第18話
その男はいつもと変わらない様子で私たちの前に現れた。
いつも通りの引きつける魅力的な微笑は心の余裕の現れなのか?
その態度が気に入らないのだろう海峡先輩はさらに顔を険しくする。
「どうしたこんな時間に呼び出して?話とはなんだ?それにその男誰だろうか?」
珍しいく質問責めをしてくるがそれでも焦りは微塵も見えない。
むしろ楽しそうに海峡先輩をし品定めするかの様にジロリと見る。
その視線に海峡先輩も居心地が悪そうに睨みつけていた視線を逸らす。
「この人は高校時代の先輩」
「ふぅん、それで二人して私に一体なんのようだろうか?今後の話と言っていたがこの様子から穏やかな内容じゃなさそうだな。前置きはいいから単刀直入に言ってくれ」
やっぱり焦りは見えないけどやけに結論を急いでいるこの人になんだか嫌な感がする。
まるで私たちが追い詰められていく様な重力が一段階上がったかのような圧迫感を感じる。
でもここまできたら引き下がることはできない。
私は意を決して口火を切る。
「じゃあ、聞きます。貴方はなんで幹さんの名前で私に近付いたの?月下忠光」
その名前を口にした瞬間彼の顔から笑顔の仮面がこぼれ落ちる。
初めて見たその顔が幹さんの仮面を捨てた月島忠光自身の顔なのだろうか?
けれどそれも一瞬彼は仮面を付け替える様にまた笑顔を繕う。
「ほぅ。その名前を覚えていたのか。なぜ今になって私の事に気づいたのかは知らないが、良く気がついた」
パチパチと鳴り響く拍手。
月下はまるで子供が問題を解いて褒めるかの様に手を叩く。
「それで、私が月下忠光だったとしてそれがどうした?名前が違うところで私が私である事に変わりはない」
「そうかもしれない。けれどそもそも、なんで偽名なんか名乗ったの?」
「それは君に近づくためだ」
「私?」
その事と偽名を名乗ることに一体どんな関係があるのか分からず私は疑問の声を上げる。
「君は幹和彦の事が好きだっただろう?あいつが死んだことは知らない様だったし都合よく私の事も忘れていただから名前を借りただけのことだ」
「そうまでしてなんでこの女に近づいた?好きだったのか?」
今まで黙っていた海峡先輩がそこで初めて声を上げる。
当人同士の問題だからと口を挟まない様にしていたみたいだけど、月下の謎の行動につい声を上げてしまった様だった。
そんな彼を月下は少しめんどくさそうに一瞥する。
「彼女が蓮木昼夜の妹だからだ」
それは良く意味のわからない返答だった。
「わからないか?要は親友の妹に自分の子供を生ませてみたかったんだ」
意味がわからなかった。
当然の様に言っている月下忠光の事がまるで理解できなかった。
この人はなんでこんな異常な事を平然と言えるのだろうか?
私の事を一体なんだと思っているのだろう?
今まで一番の理解者だと思っていた人が急に得体の知れない宇宙人になってしまった。
「なぜそんな事を?」
ショックで何も言えない私の代弁をしてくれる海峡先輩からもいつもの圧がが消え少しでも距離を取る様に月島忠光の正面に立たない様に体を背ける。
「なぜかって?そんなの面白そうだからに決まっているだろ。要は娯楽だ。女を抱きたい孕ませたい、男として当然の欲求だ。彼女は顔もそこそこ整ってるそう思ってもおかしくないだろ?」
「獣かアンタは?」
軽蔑する様な眼差しを向ける海峡先輩に月下忠光は愉快そうに笑う。
「獣の様に生きた方が楽で楽しいものだ。お前も男だわかるだろできるだけ多くの女を抱きたい気持ちは」
「俺はそこまで勝手に生きれない。理性や道徳ってもんがないのかアンタは?」
海峡先輩の最もな指摘に月下忠光は面倒臭そうにため息をつく。
「つまらん正論だな。一度っきりの人生そんなものに縛られて終わるのは馬鹿らしい。理性や道徳じゃ私の心は満たされないのだよ」
「私のことが好きだっていうのは嘘だったの?」
信じられない現実にせめて好きだというあの気持ちだけは本当であってほしいと願い聞くが、月下忠光は何故かそんな私を楽しそうに愛しそうに見つめ首を振る。
「女という意味では君も好きだ。けれど個人的な執着はない。君が昼夜の妹じゃなければ見向きもしないくらいに、君自身への関心はない」
「じゃあなんで好きなんて言ったの!」
怒りにまかせそう叫ぶけれど、月下はそんな私の態度についに耐えきれないという様に笑いだす。
「そうしなければ身体を許したりしなかっただろ?どっちにしろ君も望んで及んだ事だ、どうだった?生涯を誓った相手がいる中で他の男に抱かれる背徳感、気持ちよかっただろ?」
胃が一気に縮み上がる感覚とともに吐き気が体を襲う。
