第12話

手の震えが止まらない寒い訳じゃない恐くてだ。

怖くて体が震えるなんて本当にあるんだと、変に冷静になる。

スマホを取り出し、震えながら幹さんへ連絡を入れる。

『芹香が?なるほど。私の君に近しい人物という読みは残念ながら正解だったというわけか。それで君は今どこにいる?私もすぐにそこに向おう』

そう心配してくれる幹さんの心遣いが嬉しい。

「今はまだ家です。どこかで待ち合わせしますか?」

わざわざ家に来てもらうのは申し訳ない待ち合わせの方が時短にもなるだろうし。

『お前はまだ家にいるのか?すぐに家を出るんだ。芹香は恐らくそちらに向かっているぞ』

「へ?」

間抜けな声を漏らす私、幹さんの言ってることがよくわからなかった。

『芹香はあいに行けばいいと言ったんだろ?ならもうそっちへ向かってるはずだ。全てがバレた彼女が君への行動に躊躇いなど待つはずがない。今すぐ逃げるんだ。私もすぐにそちらへ向かう』

バタバタと急いでるような音と共にそう伝えられるとなんだか自分がとてもまずい状況にいることが身に感じてきた。

「どうしよう?」

とりあえず貴重品をバックに詰め家を出る。

転げるように外に出ると真っ赤な夕焼けが目に染みる。

今日の夕焼けはまるでぶちまけたかのような濃い橙色で美しいというよりおどおろしく不気味だ。

そのせいだろうか?

元々人通りが多いとは言えないけど今は周囲を見渡しても人1人いない。

不安が増す。

逃げろと急に言われてもどこがいいかなんてわからない。

とりあえずこんな人気のないところはダメだと思うけれど、なら人が多い場所が良いんだろうか?

だとしてどう向かう?

徒歩が良いんだろうか?

それとも車?

どちらが良い?

わからない私なにもわからない。

このまま塞ぎ込んでしまいたいけれど、今にあの曲がり角から芹香が姿を見せそうで体が震える。

そもそもなんで友達の芹香にこんな恐怖を覚えないといけないのか?

なぜ私がこんな目に合わないといけないのか?

もう何もかも嫌になる。

結局行き場なんて分からなくて家へと引き返す。

とりあえず鍵さえ閉めれば安全だろう、変にうろつくよりはよっぽど安全だと思う。

そうだここで助けを待てばいいんだ。

ソファーに座り毛布を体に巻きつけると少しだけ安心した。

このまま何事もなく時間が過ぎていけば良い。

そうさ!あと3時間もすれば公男も帰ってくる。

それまでの辛抱。

空人は保育園に預けたままだけど仕方ない、自分の安全が確認できてから行けばいいさ。

「そう大丈夫」

そう声に出して自らを落ち着かせる。

こんな事でなにが変わるかわかんないけどでも黙っていると頭がおかしくなりそうだった。

大丈夫と何度も呟くその姿は人から見ればとても大丈夫のようには見えないだろ。

こんな自分誰にも見られたくはない、そう思って何気なく窓の外に目をやると、窓の向こうでニヤニヤとこちらを見ている芹香と目が合った。

交差する視線、私たちは互いに無言で見つめ合う。

芹香は笑顔私は多分真顔で。

こんな時は驚き声を上げて逃げるものだと思っていた。

けれど実際はその真逆。

思考が停止したまま動かない。

どうしよう?

やっとそこまで考えれた所で芹香がハンマーを窓に向かい振り下ろした。


ガシャンというガラスの弾けるその音に呼応するように私の体もビクリと跳ね上がる。

破られたのは窓の鍵付近のガラス。

まるで刃物のように尖ったガラス片をまるで意にも介さないように芹香は腕を突っ込み鍵を開けた。

ガラガラと窓を開け土足のまま室内へと入ってくる芹香はどこか楽しげに笑みを浮かべている。

その顔がとても怖い。

正に貼り付けたような笑みは心のうちが見えない仮面。

どうしてこの状況で笑顔でいるのか?

