第2話
6限目が終わると、僕はいつも中等部の校舎にある生物実験室に向かう。生物実験室は高等部の校舎にはないので、毎回5分程度歩いていかなければならない。僕の通う高校二年生の教室を出て目の前の階段を降り、職員室と進路指導室の間の長い廊下を横切る。その辺り一帯には昨年の高校三年生の合格実績が張り出されていた。花丸で囲われた『祝』の赤文字の下に名前と大学名が書かれている張り紙は、上の一点のみ画鋲で留められていて、廊下の端を人が通るたび、風圧で一枚ずつふわりと浮かんでは落ちていく。一流大学も、名前を聞いたことのない三流大学も等しく風になびくのが、とても滑稽だった。
昇降口には日が差してはいなかったけれど、春の生暖かい日差しの名残がまだ尾を引いていた。金属製の下駄箱の中からスニーカーを取り出そうと小さな扉を開けると小分けになった熱の塊が出てくるのを感じた。
上履きからスニーカーに履き替えて校舎を出て、駅に向かう通学路とは反対の方向に歩き出す。大勢の生徒が駅に向かう人並みに背を向けていくのが毎回仲間はずれにされたみたいで寂しい気持ちにさせられる。
灰色のコンクリートブロックで舗装された校内の広い道路には色違いの真っ赤なブロックを巧みに並べて巨大な校章が描かれていた。僕が中学二年生の頃に何かの記念で作られたものだ。出来てすぐの頃は、なんとなく踏んではいけない神聖なもののような気がして、皆跨ぐように歩いていた。今は体育で使う白い石灰を何度も被り、教職員の自家用車のタイヤの跡が幾つもこびり付いて薄汚れている。そこを通るたび、駅前の街路樹の下に置かれ、鳥のフンまみれになったバス停の木造ベンチが思い出された。僕は夜の道に誰かが残した吐瀉物を避けるみたいにして通るのが癖になっていた。
中等部の校舎の入り口で学校名が印字されたスリッパに履き替える。スニーカーは中等部の生徒が使う下駄箱の上に置いておく。スリッパで歩くと幼児が足を引きずって歩くような軽薄で頼りない音が鳴る。耳障りで嫌いだった。
生物実験室は五階建ての校舎の最上階にあったが、生徒は特別な理由を除いてエレベーターの利用を禁止されていた。エレベーターを使っているのは足を骨折した生徒か、定年を過ぎても学校に居残っている枯れ枝のようなじじいの数学教師くらいだった。
五階までの階段を昇るのは毎回苦痛だ。長い階段が単純に肉体的な苦痛でもあったし、中学の頃の顔見知りの教師たちとすれ違うのが何より最大の苦痛だった。教師が階段を降りてくるたびに短く、さりげなく、会釈と認識されるギリギリ程度に頭を下げる。不必要な会話をせずにやり過ごすための防衛策だった。
そこで会う教師は皆、高校生になって中等部の校舎にいる僕のことを馬鹿にしている気がした。文系なのに生物部に所属する僕を、生物部なんて後ろめたい暗がりに属する僕を見下してるのではないか。成績や部活などといった生徒としてのステータスを全て抜きにしても、僕という一個人を軽蔑しているのではと思われた。階段の上から降りてくる教師と下から登ってくる僕との物理的な位置関係が心理的に何かしらの影響を及ぼしているのかもしれないけれど、たしかにそう思えた。目の悪い人が裸眼で文字を読むときのような、強張った顔で睨みつけられる感じがするのだ。
階段を一区切り昇るたび、踊り場で小休憩して息を整えたかったが、いつ教師がやってくるか分からないので一息に目的地に辿り着かなければならなかった。生物実験室に入る前には、いつも荒い呼吸で気道が擦れる音がした。
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