第46話
見る限り、廃校舎はどの教室ももぬけの殻になっていた。学校の備品を再利用する先などいくらでもあるだろうし、当たり前のことなのかもしれないが、何も置かれていない教室なんて初めてだった。
あれだけ息苦しいと感じていた机や椅子、人の気配のするものたちが、教室という空間を構成するのに必須だったのだと改めて気づく。
こと美術室においてもそれは例外ではなかった。どうにも石膏やキャンバスの置かれていないその部屋は、何も知らない人間からすれば美術室として認識するのは難しい。強いて言うならば、絵の具の汚れがこびりついた床と、日光が入らないように工夫された間取りが、この部屋が美術室であることの唯一の要素だ。
著しくアイデンティティを失ったものを元のかたちで認識できるのは、損なう前のアイデンティティを知っている人間だけだ。もっと言えば、元のかたちを愛していればいるほど、失った原型を頭の中で補完することができる。
テセウスの船だって、要は愛着の問題だ。
「多分、歴代の美術部員でも私は一番有用にこの部屋を使ってたよ。いい意味で張り詰めてる空気が好きでさ、暇さえあれば来てたな。それこそ夏休みだって、ずっとここにいた」
無人どころか画材の一つも残っていない空間を前に、彼方さんはそう懐かしむ。
「本当に真面目だったんですね」
「でしょ。千加からは変人って言われてたけど」
僕も大いに同意なのだが、それは心の中だけに留めておくことにした。
「さて、と。そろそろ次のところ行こっか。無人教室ばっか眺めてても退屈だよね」
「別に退屈とかじゃないですけど」
教室自体はがらんどうで、もの一つ言わない空虚な空間ではあるけれど、それを眺める彼方さんの目には確かにかつての日々が映っていた。そういう彼女の反応だったりを見ているだけで、僕はそれなりに楽しめていた。
「遥は優しいなあ」
それよりも、そんなふうに笑いかけられる方が反応に困ってしまう。胸が締め付けられて、叫ぶ場所を探そうと、必死に何かが体から出ようとしていた。
次に彼方さんが向かった先は、校舎と隣接されたプールだった。とはいえ、出入口には内側から簡易的な施錠がされており、もう一つある更衣室側の入口には南京錠がかけられていた。
「これじゃ中は見れませんね」
「いや、まだ諦めるには早いぞ少年」
久しぶりに聞く変な言い回しでそう言った彼方さんは、履いていた靴も靴下も脱いで、プールを取り囲んでいる高さ三メートルほどのフェンスに足をかけた。
「ちょっと、危ないですよ」
「大丈夫、これでも運動神経は悪くない方なんだから」
そういう問題でもないのだが。
心配をする僕を他所に彼方さんは軽々とフェンスをよじ登っていく。確かに言うだけあって、運動神経はいいのだろう。そしてあっという間に、彼女はフェンスを越えて、プールサイドに着地した。
「ほら、遥も」
新体操の着地のポーズの真似事をした彼方さんは、僕にもフェンス越えを要求してくる。なんとなくそんな気はしていたけれど、本気でこんな子どもでもしないようなことをやってのける彼女はある意味ですごいと思う。
彼方さんにならって、僕も裸足になる。フェンスは太陽光に熱されていて最初は熱かったけれど、中盤まで登ったころには気にならなくなった。なるべく下を見ないようにしながら、頂点まで登ったフェンスを折り返す。
「落ちてもキャッチするからね」
足元で快活な彼方さんの声が響く。おかげで僕は絶対に落ちれなくなった。
ともあれ、一応は無事に、僕もフェンスの内側へと足を踏み入れることができた。
グラウンドがそうだったように、プールも誰かしらかが清掃に入っている様子で、特に経年変化による汚れや落ち葉が溜まっているなんてこともなく、水さえ補充すれば、今でも十分に機能を果たせそうな見た目だった。
貸し出しでもすればいいのに、と彼方さんが呟く気持ちも分かる。
「これ、誰かに見られたら怒られますよ」
「じゃあ見つかんないうちに逃げなきゃね」
思考回路が完全に犯罪者のそれだ。
「入ってみようよ」
「水、溜まってないですよ」
「だからじゃん。水が溜まってないプールに入るの初めてでしょ?」
水のあるプールでさえ好きじゃないのに、水のないプールを愛せるなんてことあるのだろうか。そんな考えを口にするとまた、遥は夢のないことが好きだね、とか揶揄されそうなので、黙って僕は彼女の背中を追った。
「遥も早く」
彼方さんに促されるまま、鉄製のハシゴを降りる。手入れがされているのもあって、プールの中は裸足のまま歩いても砂利や小石を感じることはなかった。
プールはそれなりに深く、満水時には僕の顎の下くらいまではありそうだった。
「枯れてるって感じかと思ってたんだけど、まだまだ現役だね」
「ですね」
周囲を見渡しながら僕は同意する。確かに、こんなふうに乾いたプールの中を裸足で歩くなんて、新鮮ではあった。彼方さんと出会ってなかったら、経験することすらなかっただろう。
「ねえ、遥」
突然呼びかけられ、僕は振り返った。すると、彼方さんはさっきとは一転、真剣な顔つきをしていた。思わず暑さを忘れてしまうくらい、低い温度の空気を纏っていた。
既視感があった。そしてそれは、電車の中で覚えた引っかかりと似たかたちをしている。
「私、まだ遥に嘘ついてるの。それも、とびっきりひどい嘘」
彼方さんの目は僕を中心に捉えたまま、決して離さない。その揺れなさは、彼女の覚悟を物語っているようだった。
そんな、彼方さんの告白を前に、僕は静かに息を飲んだ。なぜか、恐怖はなかった。
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