されど地獄の蓋は開く
近江 沙都
1.
指定された時刻を悠に三十分は過ぎたところで、ようやっと見慣れたブルーグレーの軽自動車が目の前に止まる。十一月末の夜は酷く肌寒く、吐く息は白い。月明かりに照らされた運転席のウィンドウが開く。文句を言ってやろうと口を開く前に、どこか眩しそうに瞳を細めた彼の唇が動いた。
「死体埋めるの、手伝ってくれん?」
夜の九時半、車の中でブリーチしたばかりの白金の髪が揺れる。元カノ、殺しちゃってさ。なんてことのないように囁かれたそれに、俺はただ、言葉を呑み込んで頷くことしか出来なかった。
なんだそれ、笑えねえよ。お前っていつも唐突だよな。本気で言ってるのか?
そんな言葉はどれひとつ吐き出されることなく、その顔を見つめることしかできない。俺が断らないことを、断れないことを知っているくせに、そうやって少しだけ眉根を寄せて、困った笑みを浮かべるのだ。
「……それで
「あ、理由聞かない感じ?」
取り敢えず、乗れば。そう言われて素直に助手席に乗り込むと、緩やかに車は発進し、俺のアパートの前を通り過ぎていった。
「まあでも、お前なら手伝ってくれると思ってたよ、
「そうかよ。ご期待に沿えたようで何より」
「やっぱりお前にしか頼めないじゃん、こんなのさ」
僅かに満たされた心を隠すように、蓮の横顔を盗み見る。変わらない薄い笑みの奥に、どこか諦めのようなものを感じて首を傾げた。
「何見てんの、照れるじゃん」
「一ミリも思ってないだろ」
「当たり前、今更お前に見られてもねえ」
「俺だって飽きる程見てるしどうとも思わねえよ」
そう、幼馴染の顔なんて見飽きている。髪の色が変わろうが、ピアスを開けようが、結局蓮の造形は蓮のままだ。小さい時から、小中学校を経て高校を経て、大学生になった今でも変わりの無い、困った幼馴染である。
いつも通りの会話に、寒さと緊張で張り詰めていた身体が緩めば、今更きつい匂いが鼻腔を擽る。
「お前、臭い」
「失礼だな、ちゃんとシャワー浴びてから来たんだけど」
「違う、香水の匂い濃すぎ」
「あー」
へらりと喋っていたその声が硬くなったのは、すぐにわかった。
「なんて言うかさ。匂いがしたら、どうしようって思って」
「匂いって、なんの」
「……人殺しの匂い。そんな匂いがあるわけないんだけど」
「人殺しの、匂い……」
そう言われて、やっと脳が認識する。隣で運転するこの男が、同い年のよく知る幼馴染が、人を一人殺したのだと。それから、平気そうに見えるそれが、精一杯の虚勢なのだということも。
「そ、醜くて鉄臭くて、近付いたら俺がだれかを殺したことが分かっちゃうような匂い。血の匂いなんてしないと思うんだけど」
「それは……」
違うと思う、とは言わなかった。でもきっと人殺しは、犯行を隠そうとする人殺しは、いい匂いをしている。罪の匂いに怯えて、上書きをしようとするのだろうと思った。こんな風に香水の匂いや、制汗剤、それから、
「柚は石鹸の匂いだ、昔から変わんないね」
随分と近くで聞こえた声に驚いて、勢いよく身を引いた。見れば、信号待ちの隙に蓮が顔を近付けていたようだった。
「人の匂いを嗅ぐな」
「お前も俺の匂い嗅いだじゃん」
「俺は不可抗力、お前は変質者」
「今となっては犯罪者だけどね、はは」
「んだそれ、笑えねー。……ああほら、信号変わる」
「ほんとだ、サンキュ」
どことなく互いに気まずくて、それきり互いに黙ってしまった。タチの悪い冗談なんて普段は言わないから、彼も珍しく動揺しているのかもしれなかった。しんとした車内で、互いの息遣いとエンジンの音だけがよく聞こえる。居心地の悪さから逃げるように窓の外をみれば、段々と山奥へと向かっているようだった。
ぼんやりと自分たちが人工灯から離れていくのを見て、ふと脳内をよぎったのは十年も前のとある夜だ。まだ蓮が女を取っ替え引っ替えする様なクズではない、気のいい悪ガキであった頃の、秋の終わりの夕暮れ。二人で示し合わせて家を抜け出した。その手にはそれぞれ、小さな箱と花植えに使うようなシャベルを持って。
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