第1話

一九九九年、鮎川若葉は中学三年生だった。


彼女は名古屋の外れ、豊石市で生まれた。

父は自動車会社の下請け工場で働く、しがない労働者だった。

豊石市は企業城下町だ。

若葉の父は、学歴も資格もなかった。それでも真面目に働きさえすれば、庭付きの一軒屋と自家用車二台が買え、子供二人を大学に行かせる事が充分可能だった。

まだ、そういう時代だった。


若葉には五つ離れた兄がいた。

兄は名古屋の私大に通う大学生で、大学近くに下宿し、実家にはろくに帰ってこなかった。

ごくたまに兄が家に帰ってきた時の事だ。兄は若葉にこう豪語した。

「俺はバイトで月二十万稼ぐんだぜ」

世の中、不況風に吹かれ始めた頃だったので、そんな美味しいバイトがあるものかと若葉は訝った。

「だったら私に何か買ってくれない?」

「シャネルでもエルメスでも何でも買ってやるぞ」

「中学生にそんなもの要らないわよ」

優しい兄ではあったが、どこか舌先三寸の人間だった。実家にいても、PHSの携帯を手放さず、誰かと常に連絡を取り合っている。

「あの子、変な連中と付き合っているんじゃないでしょうね」

と母は言ったが、だからと言って心配している様子もなかった。


父は家では「フロ、メシ、ビール」のスリーワードですべてを終わらせるタイプで、当然、若葉とは会話がなかった。

若葉は母とはよくお喋りをしたが、ベタベタする関係でもなく、休日に買い物についていくという事もしなかった。

何か欲しいものがある時は、言えばお金をくれた。

母は「自分で買って来なさい」と言って三千円を若葉に渡した。

よく分からないが、何を買うにも三千円だった。足りない時は、貯めたお年玉で出すか、一月後にもう一度言って六千円にした。

あれは母なりの教育だったのか。いや、ただ面倒なだけだったんだろう。


母は毎日のように、高校時代の友人らとお茶したり、カルチャーセンターに通ったりして、専業主婦の持て余した時間をそれなりに楽しんでいるようだった。

一方、若葉は休日になるとソフトボールに明け暮れた。

思い起こしてみれば、鮎川家は家族旅行というものを一度もした事がなかった。

若葉も別にしたいとは思わなかった。

放任主義だったと思うが、彼女にとってはやりたい事が好きにやれた。それが心地よく思えたのだった。



中学校は歩いて五分の場所にあった。

どこにでもあるごく平凡な公立中学校だ。一学年は六クラスあった。

若葉は三年A組。

担任は木崎というベテランの国語教師だった。五十代半ばの柔道部の顧問で、ゴリラのようないかつい体をしていた。


A組の教室では、女子生徒は、数人が仲間となってグループを形成していた。

グループは四つあった。一緒に給食を食べたり、連れだってトイレに行ったり、休み時間に固まってお喋りをするのだ。

どこかのグループに属していないと「ボッチ」になってしまう。若葉は群れるのが好きではなかったが、さすがにボッチにはなりたくない。

「類は友を呼ぶ」という言葉があるように、結局は似たようなタイプの子同士がグループを形成した。


川崎というちょっと剽軽な男子が、その四つのグループを、『キャバ嬢』『ユウトウセイ』『オタク』『カゲジョ』と命名して、笑いをとった。カゲジョとは影の薄い女子の略。

最初は川崎に文句を言っていた女子も、事のところ、言い得て妙だったので、暗黙のうちにそのネーミングが浸透した。


クラスの主導権を握っていたのは『キャバ嬢』達だった。

その中心が新海エリカという女の子。

エリカはギャル系女子だった。校則があるので派手な事は出来ないが、違反ギリギリを攻めていた。髪を微妙に脱色し、眉毛を細く整え、短いスカートにルーズソックスを履いていた。


A組の序列一位が『キャバ嬢』で、二番目は『ユウトウセイ』だ。

若葉は『ユウトウセイ』に属していた。成績は中の上だったが、スポーツが得意で社交的な性格だったので、自然と周囲から一目置かれていた。


漫画やアニメマニアの『オタク』が三番目で、ぱっとしない外見、内気な子が『カゲジョ』に束ねられていた。『カゲジョ』がA組で最下層だ。

いわゆるスクールカーストで、多かれ少なかれ、どこのクラスにもそれは存在した。


男子の方は女子ほど明確なグループはなく、秀才タイプの村上健太が学級委員をしていて、一応リーダー的なポジションにおさまっていた。

だが、この村上健太という生徒がクセ者というか歪んだ心の持ち主で、数か月後にひどい事件を引き起こすことになったのだった。

全体的に、A組は女子の方が存在感があって、男子はあまり目立っていなかった。そんな感じのクラスだった。



中学生活には特有の閉塞感がある。

小学校時代にはわりと自由に楽しめていた学校生活が、制服を着ることによって途端に息苦しさを感じるようになる。

何故だろう?


細かすぎる校則のせいか。

部活での上下関係の厳しさゆえか。

内申書で将来が決まるというプレッシャーのせいか。


この三年間ほど「管理されている」という感覚が強く思える時期はない。

その閉塞感は自分達ではどうにも処理できない。

だから、三年間をそのまま我慢してやり過ごす。

あるいは、少しだけガス抜きして楽になる。

どちらかでよかったのかもしれない。

そうすれば少なくとも中学最後の一年は、無傷で済んだはずだ。


しかし、そうはならなかった。

あいつが転入してきた事で、すべてが変わってしまった。

たった十か月間の間に。

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