第36話
人間が心を病むと、その処理しきれなくなったストレスは心からはみ出して体に影響を及ぼす。睡眠不足、食欲不振、ただでさえ後ろ向きな生活に拍車をかけるように、心の腐乱した部分はじわじわと人間を蝕んでいく。
そしてその末路として、自傷や自殺など、衝動性の自罰行為に行き着く。そうしなければ、生きているだけで他人に迷惑をかけてしまうから。迷惑をかけるよりも、海に身を投げる方がよっぽど気楽に思えてしまう。
これくらいのことは、僕にもある程度理解できていた。自分自身、似たようなことを考えたことがあったから。いや、仮にもう一度他人を自分の降らせた雨で傷つけていたら、僕は間違いなく行動に起こしていただろう。でも、そうはならなかった。
自分の感情で泣けない、という呪いの代わりに、あの事件以来、僕の雨のせいで誰かを傷つけることはなかったから。言わば僕の呪いは、あくまで呪いであって、宿主まで喰らい尽くすような病気ではなかった。
対して、彼方さんの胸に飼われているものは、紛れもない病だった。泣けなくなる呪いなんて、そんな生易しいものじゃない。思わず現状から目を背けて、天職さえも手放して、海に身を投げたくなるような。
そんな、不治の病だった。
「高校二年の途中くらいだった。確か体育の授業で持久走をしてて、その途中だったのは覚えてる。目が覚めたら真っ白な天井。ちょっと目を下ろすと、お母さんと病院の先生の疲れきった顔がこっちを覗き込んでた」
まるで旧友と昔を懐かしむかのような、落ち着いた口調で彼方さんは語る。
もしかしたら彼女の中では、本当にただの過去でしかないのかもしれない。けれど、それを聞く僕の内心は穏やかなものじゃなかった。彼方さんは僕の様子を気にはかけているようだったけれど、話はやめなかった。
「私のこれ、生まれつきの疾患なんだってさ。にしては、気づくの遅いよね」
彼方さんは呆れたように笑う。
「最初に先生から伝えられた余命は五年だったかな。ちゃんと注意してればそれくらい生きられるかもって。なんだろ、最初はわりと受け入れられたんだよね。元々細く長く生きるとか、そういうタイプじゃないしさ。もう私は絵本作家になるって決めてたし、せめてそれが叶うまで生きられたらラッキーだなって」
「むしろそのおかげで、後がないんだからやるしかないって気持ちになれたのかも。がむしゃらに応募してた賞に引っかかって、高校を卒業してからすぐ、デビューが決まった」
「思ってた通り、絵本作家は本当に素敵な仕事だった。字体も文法もめちゃくちゃだけど、でも一生懸命書いてくれたファンレターとか、そういう読んでる人の声を聞く度、あのとき腐ってなくてよかったなって気持ちになれるの。遥、知ってた? 絵本って、案外大人も読んでくれるんだよ。自分の子ども用に買って読む人とか、学校の先生とか、それこそ、私の本を読んでくれた子だって、いつかは大人になって……」
なんでなのか分からない。
でも、そうせずにはいられなかった。
「……遥?」
「ただのわがままです、これは」
僕の手は、彼方さんの手を握っていた。冷たい手、だけれど、離したくなかった。
「嬉しい」
彼方さんはそう言って、二・三回ほど、繋いだ手を上下に振って微笑む。
「ごめんね、まとまんない話ばっかり」
「謝らないで、ください」
言葉が満足に出てこないほど喉の奥が熱くなっていた。
彼方さんは、本当に死ぬのだろう。ずっと、彼女はいついなくなってもおかしくない人間だと言い聞かせてきたのに。なのになんで、こんなに悔しい。
おかしい。受け入れたくない。そんな逃避の思考ばかりが浮かんできて、今触れているこの手がなくなった後のことを、どうしても考えられなかった。
でも、ここですら涙が出ない僕は、やはり人の心が欠けた、化け物だと思った。それが少しだけ、冷静さを取り戻させてくれる。
繋いでいる手に、力が込められる。俯いていた視線をあげると、そこにはまだ彼方さんがいた。今にも消えてしまいそうな顔をして。
「今日、遥を呼んだのは、会うの、これで最後にしようって言うためなんだ」
そんなことはとっくに察しがついていた。
ここ数日僕との連絡を絶っていたのも、それなのに急に病院に呼び出して秘密を吐露したのも、全ては僕が彼方さんと後腐れなく離別できるようにするためだ。
けれどそれは、もっと早い段階でするべき対処だった。既に彼方さんによって変わってしまった僕には、全くの逆効果でしかない。むしろ今彼方さんと離れてしまったら、彼女のシルエットはそれこそ呪いのように僕の中に残り続けるだろう。
最後まで綺麗に終わらせようなんて、許せない。
「嫌です」
「言うと思った」
彼方さんはふと視線を落とす。そこにはまだ、確かに繋がれたままの二人の手があった。
「うん、私も嫌」
「……はい?」
奇妙なやり取りに、思わず声が裏返る。彼方さんは顔の前まで繋いだ手を持ち上げ、笑っていた。
「今遥に会えなくなるの、死ぬより嫌なの」
これまで他人にもらったどんな言葉より嬉しいと思った。少しの間、固まって動けなくなってしまうくらい。言葉の意味を噛み砕き、じわじわと血液のようにあたたかい感覚が心臓のすぐそばから全身に広がっていくのを感じた。こんなのは、初めてだった。
僕もです、と言えばよかった。タイミングを逃し、ただ気恥しさだけが残る。手から動揺が伝わってないかと意識しすぎて、かえって力が入っているような気がした。
「あ、もしかして照れてる?」
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