11.
車の芳香剤の香りはするけれど、あの濃い香水の匂いはどこにも感じられない。
「今日は臭くねえな、お前」
「そっちは珍しく汗っかきじゃん」
もう人殺しの匂いを誤魔化すことも、隠し事を悟らせないようにすることも、しなくたっていい。全てから解放されたような気がして、自然と気分が高揚する。
「俺たちにこの世界は窮屈すぎたんだよ」
なんて気取ったことを言う彼に、たまには乗ってやるかと口を開いた。
「ならさ、最後くらいは何にも縛られずに。全部破って、自由に生きようぜ」
そう囁けば、にい、と笑みを深めて。彼はアクセルを力強く踏んだ。
「ああ、もう止まれない!」
「止まらなくたっていいだろ、どこまでだって行けんだから」
「それもそうかも、あはは!」
あの日タイムカプセルを埋めた時のように、無邪気な笑みを浮かべる彼は、心底楽しくてたまらないと言ったように走らせる。早すぎるスピードで車は前へ前へと進む。今日初めてすれ違う対向車がぎょっとしたような顔をしていたような気がした。
山に向かう道を、法定速度をゆうに五十は超えた車で登っていく。ガタガタと揺れる車体も、湿った感覚の道も関係ない。ただただ、俺たちはその速さに身を任せ、高揚しつつも妙に落ち着いた気持ちで突き進んだ。
このレースも、もう少しで終わりを迎える。朝日が眩しくて、それがなんだか俺たちの選択を祝福されているような気がして。そんな穏やかな気持ちで、車は進んでいく。自然と、彼がどこに向かうつもりだったのかは分かっていた。だから、俺たちは最後の会話を重ねていた。
「本当に良かったの、柚」
「今更だろ。未練も何もないし」
「家族とか、……俺は親父が荒れてるから、もういいんだけど」
「ああ、家族。昨日母さんの顔見れて良かったなってくらい」
「あっさりだな〜、そういうもん?」
「そういうもん。感謝はしてるけど、それだけだ」
毎日が、つまらなかった。突出した才能なんて、何もなかった。不仲を隠そうとする両親との息の詰まる日々の中で、唯一の希望は、蓮だった。
「地獄の果てまでなんてさ、恋じゃないけど、愛だね。親愛っていう名前の」
「気持ち悪いこと言うな、お前」
「いいでしょ、お前だってまんざらでもないくせに」
どこか飄々としたお前に唯一頼られていると思えば、特別になれた気がした。だから、特別のままでいられたら良いと思ったのだ。
山道を進めば、遠目に崖が見える。
「結局、元カノが何で俺のところに来たか、何で家知ってたのかわからずじまいだったね」
「はは、まあそうだな。嫉妬じゃねえのかな」
「何それ、めっちゃ迷惑」
「ま、運が悪かったな」
ああ、フロントから見える景色が、猛スピードでめまぐるしく色が変わる。
「ね、ありがとう柚」
「何だよ、今更」
「……いいだろ、最後だし」
照れたのを誤魔化すように、彼は前を向いた。あの崖から、このスピードで落ちれば。きっと、迷いなく地獄へと誘われるだろう。
「じゃあ、またね柚」
「ああ、地獄の果てで」
小さく笑いあって、再会の夢を見る。
「なあ、蓮。俺さ、言ってないことあった」
「なに、面白いこと?」
「多分俺にとっては、一番。お前にはどうかはわからないけど」
「……へえ、教えてよ。冥土の土産ってやつにさ」
「はは、そうだな。もったいぶることでもないよな」
朝日の届かない、鬱蒼とした木々を抜けて、開けた道に出る。
「俺、お前と死体埋めに行った日、元カノに会ってたんだよな」
「……は?」
「どうしてもヨリを戻したいって無理難題を俺に言ってきて」
「うん」
「だから俺、言ってやったんだ」
運転をする彼の耳元に、口を寄せる。
「『俺は、蓮のことを一番に想ってる』ってさ」
まさかそんな暴走するとは思ってなかったけどな、と半笑いで付け足した。でも、きっとお前は。
「蓮、お前はなんで元カノは……なんて言ってたけどさ。本当は初めから全部わかってたんだろ」
「……お前さあ」
蓮はため息をついて、それからこちらに向き直る。崖まではもう一直線だった。ハンドルから左手を外して、それから俺の腕を軽く叩いた。
「痛ッ」
「痛くないでしょ、この大馬鹿野郎」
「うるせえ、馬鹿力」
こんな時だっていうのに、あまりにもいつも通りのやりとりだったから、力が抜けて無意識に握っていた拳が解ける。
「突撃してきた元カノ、『幼馴染なんかより、私の方がお似合いに決まってるでしょ』なんて喚いててさ」
「想像に難くねえな」
「でしょ? まあそれで、『どんな手を使っても私のものにする!』って飛びかかってきて。正常な判断が出来なくなった人間って何するかわかんないよな、元カノも、俺も」
「終わってんな、マジで。ま、そんなお前に協力した俺がどうこう言えねえけどさ」
ふ、と息を漏らして、そうだろ? と同意を求める。
「あーあ。ほんと、困った共犯者だね」
「はは。お互い様だろ、人殺し殿?」
からから、似通った笑い声をあげる。タイムカプセルを埋めたあの日から、ずっと掛け違えたままのボタンを、直すことはしない。それでいいじゃないか、そのまま、その間違いごと受け入れよう。そんな気持ちが含まれた声だった。
煌めく朝日が、車内を刺すように照らす。蓮の顔にはやけに清々しさが宿っているように感じた。それがどうにも似合わなくて笑ってしまいそうになるけれど、きっと俺も同じ顔をしているのだろう。
アクセルを思い切り踏んだのを見て、もう一度口を開いた。
「『俺』の元カノ、煽ったのは俺だったんだよ、蓮」
最後に映ったのは、全部わかってたよ、と呟いて笑った彼の、不敵な、笑み。
衝撃。感じる間もなく、ぐらり、闇に沈む。
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