それでも世界は美しい
シトリンが帝都に向かったのはふた月前、結界を修復するために帝都を縦断したのはひと月前。
実は世界は危機に瀕していて、あと少しで滅びるかもしれなかった……なんてことを知る民間人はほとんどおらず、今日も帝都はもうもうとした蒸気にまみれて、空の色すら見えない場所であった。
帝都の下町は、今も昔も変わることなく、どこかの路線が鳴らしている音を耳にしながら、ごたごたとした路地の中で平和に暮らしている。
「この問題のスペルが間違っている」
「うげぇ……たったこれだけで減点なの?」
「試験官に情を期待するな。惜しいと判断して配点してくれるような輩はほとんどいない」
子供たちが庭で遊んでいる声を聞きながら、ジャスパーは模擬試験の勉強をしていた。
ラリマーのおかげで帝国機関の推薦はもらえたものの、試験を突破しないことには話にならず、未だ有休休暇の真っ只中なトリフェーンが面倒を見ていた。
ジャスパーは実技はほとんど満点に近かったが、座学のほうは凡ミスが多く、特にスペル間違いの多さに頭を抱えられていた。
子供たちを集めて、そろそろおやつを与えていたルビアはクスリと笑う。
「勉強熱心ですね。ジャスパーくんみたいに民間人から帝国機関に入ってくれたら、もう少し下町も安全になるかもしれませんけどね」
「そうかなあ、おれは単純に、ラリマーさんが今大変そうだから、ちょっとは手伝いができたらいいなあと思っただけだったんだけれど」
「皇帝陛下のおかげで、無事に帝国治癒機関に復帰することが許されましたしねえ……」
カルサイトが倒れているラリマーを拾って帰ってきたのは一年前の話。
その間によくもまあ、これだけ環境が変わったものか。
トリフェーンは「そういえば」と言う。
「カルサイトはどうした? ミズ・アイオライトを地元まで送ると聞いてから、戻ってこないが」
「カルくん、何でも屋を再開させましたから。もうテロ活動をする必要もなくなりましたから、暁の明星団の活動だけする必要もなくなりましたし」
「話が見えん。あいつ、また変なことに首を突っ込んでないだろうな?」
「大丈夫じゃないのー? カルさん、いい加減さっさとプロポーズでもすりゃいいのに」
ジャスパーは別の模擬試験の内容を読み返しながらのたまうのに、トリフェーンは少しだけ目を細める。
「……待て、カルサイト。そんな相手がいたのか?」
「いるじゃないですか。トリフェーン、本当に気付きませんでしたか?」
カルサイトがわざわざプロポーズする相手なんて、ひとりくらいしか思いつかないが。
トリフェーンが頭が痛いといったように、こめかみを抑えた。
「……いくらなんでも、早くはないか? 彼女と出会って、まだふた月前後だろうが」
「出会ってすぐだったらともかく、ふた月一緒に寝食を共にしていたら、そんな話にも行きつくと思いますけど」
「あの馬鹿のほうはともかく、ミズ・アイオライトの意思はどうする?」
それにジャスパーは「別にさあ」と言う。
「多分だけど、シトリンもまんざらでもないとは思うよ。まあ、どうせ。式をするしないはもうちょっと先になるとは思うけどさあ」
さんざんふたりのやり取りを見ていたジャスパーからしてみれば、むしろ遅いとさえ思っていたが。
目の前にもっと遅いのがいるのだから、なんとも言えない。
「それより、トリフェーンはもうちょっとしたら有休終わるけどさあ、プロポーズする相手いないの?」
「いる訳ないだろ」
「ふーん……」
ジャスパーはちらりと見た。
子供たちが喧嘩する声が聞こえたので、慌てて「どうしましたかー?」と走っていったルビア。
他の宗教はどうだか知らないが、少なくとも教会の神官の結婚は自由だったと聞いている。神官をしているルビアもまた、自由だろうにと。
どうにもここの幼馴染の関係もままならないなと、勝手にジャスパーは思った。
トリフェーンはぼそりと言う。
「……結婚なんかしたら、ここの子たちから親を取り上げるようなものだろ。そんな勝手はできない」
「ふうん、ルビアさんがいいんだったらいいけどさあ。でも」
今頃、ラリマーは帝国治癒機関で、幻想病疾患者が完治しているかどうか、確認している頃だろう。
少なくとも、ここの教会を拠点にしていた暁の明星団のメンツは、ジャスパーも含めて、全員容体が完治していた。
突然病気になったり、突然事故に遭うのは、帝都でも珍しくない話。それに加えて突然世界の危機に巻き込まれたり、突然指名手配になるのだ。
世界はいつだって、今日と同じ日が続くとは限らない。
この世界は、ちっとも優しくはないのだから。