それが分からなくて、自分がどうなるのかが想像できない。

芹香がまた一歩こちらへと歩み寄ると反射的に私の腕がビクリと動いた。

怖い、ここに来てやっと恐怖で体が動いた。


「震えて可愛いなー星美は」

スッと手を伸ばし私の頬を撫でる芹香その手からは血が滴り落ちてた。

多分さっき鍵を開けるときに切ったんだろう。

今もダラダラと血が流れ出ているのに芹香はまるで他人ごとのように気にしたそぶりを見せない。

ただその血だらけの手を私の唇に伸ばしそっとゆっくりと撫でる。

唇に広がる生暖かい感触と鼻につく鉄の香り口の中にはねっとりとした血の味が染み出してきた。

血を塗られた?

「はい、綺麗な口紅ができた。綺麗だよほっしー」

そう言いながら芹香は私に抱きつき大切なものに触れるかように、優しく頭を撫でる。

それがとてつもなく気持ち悪くて、まるでムカデが背中を這うかのような生理的悪寒が走りその手を振り払ってしまう。

「ほっしー?」

何でそんなことするの?

そんなショックを受けたかのような顔を見せる芹香はここに来て笑顔の仮面が剥がれる。

私に弾かれた手を痛がる様にさする。

さする芹香の白い手はどんどん赤く染まっていく。

その様が異様で気持ちが悪い。

「こないで」

「ほっしー?」

拒絶されたのが分からないのか、再び近づこうと私に手を伸ばしてくる血だけの手を。

それが限界だった。

「やめて!」

力一杯芹香を突き飛ばす。

ソファーに腰掛けた状態から押したので力が入らず芹香は少しふらついた程度だったけど、押された箇所に手をやるとなぜかその場に座り込んでしまった。

どうしたのかとよく分からなくて気にはなったけど今しか逃げるチャンスはない。

よろけながらも立ち上がって家を出た。

家を出た後は息が切れるまで一直線に目の前の道を駆け抜ける。

途中近くの家に入ることも考えたけど留守だった場合そこで時間をかけるのが怖過ぎた。

どのくらい走っただろう妙に足が痛い見ると素足のまま走っていた。

ぺたぺたと足音がこだまする度に足裏に痛みが走る。

もしかしたら何かが足裏に刺さっているのかもしれない。

止まりたいもう走りたくない息を切らす体がそう訴えかける。

でももし止まって捕まったら?

無理だ止まることはできない。

せめて後ろの確認をしよう、芹香がいなければそんなこと気にしなくていいんだから。

目の前に曲がり角あそこまで行ったら身を隠して振り返ろう。

少しだけスピードを落としていくとぺたぺたとまたし音がこだました。

変だ、耳に聞こえる足音は明らかに自分の速度とあっていない。

テンポが明らかに速いんだ。

おかしい?

そう思ってつい振り返ってしまう。

夕焼けに照らされた一本道、その先には私が飛び出した我が家が見える。

かなりの距離を走ったつもりだったのにその距離はせいぜい100メートルくらいだったようで

気持ちの割にあまり走れていなかった。

そして私の十歩ほど後ろには芹香が歯を食いしばった必死の形相でこちらに走って来ていた。

その様は鬼、鬼女の様だ。

そして何故か右手を不自然に振り上げている。

その先にはちょうど拳大のガラス片が握られていた。

強く握りしめているせいか?

それとも先程の怪我のせいか?

その手からは未だ血が流れ出ていた。


「いや」

か細くそう叫ぶ自分の声が聞こえ私はまた駆け出す。

捕まったら殺される、きっとあのガラスで体を切り裂かれる。

血を撒き散らして私がただの物体へと変わる。

そんなには嫌だ!

