第11話

 まずは胃の前後に繋がっている管をハサミで切る。


 管を切ると濃い香りがした。生き物が汚物に変わる匂いだ。腸の一部が切れてしまった。便なのか尿なのか分からない茶色い液体がシャーレの上で輪郭をぼかすように広がった。腸を切り離し、ビニール袋に詰めて口を縛る。残った胃は腐った小ぶりのトマトのようだった。


「切ってなか出すから写真撮って」


「わかった」


 後輩たちがテーブルの上に置きっぱなしにしていたデジタルカメラを胸の前に構えて、準備万端といった様子だった。身体を捻って、背後にある清潔な空気を吸って息を止める。正面に向き直ると胃の壁をハサミで切り開いた。胃の下に切れ目を入れ終わると、角度をつけて中身をひっくり返すみたいにシャーレに内容物をぶちまける。小さなカニの足や溶けかけた小魚、貝殻などが小鉢によそった和え物のようにひとかたまりとなっていた。割り箸を使い、ほぐして広げていく。

 

「オッケー、撮って」


 波多野は僕の右隣に立ってカメラの小さな液晶画面を除いた。僕もその被写体に目を移すと、その中に見慣れたものがあった。見慣れているけれど、そこにあるのが信じられなかった。

 赤く溶けかけた人の手の指。第一関節から先、爪にかけての部分だ。ぶよぶよとした質感をまるで触れたかのように想像できる爛れた赤と、光沢のある爪の白のコントラストが見えたのだ。そこにあるのが指だと認識したと同時に胃酸が喉を込み上げてきた。喉の奥で粘度の高い唾液が泡だった感じがした。唾液を飲み込み、胃酸を押し戻して、


「これ、人の指だよね」波多野に尋ねると


「小指かな」


 と答えた。波多野に質問して、発展した内容が返ってきたのはこの時が初めてだった。なぜ冷静に観察出来ているのか理解が出来なかった。けれどその態度のお陰で幾分か平静さを取り戻せた。


 右手に持っていた割り箸の存在を思い出し、ゆっくりとその指を目の高さまで持ち上げると、力任せにもいだような切断面が見えた。肉から剥がれた薄皮が水分を吸って垂れ下がっている。まだ葬式にも行ったことのない僕には初めて見た人の骨の細さ頼りなさが際立って見えた。ギザギザとささくれだった断面は枝が折れたみたいだ。長いけれど手入れされた爪からは女性らしさが感じられる。僕はその肉片を見ている間、ずっと左手の指を別の生き物みたいに動かしていた。血の通った指の感覚を確かめたかった。


「大学生がさ、川で溺れたってニュース、一昨日やってなかったっけ」


 僕は小さく囁くように言った。

 この指の持ち主が誰なのか、どうだって良かったのに口をついて出た。波多野は何も返事はしなかった。まだ胸の前にカメラを構えたままだった。しばらく指を見つめたあと僕は


「どうしようか」


 とだけ言った。先程は波多野から答えが返ってこなかったから、少しだけ強く、芯のある声で言った。


 「隠そうよ」


 波多野はそう言って、僕がシャーレの縁に置いた箸を取って、腐りかけの指をつまんだ。そして先程クロダイの内臓を入れたビニール袋の前まで行って、


「開けれる?」と問い掛けた。


 僕は持ち手の部分を固結びにした袋を開けようと、指先に力を入れた。けれど身体の末端に力が入らなかった。僕の身体は恐怖と、脳みそが沸騰するような高揚で震えていた。袋の結び目の横、少しだけ空いた空間をビニールを引き伸ばすようにして広げて波多野に差し出した。波多野はその隙間に指の欠片を入れ込み、割り箸ごと捨てた。僕はもう一つ、他のビニール袋を手に取り、後輩が使っていた机の上に置いてあった紙屑やシャーレに入った内容物の残骸を手際よく捨てた。そして少しのゴミが入ったビニール袋で指を捨てた方の袋を二重にして包み、口を縛った。他のゴミを入れたのはカモフラージュの効果があるのではと思ったからだ。

 

「捨てに行こう」


 波多野は僕に言った。名残惜しかったけれど、手元に置いておく訳にはいかないことだけは僕も理解していた。


 二人で教室を出る。恐怖なのか興奮なのか、お互い階段を降りる前から息が浅かった。二人一緒に、小走りで階段を降りる。夏休みの誰もいない校舎の静けさと、階段の踊り場から見える灰色の教室が拍車をかけるように僕達の気持ちを煽り立てていった。


 ゴミ捨て場は中等部と高等部の校舎の間、体育館の入り口付近にある。5階建ての階段を降りた記憶はもう朧げになっていた。僕達の呼吸は荒かった。けれど一息で走り切ってしまいたかった。釣りの疲れも、学校生活への退屈も、将来への不安も焦りも、今だけは何一つなかった。

 体育館の前に着くと金網で作られた大きな扉のようなゴミ箱を開けた。その中にはおそらく野球部が捨てたであろうスポーツドリンクの粉末が入っていた小袋が大きな黒いゴミ袋に詰められ、捨てられていた。僕達の指を包んでいる、コンビニのロゴが描かれたビニール袋をその大きなゴミ袋の中に入れた。口を固く、けっして誰にも解かれぬように結んだ。


「バレないかな」


 と言うと波多野は


「バレないよ」とだけ言った。


 後悔と安堵が入り混じり、二人ともしばらくゴミ箱の前から動けなかった。

 それから教室に戻るまでの道中会話は何もしなかった。誰にも聞かれないように、誰にも悟られないようにと二人で心を落ち着けながら生物実験室に帰った。

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