第3話

 生物実験室のドアは横にスライドさせるタイプのもので、下に付いている滑車のすべりが変に良く、勢いよく開けると大きな音が鳴る。うっかり勢いよくドアを開けてしまうたび、まるで人を殴ったかのような罪悪感と痛快で晴れ晴れとしたような気持ちが混在する。

 注意深くドアを開けると、室内には一年生の部員が二人、先に居て黙々と作業していた。僕が入ってきたことに気が付いてちらりと目があったが、別段作業の手を止めるわけでもなく、空調の音量にかき消されるような声量で呻くように何か言うだけだった。生物部と言っても、活動内容のほとんどは、市販のしらす干しの中から、しらす以外の干涸びた生物を探すだけの作業だった。


 週の初め、月曜日の放課後になると、学校から歩いて15分ほどの業務スーパーに行き、しらす干しの袋を5袋ほど買ってくる。生物実験室の真っ黒なテーブルの上に置いた紙皿に盛り付け、そこから部員5人がピンセットを使い、おびただしい数の干涸びた小魚を選り分けていくのだ。


 しらす干しのあの小魚はカタクチイワシやマイワシといったニシン目のイワシ類の稚魚で、ほとんどがそういった平々凡々で無価値な雑魚なのだが、ごく稀に他の種類の小さな魚やカニやエビの幼生、運が良いとタツノオトシゴなんかが入っている。それらを見つけると真っ白な画用紙を一枚広げ、サイズの基準として爪楊枝を一本転がしておく。そのとなりに発見した生物を置いてデジタルカメラで写真を撮る。11月の文化祭で研究発表として展示するのが目的だった。研究発表なんて大層な名前だが、延々と続く人海戦術での単純作業だった。研究をする余地などないし、思考を働かせる隙さえない。穴を掘っては埋め直すような、無価値な作業のように思われた。


 僕も席に着き、労働に加わった。今日は金曜日だったので、しらすの予備はあと僅かになっていた。僕以外の部員は皆、この魚の死骸をあさる行為に何か快感のようなものを覚えているようだった。


 2週間ほど前だったか、後輩の一年生と二人だけで作業をしていると、しらすの中から今まで見たことのない細長い魚を見つけたらしく、大声を上げた。普段は物静かで感情を出さない奴がいきなり叫んだので、何をされても怒ることのなかった友人が突然激昂した時に似た緊張感があった。図鑑やWebサイトで調べると、それはダツという原始時代に使われていた矢のような格好をした魚の稚魚だった。それから彼は学校での作業が終わっても、しらすをタッパーに移し替え、持ち帰るようになった。


 作業に飽きて余所見をすると、後輩二人は少しの雑念もない澄み切った顔で取り組んでいた。ピンセットと紙皿の擦れる音がトンツーのように聞こえる。戦争映画で見た通信兵のようだった。最初はやるぞ、と思っていてもこんなことに何の意味があるのかと思ってしまうともう駄目だった。どれだけ頑張ろうとしても、退屈は欠伸や溜息といった生理現象に変わって身体にあらわれた。


 僕の皿をざっと見るに、特別珍しい生物は混じっていないように見えた。その中のなんてことのないしらすの一匹を、まるで特別な稚魚を発見した時のように選り分けた。そしてそいつに狙いを定めて、ピンセットの先をナイフみたいに使い、ぐしゃりと潰した。腕全体が小刻みに震えるほど過剰な力を掛けた。ゆっくりピンセットを上げると、骨の多い頭部が粉末状に砕け、尻尾はぎりぎり形を保って皿に貼り付いていた。その残骸を払いのけると、紙皿に小さく一文字の傷だけが残った。今度はピンセットをペンみたいに使い、その傷に何画か足して、『死ね』と書いた。死んで欲しいと思うほど、憎い人や嫌いな人は思い浮かばなかった。けれど何故だか突如沸き出たのが、『死ね』という言葉だった。


 もう今日は残りの二人は来ないのだろうと思っていたが、波多野がやってきた。呼吸は荒い上に汗だくだった。生物部で唯一の同級生だ。

 波多野は変に艶のよいおかっぱ頭で色が白く、背が低いのに太っていて、子どもの頃に読んだ御伽噺に出てくる意地の悪い王子様のイラストにそっくりだった。


 波多野とは中学3年生のとき、一年間だけ同じクラスだった。特別仲が良いとか、悪いとかではなかったし、僕以外の誰かと仲が良いという感じでもなかった。先生に好かれているというふうでも、クラスの中で何か役割があるわけでもなかった。


 一学期が始まった当初は、僕の右斜め前の席に座っていた。授業中はいつもノートに文字をびっしり書いていて、勉強が出来るのだろうと思っていた。けれど英語の授業で先生に指名された波多野は、何一つ答えられずに、どの母音にも当てはまらないような声を漏らしただけだった。これ以上やると虐めているみたいに見られると思ったのだろうか、先生が、もう良い、座れと声をかけるまで波多野は棒立ちのままだった。

 そのときは単に多くの人の目に晒されるのが不得意な奴だと勝手に思っていた。

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