第8話
コンクリートの堤防の真ん中の辺りに着くと全員が荷物を下ろして釣りを始める準備に取り掛かった。浅田先生は氷やタオルを買ってくると言って、せっかく来た道を引き返して行った。
浅田先生が持ってきてくれたクーラーボックスには小さい毛の生えたミミズみたいなのがうじゃうじゃ蠢くプラスチック製の箱とスペアの釣り糸、そして日焼け止めのクリームが入っていた。釣り竿は各自前日に学校から持ち帰って持参した。ちゃんと釣りをするにはどれくらいの道具が必要なのか、僕には良くわからなかったけど、想像上の釣り人と比較するに、軽装備に違いなかった。僕らは学校で体育の時に履くことを義務付けられた名前入りの青いジャージの長ズボンとTシャツ姿だった。けれど想像上の釣り人はポッケのたくさんついた防弾チョッキのようなベストを纏っている。
しゃがんで釣り竿に糸と針をつける。去年も夏にはここに来て釣りをしたけれど、一年たってリールと糸のセッティング方法や針のつけ方など、全ての手順を忘れてしまっていた。やり方の分からない細かな作業と夏の焼き尽くすような日差しが僕のメンタルのバランスを徐々に揺らしていった。釣り竿もクーラーボックスも何もかも、海に投げ出してしまいたいと心から思った。絡んだ糸を力任せに引いたら、コンクリートの地面に垂らしていた釣り針が勢いをつけて指のほうに飛んで刺さった。痛みを感じて脊髄反射で手をひいた。けれど不思議と声はひとつも出なかった。白んだ人差し指の上の小さな赤い点がガラス細工を作るように膨れ、綺麗な赤い球体になる。臨界点を迎えた球体はその完成された形を崩し、液体に戻って指の指紋に沿って流れ落ちる。拭うこともなく、じっと見た。ただじっと、血が重力に従って流れるのを遮ることがないように見ていた。
「大丈夫? ふく?」
見上げると釣り竿を持った波多野がいた。差し出した右手にはティッシュを持っている。肉のついた顔を下から見上げると、光の加減なのか目が開いているのか閉じているのか分からなかった。いいよ、大丈夫。そう言って血のついたままの手をジャージのポケットに突っ込んだ。ザラザラとしたポケットの裏地を握ると、底にたまった埃の塊と校庭の砂利が固まっているのに指先が触れた。
浅田先生はビニール袋を手に下げて帰ってきた。夏の陽の中で見るビニール袋はカメラのフラッシュのように眩しかった。先生が近くに寄るとほのかにタバコが香った。潮風と混ざったタバコの匂いは何故だか懐かしかった。
ようやく釣りを始めた頃には、僕はもう疲れてしまっていた。堤防から竿を振って糸と浮きを投げた。部員四人が等間隔に並んで、男子トイレで小便をしているみたいだった。
釣りはいまだに楽しみ方が分からなかった。とにかく待ち時間が長い。波に煽られ揺れる浮きをずっと眺めて、釣れるのを待ち続ける。食うものに困ってするならまだしも、趣味で釣りをする人の気がしれない。釣りの最中は時間の流れが異常に遅く感じる。携帯を開くとまだ10分も経っていなかった。
後輩の二人は僕より飽きっぽいたちだった。リールを巻いて釣り針を回収して、堤防の先に歩いて行った。波多野と二人残されて釣りをする。
「どう、釣れそう?」と尋ねると
「うーん、釣れそう」とだけ言った。
波多野は無口なやつだった。無口というのは正しくないような気もする。中身が空っぽで、思考は常人よりずっと遅く浅い。大きな空洞みたいに、話しかけるたび投げかけたのと同じ言葉が返ってくるだけだった。僕は先生の買ってきたタオルを頭に巻いた。直射日光が幾分防げるし汗も吸ってくれる。
「波多野もタオル、巻いたら」
「巻き方分かんない」
「僕も分かんない、適当につけた」
波多野は釣り竿を地面に置いて、タオルを持って後ろに2歩、体を反転して2歩歩いた。複数の物事を処理しようとするとき波多野はいつも行動に小さいバグのような兆候が表れる。
少し間を置いて、波多野は釣竿の柄の部分を踏みつけて両手でタオルを巻いた。この最中に魚が餌に食いついたら面白いなと思ったけれど、そう上手くはいかなかった。波多野の頭のタオルは、巻いたとか結んだとか言うよりは風に飛ばされ引っかかったみたいだった。
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