スフェーンの下町

 帝都スフェーン。

 皇帝の住まう城が存在し、高い建物には鉄道が張り巡らされている。大昔にはそれらは古代技術が使われていたらしいが、いつの頃からかその技術は失われた。

 その失われた技術のあとに発展した蒸気機関により、古い街並みは輝きを取り戻さんとしている。

 新しい技術は、失われた技術を復権するために存在している。この帝都でそんなことを信じている一般人は存在していないが、少なくとも帝国にかかわる技術者たちは本気でそう思っているようだった。

 しかし蜘蛛の巣のように、建物高くに張り巡らされた鉄道から離れ、大通りから一歩離れると、昔ながらの古びた街並みに、蒸気機関の技術の恩恵を受けてないような生活を送っている人々が見える。

 教会で神官の教えを聞き、讃美歌を歌って生活している、質素な生活。

 本当に聖書の内容をありがたがって生活している者が限られているが、心のよりどころとして聖書を嗜む人々が、ここには多かった。

 空を仰げば鉄道が見え、もうもうと蒸気に覆われている。それがスフェーンの下町での日常であった。

 その中にある教会兼孤児院。そこの神官兼院長のルビアは、孤児院の子供たちを寝かしつけてから、電話を受けていた。


「はい……それではこのままクリソプレーズに向かうのですね……はい、はい……気を付けてくださいね。主のご加護がありますように」


 電話を終えると、受話器を切って振り返る。

 そこにはさっさと革の銃ホルダーを中身ごと奪還し、帝国諜報機関から逃げおおせてきたカルサイトの姿があった。

 ジャケットこそシトリンに預けたままだが、それ以外は元通りだ。


「帝国諜報機関がアンバーにも現れたようで。帝国工業機関が、郊外にも賢者の石を普及して回っているそうです」

「あいつら……いったいなにを考えてるのかね。賢者の石がだろう? 幻想病の原因っていうのは。公表できないのかよ」

「できていたら、ラリマーさんが指名手配犯の汚名を着せられることも、現在進行形で増えている幻想病患者の存在もありませんよ。皆さんは、このままクリソプレーズに向かうそうですが、帝国諜報機関が危険ですね。カルくん、皆さんを助けに行ってくださいませんか?」

「最初からそのつもりだよ、ルビア」


 蒸気機関の発達により、生活はずいぶんと楽になった。だが何事もいいこと尽くしということはない。

 石炭の採掘が追い付かなくなってきて、だんだん石炭の値段が上がってきたのだ。列車の復興が行われるようになったのも、蒸気機関の開発と石炭の採掘のためだったが、皆が皆、蒸気機関を使うようになってからは、列車を復興させてもまだ追い付かない。

 だからこその新しい燃料である賢者の石だったが、賢者の石が使用されるようになってから、あちこちで不可解な症状を訴える人々が増えてきたのだ。

 症状が違い過ぎて、賢者の石が原因とも、これが幻想病だと特定することもできないがために、錬金術師によって症状を緩和することはできても、完治することができなかったのである。それ故に、病気に名前を付けることもできず、一括りで幻想病と称されるようになったのである。

 そもそも胸から賢者の石を生やしたシトリンだって、幻想病に似ている容態なのに、ラリマーは彼女の現状を幻想病だと言わなかった。どうも彼女の症状は幻想病ではないらしいが、人体から賢者の石なんて生やしていたらまずいということだけはわかる。

 そして帝国機関主導の元、何故か帝国内にそれらが広められているということだけはわかっている。

 カルサイトは銃に弾を詰め直すと、銃ホルダーに入れる。そしてブレスレットについたロケットをしゃらんと鳴らした。


「主と守護石の仰せのままに」

「……あなたに、どうか主のご加護がありますように」


 しばしの黙祷のあと、カルサイトはさっさと地下のアジトを通って地下鉄道に到着すると、そこから車に乗り込む。

 この時間帯は特に蒸気が強く、空からプロペラ飛行機で見張っている帝国諜報機関であっても、すぐに『暁の明星団』を見つけ出すことはできまい。

 カルサイトは車を運転しながら、ふとシトリンのことを頭に浮かべる。頼りない顔をしているが、いかにも農村の娘という、素朴な子であった。

 あの子が悲しむことがあってはならないと、帝国紳士らしいことを一瞬考えながら、ここからクリソプレーズに近道する算段を考えはじめた。


****


 ジャスパーの走らせている車から、蒸気が噴き上がっている。シトリンはしきりに空を気にするので、ラリマーがやんわりと言う。


「帝国諜報機関も、さすがに郊外ではプロペラ飛行機を使うような真似はしないかと思いますよ」

「え……? そうなんですか……?」


 シトリンからしてみれば、いきなり帝国諜報機関が列車に乗り込んでくるわ、空から銃で撃たれるわとさんざんな目に遭っているために、警戒に越したことはないのだが。

 彼女が脅えているのに気付いたのか、ラリマーは彼女の質問に答える。


「帝国機関の名目は、あくまで皇帝の御身ですから。本来なら一般人を撃つことも、一般人を襲うこともないんです。シトリンさんは、僕みたいに指名手配もされていないんですから、その胸のものさえ見つからなかったら問題はありませんよ」

「だと、いいんですが……でも、どうして帝国はわざわざ病気の人を増やしてるんですか? 皆困ってますのに。どの村にも錬金術師なんてそうそういませんし」

「そうですね……」


 ラリマーは複雑そうに言う。


「本来、錬金術というものは、残念ながら人を助けるための研究ではありません」

「ええっと……?」

「研究するということに意味があるので、結果として入手できた成果というものはあくまで副産物であり、一番大事なのは研究するということそのものです」


 シトリンは彼がなにを言いたいのかわからないという顔をして、困惑して車を運転しているジャスパーに助けを求めると、ジャスパーは「あはは」と能天気な声を上げた。


「ラリマーさんも意地が悪いなあ。要は帝国機関の連中はあくまで研究したいから賢者の石をばら撒いてるのであって、そこで人に迷惑かけるかけないは考えてないって、はっきりと言えばいいのに」

「え……! 皇帝は、なに考えてるんですか……!?」


 ジャスパーのばっさりとした物言いにシトリンは顔を青褪めさせたら、ラリマーは苦笑して「それはうがった見方が過ぎますよ」とジャスパーを注意する。


「おそらくですが、皇帝は止めきれないのだと思いますよ。帝国機関も工業から諜報、治癒、貿易など、多過ぎますから、全部の動きを完全に手元で把握することは難しいです。それに賢者の石のばら撒きもおかしいんですよ。あれは、入手方法が限られていますから、それをわざわざばら撒くなんて」

「あの……そもそも疑問なんですけど」


 シトリンは困った顔で、自分の胸に生えているものを、ワンピース越しに触れる。相変わらず人の皮膚を突き破って生えたものとひと言で済ませていいのかわからない感触をしている。


「そもそも賢者の石ってなんなんですか? 私は石炭の代替燃料だってことと、本当だったら希少価値の高いものだってこと以外、わからないんですけれど」


 ラリマーは困った顔をする。ジャスパーはわかっているのかわかってないのか「もうちょっとでクリソプレーズじゃない?」と言う。


「……それは失われた技術にかかわるものなんで、僕もなんとも言えないんですよ」

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