第45話
助手席には荷物を乗せているということで、僕と彼方さんは後部座席に並んで座った。これも僕に対する気遣いだろうが、さすがに分かりやすすぎる。乗り込んでからしばらくの間、窓から視線をずらすことができなかった。
「だから緊張しないようにって言ったのに」
バックミラーを覗きながら千加さんが呟く。
「してませんって」
「本当?」
すかさず彼方さんは僕の肩を叩いてそう訊ねた。あなたがそういうことをするからですよ、と言いたくなる気持ちを飲み込み、「本当です」と答える。
彼方さんは面白くなさそうに「ふうん」とだけ言って、運転席の方に向き直った。
「千加、遠いのにありがとね」
遠い、とはこれから向かう場所のことだろうか。例のごとく、僕は何も聞かされていなかった。
「いいよ、どうせ実家に行く用もあったし。……てか、遥くんは今どこに向かってるか知ってんの?」
「え、知らないよ?」
僕の代わりに彼方さんがあっけらかんと答え、千加さんの大きなため息が続いた。彼女が呆れているのは、伝達を疎かにする彼方さんになのか、それとも行先一つ知らないまま、なんの危機感も持たずにいる僕になのか、いや、間違いなく両方だろう。
こうして、改めて考えてみると、彼方さんは全然ちゃんとした大人じゃない。むしろ同級生である佐紀の方が、僕にとって大人びて見える瞬間は多い。まして、千加さんと比べるなんて以ての外だ。
それでも、彼方さんといるときが一番安心感を覚えるのだから不思議だ。もしかすると、彼方さんと僕は少しだけ似ているのかもしれない。足りなさというか、生きていくために落としてきたものが似ている。
「……まあいいや、どうせなら内緒にしとこう」
千加さんの反応からしてあまりいい予感はしなかったが、不安を抱いたところでどうしようもない。それよりも、と僕は思う。さっき電車で調べておきたかったことを今になって思い出した。
携帯の天気予報アプリを起動して、今日の天気を確認した。
今は夏真っ盛りで、連日根を上げたいくらいに太陽が主張を続けている。この二週間、降雨の気配すらなかった。でも、一応見ておくべきだと思った。最後の外出で見せるのが泣き顔なんて、寂しすぎるから。
「おっ、今日も気持ちいい晴れ模様だってね」
どうやら彼方さんも同じことを考えていたらしい。携帯の画面をこちらに見せながら、彼女は嬉しそうに言った。
「ですね」
と僕も自分の画面を見せ、二人で顔を見合わせて笑った。
車が止まるのは、思っていたよりも早かった。一時間ほど走っていた高速道路を降り、少し開けた通りを抜けた先の、いかにも住宅街のはずれといったところだった。家は建っているが売りに出されているものが多く、周囲には人の気配がほとんどなかった。
「ほら、ここだよ」
そこには学校があった。正しくは、『学校だったもの』だろうか。それなりに年季の入った大きな校舎は、まるで入れものがあるのに中身が詰められていないような、得も言えぬ空虚さで包まれていた。
「ここ、私たちの母校なの。三年前、廃校になっちゃったんだけど」
彼方さんが説明する。
「さすがに中には入れないんだけど、グラウンドとかは開放してあるっぽくてさ、一回来たかったんだ」
学生時代の彼方さんの話は、以前、少しだけ千加さんにも聞いた。二人はこの学校で、同じ美術部員として日々を過ごした。
そして、彼方さんが自らの病について知ったのも、この場所だった。
彼方さんにとって、ここは母校という以上に、特別な意味のある場所なのだろう。
「じゃあ、ちょっと家に顔見せてくるから」
僕と彼方さんを降ろすと、千加さんはそう言って、すぐに車を出した。
「ほら、入ろ」
彼方さんは嬉々とした様子で、僕を先導した。グラウンドは定期的に誰かの手によって整備されているらしく、よく見るとトンボがけの跡がうっすらと残っていた。
連日の日照りで乾いた地面は、僕たちが歩く度にザクザクと軽快な音を立てた。
「ここで持久走とかやってたんだよ。見える? この外周をグルグル回ってさ。別に走ることは嫌いじゃなかったけど、景色が変わんないのが嫌だったな」
多分、どこの学校でも大差ない思い出だろう。僕がまともにそういった手合いの授業を受けた覚えがないだけで。
僕が体育の授業を抜けたり見学したりするのは最早恒例のこととなっていて、初めの数回以降はなんのお咎めもなくなった。僕は運動が嫌いなんじゃなくて、他人と関わるのが致命的に不得手なのだと教師も察したのだろう。
今は、どうなんだろう。
もちろん馴れ合いや表面上の付き合いが嫌いなのは変わっていないけれど、あのとき感じていたような、他人に対する根源的な恐怖は、もう自分の中にはないような気もする。
「ねえ遥、あっちの方も見てみよ。部室棟、美術室もあるよ」
「行っても入れないんじゃないですか?」
「思い出なんだから、見るだけでいいの」
僕をたしなめるように言って、彼方さんは小走りで校舎の方に向かう。彼女が躓いたりしないか心配で気が気じゃなかった。
彼方さんの記憶は正確だった。それなりに広い校舎のどこになんの部屋が割り振られているかを、彼女は次々に言い当てて回った。僕はついこの間まで通っていた中学校の部屋割りすら、もうろくに覚えていないというのに。もっとも、それは僕の方に問題があるのかもしれないが。彼方さんの語る学生生活と自分のそれを比べると、いかに僕の過ごしてきた数年が希薄な日々だったのかがありありと分かって、少し目眩がした。
「うわ、もう石膏の一つもないんだ……」
窓から部屋の中を覗き込む彼方さんの姿は、空き巣の下見と間違われても文句は言えないほどの怪しさだった。もっとも、当の本人はなんの後ろめたさもなさそうだったけれど。
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