「言える内に、言っておいたほうがいいんじゃないの? 少なくとも、いきなり明日世界が滅びるって言われて慌てて言うより、今はまだ平和だってされている内に言っておいたほうがいいと思うけど」
「……貴様もずいぶんと、言うようになったな」
「そんなつもりもないけどねえ」
トリフェーンがなにか覚悟をしたような顔で、子供たちを抱きかかえてあやしているルビアのほうに歩いて行った。
ジャスパーはケラケラ笑いながら、少しだけ静かになった場で勉強に戻った。
いつだって、はじまりがあるんだったら終わりはある。
世界はまた危機に瀕するかもしれないが、それは明日じゃなくてもいいはずだ。
頑張るということは、少なくとも明日以降の未来をよくすることなのだから。
****
帝国治癒機関に戻ったラリマーは、やることが山のようにやってきて、てんてこ舞いになってしまっていた。
帝国中の治癒院に聞き取り調査、幻想病の症例の経過調査、最近では蒸気機関が原因で新たな病気の症例も見受けられるのだから、それの治癒方法の模索までしなければいけないのだから、大変なものだった。
実験動物の実験結果を書き留めている中「入るよー」と言いながら、研究室のドアが開いた。
仏頂面のジェードであった。おかっぱほどに切り揃えられていた髪が剃られ、ソフトモヒカンとも言うべき髪に変貌を遂げていた。
「ぼく、一応研究方面は無機質のほうなんだけど。どうしてぼくが動物実験の手伝いをしなきゃいけないのさ」
「お疲れ様です、ジェードくん。本当だったら代替燃料の研究のほうに移行してほしいのですが、これも陛下の意向ですから」
「ぼくを罰したいんだったら、さっさと刑務所にでも島流しにでもすればいいのに、なんでこんなにチマチマした嫌がらせをするんだよ」
ジェードが不満いっぱいな顔をするのに、ラリマーは苦笑した。
長いような短いような一件で露呈した、ジェードの精神の幼さからやってきた凶悪さ。
封印指定されている技術を盗んだり、錬金術で新しい命をつくったり、あろうことか民間人の命と引き換えに世界を守護しているとされる結界を破ろうとしたり。
本来なら即刻罰せられるところであったが、皇帝陛下がそれにストップを入れた。
帝国錬金機関をそのまま解散させることはなく、縮小方向とはいえど維持を指示し、そのままラリマーの下にジェードを付けることで決着をつけたのだ。
要は倫理面の再教育と、近々問題になる燃料問題へ取り組ませることを、彼の罰としたのだ。
いろんなものが欠けに欠けてしまっているジェードに再教育できるかどうかは、ラリマーも迷ったが、彼と話をしたらしいカルサイトとシトリンが、何故か力いっぱいラリマーにジェードを任せたのだった。
「せめて、うちのチビたちくらいにはしてくれよ」
そう言われて「馬鹿にしてるのか!?」とジェードは威嚇したが、ラリマーもそれに少しだけ力が抜けた。
頭がよ過ぎて、錬金術の話が細かく分解せずとも通じてしまうが、彼はまだ子供なのだ。子供と思って接するのがいいと。
こうして今は、情緒の再教育として、患者と接する機会や薬の試験を行うことで、少しずつ教育を施しているのだ。
文句を言いながらも、それなりの成果を出すジェードに、ラリマーは優しく笑った。
「皆、君を心配しているだけですよ。意地悪したいのではなくて」
「ふんっ」
ジェードが面白くなさそうに背を向けてしまったが、ラリマーは笑いながら、レポートをまとめた。
明日、世界が滅びるかもしれない。
帝国を縦断したような出来事が、ふとしたことで起こるかもしれないということを知った。
世界の延命なんて言葉は大それたことかもしれないが、それは錬金術師として、忘れてはいけないことだとラリマーは思う。
たったひとりでは、大したことなんてできない。
頭がいいだけでも、力が強いだけでも、延命は為さないのだから。
****
車が軽快に走っていた。
普段、乱暴が過ぎるカルサイトの運転にしては、優し過ぎるものだった。
「すみませんねえ、治癒院まで連れて行ってくれるなんて」
「まあ、仕方ないだろ。あの辺りには錬金術師もいないし、治癒院もないしさあ。腰のほう、俺の運転で痛まないか?」
「いーえぇ。ゆったりしていて、これだったら隣町までは腰が痛まないと思います」
カルサイトとシトリンは、車でおばあさんを隣町の治癒院まで送っていた。
列車が事故で停まってしまったが、歩いて行ったら一刻はかかるが、さすがに腰を痛めている人に徒歩は酷だろうと、送ることにした。
帰りは連絡の着いた息子夫婦が車で迎えに来てくれるらしいから大丈夫だろう。
シトリンがおばあさんの荷物を持って、病院まで歩き、おばあさんは杖を突いて、治癒院に着いた。
「ありがとうございます、これで治癒院で診てもらえます」
「いえ。足元気を付けてくださいね」