「やだー!」

声が枯れるほど大声で叫び走り出す。

誰か気づいて助けて。

叫びながら振り返ると芹香はさらに距離を詰めていてもう手の届きそうな距離にいた。

「ほっしー!止まって私のところに来てー!」

そう叫ぶ芹香の声が頭のすぐ後ろで聞こえた。

「やだ!やだ!!」

さらに逃げようと足を動かすもふるえてうまく走れない。

恐怖で足がもつれ転びそうになる。

そのまま転びそうになるのを芹香が後ろから支えてくれた。

「危ないよほっしー」

耳元で聞こえる優しい声。

もしかして正気に戻ってくれた?

そんな希望を込めて振り返ると、頭がぐらりと揺れた。

右の頬が痛い、そこで初めて自分が殴られたことに気づいた。

「走って逃げるなんて酷いよ。しかも裸足で止まらないと危ないよ」

芹香はそう怒りとも喜びともとれない目を見開いた笑顔で私を再び殴りつけた。

「私から逃げるなんて、私はいつもほっしーのこと思ってがのに、なんでそんな酷いことするかな」

ガンと三度頬に痛みが走る。

「やめて」

そう懇願したけど喋るなというかの様にまた殴られた。

バカバカと殴られ続ける。

殴られない様に手で顔を覆っても病的に右頬を狙って来る。

ガードしている手の上からでも構わず。

酷いよ酷いよなんて呟きながら。

ガラスを握っている右手で殴っているから芹香の掌はさらに血だらけになっていて、手を振りかざすたびに血飛沫が飛ぶ。

まるでロボットの様なその動きはもう私の知っている芹香とは全くの別物になっていた。

「いや!」

芹香が拳を振り上げている隙に体当たりして体から引き離す。

その衝撃で芹香は後ろへよろけて尻餅をついた。

逃げるなら今だ!

そう駆け出そうとしたら芹香に左の足首を掴まれる。

反射的に振り返ると芹香は高々とガラスを振りかざしていた。

終わった頭によぎったのはそれ。

よくいう走馬灯だろうか一気に色々な思い出が描き巡る中最期に頭を過った人物は誰だっただろうか?

目の前に迫るガラス片、それは私の数センチ前で止まった。


「ここまでだな。芹香」

ガッシリと芹香の腕を掴む手、その先には幹さんの顔があった。

「お前」

芹香が何かを言おうとしたが幹さんはそのまま腕を捻りあげると芹香を地面へと組み伏せる。

バタンと顔から地面に倒れた芹香の頬からは血が流れ出ていたがやっぱり彼女はその事を気にかける素振りを見せない。

代わりに幹さんの事を射殺すかの様な怒りの表情で睨み付ける。

「その瞳だけで人を殺せそうだな。ずいぶんな代わり様だ、そんなに星美が恋しいか?」

煽る様な幹さんの言葉に芹香は唸り声を上げる。

それこそ人ではなく獣の様に。

「お前!お前ー!なんでここに!」

「お前がバカな真似しないかと目をつけていたのが幸いしたな。ここまでの事態になるとは考えなかったが」

幹さんはチラリと私の方を見る。

何か言わなければと思ったけど声は出なかった。

「警察は呼んである、安心していい」

そう幹さんが言ってくれたけど辛うじて頷くのが精一杯だ。

そんな私より芹香の方が幹さんの言葉に反応した。

「警察?嘘でしょ?」

信じられないそんな顔をする芹香に幹さんが見下す様な冷たい視線で答えた。

「嘘のものか、あと数分で警察がきるだろう。そうなればお前は間違いなく捕まる。これだけの目撃者もいるんだ証人は山ほどいる、たとえこの場を逃げ出せても逃げ切ることなど不可能だ」

