第44話

 今日は定休日でアルバイトは休みだった。先週は稼ぎどきということで定休日も返上して働いていたので、丸一日自由になるのはそれこそ二週間ぶりになる。

 必要もないのに、シフトに間に合う時間に目が覚めてしまった。習慣とはおそろしい。早く起きる分に困ることはないので構わないが。

 彼方さんから昨日の深夜にメッセージが送られてきていた。


『絵本、できました! こんな時間にごめんね、どうしても一番に伝えたくて』


 読みながら、喜びがふつふつと湧き上がってくる。そうか、彼方さんはやり遂げたんだ。彼女がいなくなった後も、この世に残るものをつくれたんだ。


『読みたいです』


 挨拶もなしにそう送った。ずっと心待ちにしていた作品の完成を前にして、衝動を抑えきれなかった。


『うん、会いに来て』


 返信はすぐに来た。履歴を見るに、まだ僕にメッセージを送ってから四時間も経っていない。もしかして彼女は寝ていないのだろうか。

 僕が『行きます』と返信を打ち込むのと同時に、彼方さんから追加のメッセージが送られてくる。


『それとね。もしかしたら今日、外出許可が出るかもしれない』


 心臓が跳ねた。前に彼方さんは、外に出られるのはあと一回くらいだと言っていた。

 その、最後の一回が来てしまった。そこまで考えて、『最後の』という部分を頭から抹消、したかったけれど、できなかった。

 終わりは、確実に近づいている。


『なるべく早く着くようにします』


 送信を押したときには、もう服を脱ぎ始めていた。まだ替えの服も用意していないのに。

 一日。今日一日を、なるべく長く一緒に過ごしたい。ただそう思った。


『転ばないでね』


 彼方さんから茶化すようなメッセージが入る。着替え終わった僕はすぐ階段を下りて、彼方さんに会いに行く旨を叔母に伝えた。


「そっか、じゃあ急いでいかなきゃね」


 この二週間の間に、彼方さんとの間に起きたなんとなくの出来事は叔母にも伝えていた。さすがにアルバイトで遅くなるにしては程度が過ぎていたし、なんとなく、今なら抵抗なく話せるような気がした。

 とはいえ、伝えたのは本当に簡単なことで、偶然会った彼方さんという女性に絵を教えてもらっていて、その人がそれなりに重い病気で入院しているので見舞いに行っている、という内容だった。嘘ではなかったが、体良く言い替えた部分があることは認める。

 叔母の忠告通り顔を洗って寝癖を叩き直し、それからすぐに家を出た。鞄にはいつものスケッチブックと最低限の画材、それと財布くらいしか入っていない。


 途中、花でも買って行った方がいいだろうかという考えが脳裏をよぎったが、そもそも僕は花屋にすら行ったことがないことを思い出して却下した。彼方さんだって、変に飾った僕と会いたいわけじゃないだろう。

 それにしても、落ち着かない。もう乗りなれているはずの電車の椅子に妙な居心地の悪さを覚えて、何度も座り直していた。

 もしかすると雑音が原因かもしれない、と迷走した結果、耳にイヤホンをさして音楽を流すことにした。鼓膜を覆う閉塞感を、僕は思わず懐かしいと感じる。少し前まではこうしていないと外を出歩けなかった。

 彼方さんから教えてもらった曲を聴いていると、少しだけ心が平常に戻ったような気がした。そしてそれからしばらく、僕は彼方さんのことを考えていた。


 彼女は今日、どんな服を着るのだろう。そもそも、どこかに行くあてはあるのだろうか。突然僕に委ねられたりしないだろうか。彼方さんの予期できなさは尋常ではない。想像するほど、最初は一抹ほどだった不安が積み重なっていき、結局は考えてもどうしようもないという思考へと終着してしまう。

 今日ばかりは、それではダメだ。ちゃんと伝えたいことを精査しよう。僕は彼女に、何か伝え忘れてないか? 疑問に思ったことの全てを言葉にできているか?

 まるで魚の小骨のように、頭の奥に何かが引っかかっているような感覚だけがあった。でも、それがなんなのかは分からない。彼方さんに会えば分かるだろうか。

 いつも以上に慌ただしい僕の思考とは裏腹に、電車はあくまでのんびりと進んでいた。


「待ってて、そろそろ準備終わるから」


 病室に着くと、そこには千加さんもいた。と言っても姿は見えないが。

 扉越しに聞いた話だと、既に外出許可は出してもらえたらしい。そして今、彼方さんは着替え中で、どうやら千加さんとあれやこれやと言いながら服を選んでいる様子だった。


「遥くん、あんまり緊張しないように頑張れよ」


 千加さんは笑い混じりの声で言った。


「しませんよ」

「へえ、してくれないんだ」


 好機だと思ったのか、彼方さんまでからかいに参加し始めたので、僕はそれ以上何も喋らなかった。廊下の長椅子に座って、部屋の中から聞こえる二人の声と、他の病室のやり取りがうっすらと聞こえた。

 斜め前の病室には、まだ午前中なのにかなりの人数の見舞いが来ていた。少しして、その中の何人かがハンカチや袖で涙を拭いながら出てきたのを見て、僕は何が起こったのかを察した。

 目を背けようとは思わなかった。むしろ、僕の心は凪いでいた。もちろん、彼らが赤の他人であるからそう思えているだけだ。そんなことは分かっていた。でも、少しは強くなれたのかもしれない。そう思わないと、これから始まる一日に、淀みない気持ちで望むのは難しかった。

 扉が開く音がした。


「お待たせ。結局また、同じ感じになっちゃった」


 彼方さんは、概ね僕が想像していた通りの姿をしていた。白とベージュの間くらいの色をした、前に見たものより少し丈の長いワンピースを着て、腰にはベルトが巻かれていた。ベルトは緩めに調整されていて、彼女のいっそう細くなったシルエットが露骨に出ないようにしているのが分かった。

 ほとんど毎日会っているのに、まるで昔の恩人に再会したような気分だった。それくらい、彼方さんはこの病室から出ていない。


「おはよう、遥く……」


 千加さんはそう挨拶をしかけたところで、さっき僕が見ていた、斜め前の病室の雰囲気に気づいたらしく、顔を曇らせた。彼方さんは全く表情を変えないため、気づいているのかどうか分からなかった。


「行きましょう」


 どちらでもいい。僕は自分に言い聞かせながら、そう彼方さんに笑いかけた。


「うん、行こっか」


 彼方さんも笑顔で同意して、千加さんを肘で軽く小突いた。


「運転手さん、今日もお願いします」

「はいはい」


 肩に乗せられた彼方さんの両手を払い除けながら、絵に描いたような呆れ声で返事をする千加さんは、なんとか平常心を取り戻したようだった。おそらく、僕たちに合わせてくれたのだろう。

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