自分の体が一気に汚れたものに変わった様な気がした。
こんな男に抱かれていたなんてそんな男に溺れていたなんて、ドブ川を体の奥にまで注ぎ込まれたかの様な気持ちの悪さに嗚咽する。
「あれだけ中出ししたんだ。子供ができていればいいのだけれどな。ここまで待ったんだ上手くいかないとつまらない」
「なんで、10年も待ったの?あなた知ってたでしょ?私があなたのことが好きだって。すぐ私と付き合えば良かったじゃない」
それだったらまだ結末は違ったかも知れない。
それならまだ私は家族をこんな男の為に裏切らず私だけが傷ついて終われたのに。
そんな怨み節を月下は駄目だダメだと妙に雰囲気重くゆっくりと首を振る。
「それじゃあ、君がここまで絶望しなかっただろう?罪悪感と絶望にまみれたその顔を私はみたかったのだから。それに人のものを汚す方が快感だ」
「下衆が」
その海峡先輩の吐き出す言葉に月下はクスリと笑う。
「他人のことなんて自分の利益にならなければ気にする必要ないだろ」
多分それが本音なんだろう。
結局彼は自分の快楽の為私に近づいただけだったということか。
なんて馬鹿。
月下に対して怒りは湧かない。
ただこんな男に心も身も許した愚かな自分が情けない。
過去に戻れるなら過去の自分を殺してしまいたい程の自己嫌悪。
そんな私を見つめる視線。
月下は幹と名乗っていたあの事と変わらない本性とは真逆の美しく優しい顔で微笑んでいる。
「ああ、良い顔だ。壊れかけのその表情。今にも崩れそうな脆い心が反映された実に良い顔だ」
再びパチパチと手を叩く月下は実に素晴らしいものを見せてもらったと満足げでまるで劇を見終わった観客の様だ。
その演目は間違い無く悲劇だろうけれど。
そうこれは彼のために用意された悲劇だ。
彼を満足させるためだけの物語。
その主役に選ばれたのが私だった。
「なぜ私だったの?兄の妹だからって言ってたけどアンタは兄の事が憎かったの?だから妹の私にこんな事を?」
自分なりに考えて彼がこんな事をする理由はそれしか思いつかない。
だけど彼は首を振る。
「違う違う、そうじゃない。言っただろう昼夜と私は親友同士だとどうしてそんな勘違いをするんだ。昼夜が私をどう思っていたかは正直分からないが私にとって彼はとても面白い存在だった。だから妹の君にも興味を持ったんだ」
「親友?ならどうしてこんなひどい事するの?」
「酷いことなんて言うんじゃないよ。お前だって望まれて私に抱かれたじゃないか。まぁ確かにお前が拒んだところで私はお前を抱いたがな。言っただろう私は私が楽しければそれで良いんだ」
「最悪だよ。アンタは」
涙を流しながらのその一言も月下には笑われる。
「そうか。まぁ私はそんなもんさ、気付けなかった己を恨みんだな。さて話は終わりか?なら私はそろそろ帰るぞ。こちらも暇ではないからな」
その発言に私も海峡先輩も驚く。
「どうした二人して、目をひん剥いて。随分と面白い顔だな」
どこまでも楽しそうに私たちの様子を観察する月下に海峡先輩が少しだけ後退りをした。
多分私と同じ様にこの男のことを不気味で恐ろしく思っているのだろう。
このあまりにも理解不能な行動と言動に月下から距離を取りたくなるのだ。
それほどに彼は不気味で気持ちが悪い。
「お前まさかこのまま帰る気なのか?」
「ああ、それともまだ何か用があるのか?安心しろ星美にはもう近づかない。正体が分かった以上付きまとっても面白くないしな。それでお前たちも良いだろ」
どこまでも身勝手な言い分だけどその堂々たる言い様はまるで王様の様で正論を言ってるのはまるで向こうの様な気がしてくる。
「じゃあサヨナラ」
それだけ言うと月下はもう用はないと本当に帰ってしまう。
遠ざかっていく背中はまるで私と彼の心の距離。
いや、距離なんて初めっからなかったのかも知れない。
だって私はあの人のことを何一つ最後まで理解できなかったのだから。
もう二度と会うことはないだろうその幾度と見た去る背中、その背中にせめてもの抵抗の様に私は叫ぶ。
「忘れないから!アンタのこと!最悪の出来事だったけど忘れてなんかやらないから!アンタの思い通りに絶望なんかしない、私はこの出来事を忘れることなく生きるから!」
急に叫ぶ私に隣にいた海峡先輩は目をパチクリさせ驚いていたが月下はゆっくりと振り返ると変わらない澄ました微笑みで、
「やはり君は面白い」
それだけ言って二度と振り向くことなく去っていった。
未練なんて何一つない様に潔く。
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