第10話

 13時頃生物実験室に戻ってきた。

 帰りは浅田先生が車で一緒に送ってくれた。家族もいないのに後部座席が二列ある広々とした車で、私立の教師は稼いでいるんだなと思った。メタリックな赤い車は、直射日光に熱せられて真っ赤に茹だったかのようだ。ドアは開けられないほどに熱く、Tシャツの裾を手袋みたいにして掴んだ。四つのドアを全て開け放して、浅田先生は半身を車内に突っ込み、キーを差し込んでエンジンをつけてクーラーを全開にした。朝ここに向かう途中に聞いていたであろうラジオが流れた。女性アナウンサーが厳かな声でどこかの国の選挙結果を伝えていた。


 生物実験室に着くと、清潔そうな銀色をしたハサミやトレー、ピンセット、シャーレを準備した。トレーの上に一年生の釣ったブダイ、そしてもう一つのトレーにクロダイを載せる。切れ込みを入れられて皮一枚で繋がった尾ひれは収まりきらず、机に投げ出されていた。

 釣りの時も学年で分かれていたので、なんとなく解剖の時も同じように別れることになった。一つの机で作業をするのも手狭で、別々の机で解剖を始めた。


 波多野はまず魚をはかりに乗せた。2386g、僕はルーズリーフの一枚にメモを書く。理科の資料集の解剖のページを参照しながら、僕はハサミで肛門から下顎の部分にかけて切り開いていく。資料集には写真と一緒に解説が載っていたが、クロダイよりもだいぶ小さい青魚だった。参考になるのか不安だけれど、とにかく同じ手順をなぞるようにしてハサミを入れる。あまり深く刃を入れると内臓も一緒に切れてしまうのではと思い、慎重に切り開いていく。

 波多野はやることがないのか、ティッシュペーパーで机の濡れたところを拭いていた。魚が大きいからなのか、ハサミの切れ味が悪いのかとても握力を使う。体の半分に切れ込みが入ったところでもう手に力が入らなかった。


「代わってくれない」と声をかける。


「わかった」とだけ言い位置を替わった。


 腹に刺したままにしたハサミの持ち手を握り、もう片方の手を背びれのところに添えるようにして切り裂いていった。エラのあたりを過ぎたところで、その辺で大丈夫と声をかけた。


 冷房の効いた部屋なのに、こちらに振り返った波多野の額には汗が滲んでいた。そこからまた僕に交代して、下の切れ込みからエラの方に向けてハサミを入れていく。さっきまでよりは簡単に刃が入った。エラのあたりまで切れ込みが入ったところでハサミを置く。

 銀色のトレーの淵には血生臭い赤い汁がひたひたと溜まっていた。上の身を左手で持ち上げて体内を覗き、内臓の位置を確認してから、右手を差し込み優しく掻き出す。薄い膜で一連に繋がった臓物がずれるようにせり出した。心臓や胃や腸、生殖器官であることは資料を見て分かったが、その様子は小魚とはだいぶ違っている。胃や腸は大きく膨れていて、重量感があった。内臓を触った右手は手袋をしているけれど、黒鯛の体液が浸透しているのではないかと思われた。手袋の内部で何かぬめりのようなものを感じた。ここで一旦手を止めて、内臓の塊を水で洗う。集中していたから気がつかなかったけれど、背後の机で作業していた後輩二人はもう解剖が終わって暇を持て余したのか携帯でゲームか何かに興じている。


 机の上を覗くと、溶けかけた深い緑色の海藻がシャーレにまんべんなく広げてあった。特に物珍しいものが出てこずに飽きてしまったようだ。ほどなく二人はコンビニいってきますとだけ言い残して教室を出ていった。


 波多野とふたりきりで、流水で汚れを綺麗に落とした内臓をシャーレに移す。先程まで赤黒かったのに、今は薄いピンクや黄色で洋菓子のアソートみたいだ。

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