辺りを見ると騒ぎを聞きつけたのか確かに多くの人が周囲に集まり出していた。

「そうなればお前は殺人未遂の現行犯で捕まる傷害や住居不法侵入もつくか?いずれにしろお前はこれで終わりだ。ご苦労様」

「終わり?私はもう終わり?」

そううわ言のように呟く芹香の顔は真っ青になっていく。

それが今幹さんに言われた言葉のせいなのか、それともいまだに流れ続ける右手の出血のせいなのかはわからないけれどこうして静かになったことに少し安心する。

出来れば警察が来るまでそのまま大人しくしていて欲しい。

だと言うのに幹さんはなぜか芹香を追い詰めるかの様に言葉を続ける。

「そう終わりだ。君はこのまま捕まりそして少しずつみんなから過去の存在として忘れ去られる。人は忘れて生きていくものだからな。君の様な存在は早く過去の存在として過ぎ去ってくれた方がいい」

なぜ今そんな事をわざわざ言うのか?

幹さんの意図が理解できないでいると、先ほどまで静かだった芹香が再び暴れだす。

「やだ、そんなの嫌だ!」

周囲の人々が萎縮するほどの絶叫。

そんな中ゴキと鈍い音がしたと思うと芹香は幹さんの拘束から抜け出した。

その音が一体なんなのか察してしまい私は目を背ける。

「まさかな、腕の骨が砕けるのを覚悟で抜け出すとは。だが抜け出してどうする?言ったようにお前に逃げ道はない」

芹香はふらつきながらも落としていた凶器ガラス片を再び手に取った。

そんな姿に幹さんはため息を吐く。

「そんなものを持ってどうする?ふらついた今のお前に殺されるほど私は甘くないぞ」

無駄な抵抗はするなと呆れ気味に言う幹さんだけど芹香はそちらを見ていなかった。

彼女の目線にあるのは私。

ただ真っ直ぐに訴えかけるように覗き込むように刻み付けるかのように私を見定める。

「私を忘れないで!」

そして声で目で私に訴えると右手のガラス片を自ら首に突き立て引き裂いた。

「ギギェ」

それが断末魔というやつだったのだろうか?

奇妙な声を上げると芹香はそのまま私の前に倒れた。

「芹香!」

あんなに逃げ出していたのに私は気付けば自ら芹香に駆け寄っていた。

芹香は地面に倒れたまま動かない。

ただ瞳だけを私の方に向ける。

何かを話そうと口を動かすけれど切り裂かれた喉では声は出ず、呼吸をしようとするたびに空気ではなく血が荒く切り裂かれた喉からドプリと脈打つようにこぼれ落ちる。

彼女の命がぼとりと赤い液体に乗りこぼれ落ちていく。

芹香の瞳から光が失われていく。

ああ、これが死なのかそう漠然と事実を突き立てられる。

ダメだ!

芹香が死ぬのはダメだ。

つい先ほど自分を殺そうとした相手にどうしてこんな感情が湧いてしまうのかはわからなかったけど、今にも死にそうな彼女を放って置けることができなかった。

すぐさま上着を脱いで彼女の傷を覆うと血がこぼれないように手で押さえた。

圧迫止血というやつだ。

このやり方が正しいかなんてわからないけれど、こうしたら出血が抑えられるとテレビで見た覚えがあった。

傷口を覆う手はすぐに血で赤く染まる。

人の血液がこんなに熱いものとは知らず咽せるような金属臭さと相まって背筋がゾワリと震えた。

圧倒的な不快感、それでも辞めるわけには行かない。

「早く早く救急車」

目の前にいる幹さんにそう呼びかける。

けれど彼は険しい顔をこちらに向けるだけで動こうとしない。

何をのんびりしているのか!

そう苛立ちが一気に募る。

「救急車!」

私がそう叫んだところで幹さんは首を振った。

「もう死んでる」

その言葉にハッとして芹香に目をやる。

彼女は変わらずこちらを見つめていた。

感情なんて覗くことのない虚な瞳で。

「芹香」

私のその呟きはもう彼女には届かなかった。

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