージ出来ないよな」

正樹は彼なりに真面目に自分の将来を考えていたわけだ。

若葉は彼のそういう面を意外に思ったと同時にちょっと頼もしくも思った。

「何笑っているんだよ」

「確かに。正樹にサラリーマンは似合わない」

だよな、と頷く。

「そういう若葉はどうなんだ? 高校の、その先とか」

男子に比べれば女子なんて、お気楽なものだと若葉は思った。

高校か短大を出たら、数年OLを経験して結婚する。それが女の幸せだというのが普通だった。

でも若葉はそんなイージーな選択をするつもりはなかった。

内緒、と彼女は笑いながら答えた。

まだはっきりしたイメージを持っていなかったのだから答えられない。でも自分はお決まりのレールには乗らないような気がしたのだった。

正樹は「ずるいな、お前」とやや不満顔を見せた。

大人になるのはずっと先の事だと思っていたけど、そうでもないかもしれないと若葉はその時に感じた。

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