「はあい」
何度も何度も挨拶をしてから、シトリンはカルサイトの車へと戻っていった。
「いっつもこういうことをしているんですか、カルサイトさんは?」
「そんな普段から銃で戦闘なんてしちゃいないよ。あれは緊急事態だしさ。ご近所さんが困っているのに、ちょっと手助けしていたら、気付いたら仕事になっていたってだけで。それよりシトリンを家まで送るつもりだったのに、なんかアンバーから遠ざかっちゃったなあ」
「そうですねえ……」
泥棒に荷物を盗られた人を助けるために、泥棒を追いかけていたら、気付いたらアンバーの真逆な方向に走っていた。
仕方ないから人助けをしてお金をもらいながら、少しずつ向かってはいるが、なかなかアンバーに辿り着かない。
「いい加減、ずっとルビアの孤児院で世話になる訳にもいかないし、どっかそこそこいい具合に人がいて、困っている人がいて、路線が引かれてそこそこ交通の便がいい場所で、事務所を構えられたら理想だけど。さすがにアンバーは田舎が過ぎるからなあ……」
「だとしたら、帝都以外でしたら……ロードナイトはさすがに土地代が高そうですよね……アクアマリンなんかは?」
「あっ、あそこだったら旨い海鮮食い放題だし、そこそこ交通の便もいいか。あ、そうだ。シトリン」
ふいに名前を呼ばれ、シトリンは「はい」と答える。
「俺の事務所、手伝ってくれないか? 畑を守らないといけないって言うんだったら、俺も考えないといけないけど」
「……そうですねえ」
シトリンは、自分の胸元を抑えた。
結界が修復されてから、下手に取ろうとしたら心臓が破れると言われていた賢者の石が、かさぶたのようにいとも簡単に取れてしまった。
守護石とも言われていたそれが取れて、もっと感傷的なものを感じるんだろうかと思ったが、特にそんなことはなく、ただシトリンは、普通の田舎娘に戻っただけだった。
あのときだけ使えた魔法は、もう彼女は使うことができない。
そんな自分を誘うカルサイトは、なんなんだろうか。
人助けが好きな人が、どうして自分を隣に置くんだろうか。そう思いながら、シトリンは言う。
「私の唯一の肉親はおばあちゃんで」
「うん」
「おばあちゃんをひとりで置いておく訳にはいきません」
「……そっか、残念」
「だから、畑をどうにかしてから、おばあちゃんと一緒にアクアマリンに行ってもいいですか?」
「う……うん……?」
カルサイトが困惑でアメジストの瞳を揺らしている中、シトリンは続けた。
「私、カルサイトさんのことが好きです。多分ずっと一緒にいたいくらいは。でも、アンバーとアクアマリンは遠くって、アンバーは路線が遠くって車を使わなかったら、アクアマリンまで辿り着きません。距離って気持ちを超越できないんです」
手紙もある、なんだったら伝書バトもある。大きな家だったら電話もあるが、気持ちは電話じゃ届かない。
出稼ぎに行った人が、現地妻をつくって騒ぎになったことなんて、田舎のアンバーではよくある話で、気持ちは距離を超越するなんてことは、シトリンは信じてはいなかった。
だったら、距離をゼロにしたほうが早い。
一瞬、虚を突かれたカルサイトは、だんだんおかしくなって、腹を抱えて笑いはじめた。シトリンは大真面目に眉を吊り上げる。
「わ、笑わないでください! 私、真剣なんですから!」
「悪い悪い……ああ、なあんか可愛いなあと思っただけで」
それにシトリンは赤面させる。
カルサイトはシトリンの頬に手を当てると、丸い輪郭を撫でてから、ようやく彼女の顎を持ち上げた。
唇を、軽く吸う。
そのあと、目と目を合わせて、笑った。
「……アクアマリンで待ってる」
「……はい」
「じゃっ、まずはアンバーに着かないといけない訳だけど」
車にふたりで乗り込もうとした矢先だった。
「動くな! 全員両手を挙げろ!」
そう言って騒然としているのは、ちょうどおばあさんを送っていった治癒院の裏にある、銀行だった。
そして急にシャッターが下ろされ、出入り口が封鎖されてしまう。
ふたりは顔を見合わせる。
「先に、これどうにか片付けてから、だな」
「はいっ!」
すっかりと場慣れしてしまったシトリンと、銃の調整をするカルサイトは、そのままどうやって人質を解放するのか、算段を付けはじめた。
世界は理不尽で、放っておいたらいつだって終わってしまう。しかし、それでも懸命に生きている人々がいる。
ただの田舎娘も、お人よしな下町の青年も、終わらなかった世界を、懸命に生き続けている。
<了>
蒸気と乙女と幻想病 石田空 @soraisida
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます