第10話

「ママ!」

そう呼ばれて反射的に振り返ると膝にドンと軽い衝撃を受ける。

危うくその反動で手に持っていた鍋を落としそうになりヒヤリとする。

なんだと視線を下に向けると小さな頭が視界に入った。

可愛らしい癖っ毛が特徴の男の子はクルリとした瞳で私を見る。

その可愛らしさに怒ることを一瞬忘れそうになるけれど、今のは本当に危なかったので許してあげることはできない。

「こら!ママが料理してる時は飛びついたらいけないって何度いえばわかるの!怪我するよ痛い痛いなりたいの!?」

目線を子供と合わせてそう訴えると嬉しそうな笑ってた瞳が一瞬にして潤み泣き出しそうな顔になる。

そんな顔をされると可哀想になってしまう。

これ以上どう怒ればと考えてると、視界の端にソファーに寝っ転がる足が見えた。

その瞬間、頭にカッーと血がのぼる。

「ちょっと!ちゃんと空人のこと見ててって言ったでしょ!」

怒りのままに声を出したせいだ、声が少し裏返ってしまってやけに高い耳に刺さるような音となる。

私の怒号にソファーの上の身体はびくりと震えすぐにこちらへと起き上がりやって来た。

「ゴメン。ついウトウトしちゃって」

申し訳ないと謝ってくる公男その弱々しい態度を見ると余計に腹が立ってくる。

一家を支える立場なんだからもっとしっかり堂々としてと思ってしまう。

「ちゃんとしてよ!」

それだけ言い放つと私は自室へと閉じこもりベッドへと倒れこむ。

食事の準備の途中だったけどこんな気分で作りたくないし、また怒りそうになる。

最近こんなのばかりだ。

「ダメなのかなぁ?」

枕に顔を埋めそう呟く。

勢いで結婚して子供もできたけど、最近この生活に大きな疲れを感じる。

決定的な何かがあったわけじゃないけどこの10年で溜まりきった塵が今吹き出してる。

どこかで吐き出すべきだったんだろうけどタイミングを見失った。

公男は悪くない。

今日だって朝まで仕事をして帰ったからこそのうたた寝だったんだろう。

家族のためにと働いている彼を責めすぎるべきではない冷静になるとそう考えてしまうのに、どうしても怒りの衝動を抑えきれない。

きっと彼もこんな私に嫌気がさしているだろう。

私だってこんな自分は嫌だ。

だけど、どうすれば良いにかわからないちょっとしたことでつい感情的になる。

こうなってしまったらもう一緒にいるのは無理な気もする。

「ダメなのかなぁ?」

再び同じ言葉を呟き私は枕に顔を埋めた。



次に眼が覚めると部屋の中は暗闇に閉ざされていた。

私がふて寝したのが午後4時過ぎだったからずいぶん長い間寝てしまったのかもしれない。

眠気まなこで時計を探し時間を見ると電波時計は午後11時過ぎを示していた。

思った以上の時間の経過に驚きまだ覚醒しきっていない体を無理に動かす。

夕飯の支度も放置したままだ公男と空人はどうしているだろう?

ふらつきながらキッチンへと向かうと人の気配はなく電気も消されている。

電気をつけるとやはり二人の姿はそこにはなく私がやりっ放しだったキッチンも綺麗に片付けられている。

ガラリとした部屋を見回すとテーブルの上にメモ書きが置かれていた。

《昼間はごめん。作ってたカレーは冷蔵庫に入れておきます眼が覚めたら食べてください。空人は眠そうだったので寝かせつけました、色々負担かけてごめんね。仕事行ってきます。公男》

夫からのメッセージを手に冷蔵庫を開けるとカレーライスに後から公生が用意したのだろうスパサラがラッピングされ保存されていた。

子供部屋を除くと空人がクマのぬいぐるみを手に寝ている。

その横にはもう一体ライオンのぬいぐるみが置かれている。

多分公男が空人が眠るまでの時間遊び相手をしていたのだろう。

リビングへ戻りソファーへと腰掛ける。

「なんでそんな優しんだよ」

そんな愚痴を虚空にたれる。

いつもそうだ、私が怒って癇癪を出しても彼は怒ることなくこちらを心配する。

その優しさが今は逆に辛い。

罪悪感ばかりが溜まる。

最近はいっそ大ゲンカでもした方がスッキリするんじゃないかなんてまで考えてしまう。

ため息を吐き顔を伏せているとリビングの電話が静寂した空気を切り裂き鳴り響いた。

突然の電話にどきりと心拍数が上がり一気に不安な気持ちが押し寄せる。

子供の頃からそうだけど深夜の電話はなんだか嫌な感じがする。

思い起こすのは高校時代の例の事件。

あの時も夜中に電話が鳴ったのを覚えている。

妙に緊張したまま手を伸ばす。

「はい、栗見ですが?」

受話器を手に取り相手の返答を待つが5秒10秒と待てども一向に声は聞こえてこない。

「もしもし?」

そう問いかけてもやはり返答はなし。

だというのに受話器の向こうからはかさかさと何かうごめく音が聞こえてくる。

何か布が擦れるような音だ。

それにズリズリという引きずるような足音。

なんだろうか?

「誰ですか?」

三度聞くと向こう側の物音がパタリと止まる。

しばらく続く無音。

そしてスーと呼吸音が聞こえたかと思うと電話は一方的に切られてしまった。

不気味な電話ただの間違い電話だと思いたいが、なんだか嫌な動悸は治ることはなかった。

そしてその嫌な予感は残念なことに的中することになった。

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