第9話

 釣りを始めて1時間ほど経った頃だろうか、堤防の先の後輩二人が騒ぎ出し、しばらくすると戻ってきた。

 左手に持った糸の先には文庫本くらいの大きさの赤い魚が体をしならせるように跳ねている。いくつかのウェブサイトを参照して確かめると、ブダイの仲間だった。まだ小さいので逃してやっても良かったんだろうけれど、そんな判断が出来る部員は一人もいなかった。そもそもこれが成魚なのか稚魚なのかもよく分からない。

 

 釣針を外すためのペンチのような工具を魚の口にねじ込む。すんなり取れれば良いが、素人がやると拷問器具を使って無用な苦しみを増やしている感じがした。

 やっと針の外れたブダイを海水と氷を入れたクーラーボックスに入れる。1分と経たぬうちに腹を上に向けて動かなくなった。クーラーボックスの無機質な青、そして氷の下で真っ赤な魚の輪郭がでこぼこに曲がって、真上から覗くといつか美術の授業で見た抽象画のようだった。


 それから30分ほどが過ぎた。餌につけた貝ひものような毛虫が動かなくなったのではと思い、リールを巻いて陸に上げてみる。案の定そいつはもう動いていなかった。ただ針で刺して海に泳がせて死なせただけだ。新しく活きの良いのと付け替えてまた針を海に投げた。投げてすぐ、釣り糸がピンと張って海に引きずり込むような大きな力が体に伝わってきた。海中で四方に魚が動くたびに両手で持った釣竿の柄が僕の腹部に勢いよくぶつかり、腹筋に食い込んだ。クーラーボックスに座っていた浅田先生も遠くにいた後輩も近くに集まって、騒ぎ出した。波多野も糸の先にいるまだ見えない魚を目で追っていた。

 手応えから大物の予感がした。

 この細い糸だけで繋がっていることが不安になり出した。大きいといっても僕の身の丈を超えることは絶対にないのに、恐怖を感じる。きっと向こうも怖いんだろう、きっと僕よりも怖いはずだ。広い海で一匹で生きてきて、今針が口内に刺さり、引っ張られるんだから。

 そう思うと勇気が湧いた。

 僕がこの魚を逃したとして命を取られるわけじゃない。せいぜい周りががっかりするくらいだ。でも向こうは命が掛かっている。互いの賭けるものの重さが違う不公平な勝負だった。こちらは釣り竿を使って、食物に針を隠した不意打ち。あちらは裸一貫。捕らえられない訳がない。

 リールを巻くたびに魚は少しずつ近づいた。海の表面近くまでくると、のたうつたびに鱗が光に反射してキラキラ光った。水面を切り裂くように尾ひれが跳ねた。墨のように淡く黒かった。

 しばらくは必死に抵抗していたが、数分もすると力なく私の釣竿の動きに引き摺られるほどに弱り出した。堤防のコンクリートの間際に引き寄せると浅田先生が持ち手の伸びる網で掬ってくれた。釣り竿を持つ僕も、網を持つ先生も海に引き込まれそうだった。


 陸に上げた魚はなんとも大きかった。びたびたとコンクリートの地面に頭を打ち付け、人の手に掛かる前に自害しようとしているかのようだった。跳ねるたびにコンタクトレンズみたいな鱗が地面に散った。

 体から幾分な離れたところで巻尺を伸ばしてサイズを測る。おおよそ48センチ。50センチにはいかない程の大きさだ。クロダイだった。かなりの大物で、腹はパンパンに膨れていた。真一文字に唇を結び、一点を見つめて、死ぬ覚悟は出来ていると言わんばかりの面持ちだった。

 浅田先生は大きい魚だし、ここで〆た方が良いかもしれないと言って、アイスピックのような器具を取り出した。それを僕に手渡すと、目の間にグッて刺すだけだからやってみな、とだけ言って全てを任された。

 

 携帯で「クロダイ 〆方」と調べると分かりやすい解説画像が沢山あらわれた。その画像の一枚を拡大し、目の前にいるクロダイと画像の魚の額に書かれた黒い星のマークを見比べる。アイスピックの鋭い刃先をタイに当てがう。全員が小さく口で息を吸う音が聞こえた。近くにいた波多野が魚を挟んで対面するようにしゃがみ込み、魚の背鰭から腹の辺りに手を当てた。動かないように押さえつけるというよりは撫でてやるという感じだった。

 

 「いきます」


 とだけ僕はいい、額に当てた切っ先を力を込めて刺した。両目の間から、少し上にずれた位置だった。体内に入ってから位置を修正するように下向きに力をかける。肉を切り裂くように進んで、コツっと何か硬い部分にぶつかる。するとクロダイは波多野の手と地面を往復ビンタするみたいに小刻みに二度三度叩いてから、体の緊張を解いた。一文字に結ばれた唇が開き、黒目の範囲が広がっていった。

 抜いたアイスピックは赤黒く染まっていた。尻尾の付け根辺りに浅田先生は切れ込みを入れ血抜きを始めた。慣れた手つきで、釣りは何度もやっているようだった。もう少し手伝ってくれても良かったのにと思ってしまった。

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