第37話
「彼方の話、最後まで聞いてくれてありがとう」
帰りの車の中で、やっと千加さんは口を開いた。
僕が彼方さんの病室を出てからずっと、千加さんは無言を貫いていた。話が終わったかどうかの目配せに僕が頷くと、そのまま彼方さんに声をかけることすらせず歩き出したくらいだ。
別に不思議なことではなかった。もし仮に僕が千加さんの立場だったとして、今の僕にかけるべき言葉なんて見当たらない。
「今日話せたのは、千加さんのおかげです。だから、その、ありがとうございます」
自分でも情けなくなるほどたどたどしい。他人に感謝するほど深く関わるなんて、ついこの間まで考えることすらしていなかった。
「……もう、彼方とは会わないの?」
行きのときとは一転して、千加さんの纏う空気は張り詰めていた。声のトーンから、口にすることを躊躇した上での発言なのが伝わってくる。
千加さんはどうしてほしいのだろう。そんなことをふと思った。
昨日の電話でも、彼女は僕と彼方さんとの関係性については消極的な考えだと言っていた。初対面のときに感じた違和感とも合致しているので、本心なのだろう。
けれど、今思えばそれは僕のことを思ってのことだったのではないか。彼方さんがもうすぐいなくなることも知らずに僕がどんどんと彼女に依存して、二度と立ち直れないほどの傷を心に負う。という懸念が、千加さんにはあったんじゃないだろうか。
となれば、もう彼方さんの抱えていた真実を知った今の僕に千加さんが望むことは、一体なんなのだろう。
「会いたいって話はしました」
僕の答えに、千加さんの顔が一瞬強ばる。
「それは、遥くんが?」
「彼方さんの方から。でも、僕も同じ気持ちです」
彼女の望むかたちではないことは分かっていたけれど、僕はありのままを告げる。彼方さんと伝えあったものを曲げるつもりはなかった。
叱責されるだろうかと身構えていた僕の方を横目でちらと見た千加さんは、軽くため息をついた。
「まあ、あんたたちならそうなると思ってた」
「すみません」
「謝ることじゃないよ。それこそ、口出ししていいところなんかとっくに通り過ぎてるんだし」
でも、そっか、と何かを咀嚼するような呟きを何度かしてから、千加さんは続ける。
「彼方がちゃんと、会いたいって言ったんだ」
そう零す千加さんは、どこか安心したような様子だった。
「それで、なんですけど」
僕の切り出しに千加さんが喉の奥を鳴らして、「ん?」と返答をする。
「アルバイト、紹介してくれませんか?」
突然すぎる話の展開によほど動揺したらしく、車のハンドル捌きが一瞬狂い、僕と千加さんの体は激しく揺れた。
慌ててハンドルを元に戻した千加さんは、久しぶりに僕の顔を直視した。
「え、いきなり何?」
「もう夏休みなので、これからできる限り彼方さんに会いに来ようと思うんです。……それで、交通費くらい自分で稼がないとなって。もしできるなら、千加さんの働いているお店で働きたいなと思って」
実際のところ、僕の夏休みはもういつ始まったのかも定かじゃないが、そこについては触れないようにした。
渋い顔をしていた千加さんは、一応僕の主張を理解してくれたらしく、少し悩みこんでから口を開いた。
「まあ、遥くんの家から病院に行くなら、あの店を経由して行っても大して時間は変わらないし、多分、夏はいくら人手があっても足りないって店長は言うだろうけど」
何かの算段を立てているのか、千加さんはハンドルにかけた右手の人差し指を立てて空中をなぞるような動作をした。
「……よし、最終的には店長が決めるから確約じゃないけど、紹介するくらいならいいよ」
「本当ですか? ありがとうございます」
こんなことを頼むのは初めてだったので、正直既にひと仕事終えたような心境だった。
「じゃあ、店寄ってから帰ろう。ちょうどお昼も過ぎちゃったしね」
千加さんが軽やかな声でそう言うと、車は進路を変えた。ちょうど彼方さんと前に歩いた道と似た、海沿いの道路だった。まだまだ沈む様子のない太陽が反射した水面を見ていると、あの日のことばかり思い出してしまう。
僕はもう一度彼方さんと海に来ることはあるのだろうか、という考えがよぎって、すぐに頭の隅にしまいこんだ。
そんなことを考える時間は、これから嫌になるほどあるんだから。
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