第35話
千加さんの運転する車はやがて、大通りから細い坂道へと進路を変えた。坂にはそれなりの傾斜があり、かつぐねぐねとしたつくりのせいで道の続く先が中々見えてこない。
「そろそろ着くよ」
「こんな小高いところにあるんですね」
僕は気づいていた。目的地に近づくにつれ、千加さんの顔からさっきまでの余裕が消えていることに。
彼女は本当に優しい人なのだろう。だからこそ、心境を隠せない。
「ほら、そこ」
嫌な予感ほど的中するものだ。
千加さんの視線を追うように見た前方には、白く、大きな建物があった。すぐ側には木々が植えられていて、立派な中庭があり、駐車場には既に沢山の車が停められていた。
千加さんが僕を連れてきたかった場所、それがこの病院であるということを、頭が上手く処理してくれない。分かりやすいほど、僕は目の前の光景を拒絶していた。
「どうする?」
シートベルトを外しながら千加さんは問う。その声に緊迫感はなく、あくまで僕の判断に委ねるという姿勢のままだった。
「……なんでこんなところに来たんですか」
最低なことを訊いているのは分かっていた。けれど、千加さんの表情は揺れない。
「ここに彼方がいるから」
「だから、」
「それは私の口から言っていいことじゃない」
往生際の悪い僕の言葉を遮って千加さんは断言した。最初からずっと彼女は言っていた、「会うかどうかも自分で決めて」と。
何が待っているのか、想像もしたくなかった。彼方さんはどんな顔をして僕を迎えるのだろう。答えはすぐ近くにあるのに、心を振り絞らないと言葉にできない。
「……降ります。彼方さんに、会いに行きます」
千加さんは何も言わなかった。その代わりに僕の頭を乱暴なほど力強く撫で回して、先に車を降りた。
駐車場を抜けて入口の自動ドアをくぐり、千加さんが受付に彼方さんの名前を告げると、「三○六号室です」と事務員の女性が答えた。
やけに広いエレベーターで三階に上がり、病室までの廊下を歩いている間も、これって現実なんだな、とぼんやり考えるので精いっぱいだった。
彼方さんの病室は廊下の一番奥にあった。この階唯一の個室らしく、扉の色も他の部屋とは明らかに違い、まだ新しさすら感じる。
千加さんは早足で病室の前まで行き着くと、そのまま立ち止まる間もなくノックをした。数歩遅れて僕も追いつく。
「彼方、遥くん連れてきた」
その声はどこか緊張感を纏っていた。僕自身がそうだったから余計にそう思えたのかもしれないけれど、本当のところは、ずっと千加さんも気が気じゃなかったんだろう。
「うん、入って」
彼方さんの声だ。そんな、当たり前のことを思う。たかが三日間声が聞けなかったくらいで懐かしむなんて、きっと笑われてしまう。いや、むしろ今は笑ってほしかった。
千加さんに促され、僕は病院の扉を開いて中に入った。
「久しぶりだね、遥」
そこには、ひどくやつれた彼方さんが、真っ白いベッドの上に座っていた。
「彼方、さん?」
少し窓を開けているのか、風がカーテンを僅かに揺らしている。今の彼方さんは、そんな風にすらあっけなく攫われて、そのままどこかへ消えてしまいそうだった。
「千加、ありがとう」
「別に、ここまで来たのは遥くんの意思だから」
千加さんはどこか投げやりに言うと、「外で待ってる」と言い残して病室を出た。一連の流れを、僕は傍観することしかできなかった。
やり場のない視線を彼方さんの方に向けると、彼女は大袈裟に肩を竦めた。
「こっち来て」
柔和な笑みをたたえた彼方さんは、ベッドの近くに置かれた椅子に座るよう手招く。どんな顔をしていいのか分からないまま、僕はそれに従った。
僕の顔、おそらくは昨日できた傷跡を見て、彼方さんは無言のまま固まった。
「……これ、どうしたの?」
「そんなのいいですから、話ってなんですか。なんで彼方さんはここにいるんですか」
数日経てば消えてしまう顔の傷だとか、もっと理性的になるべきだとか、そんなのはどうでもよかった。とにかく彼方さんの口から、現状についての説明がほしかった。
ふと、頬に何かが触れた。
「痛くない?」
ぼんやりとした感触の正体は、彼方さんの指だった。僕の傷のすぐ側を、彼女の冷たい指が軽く押さえる。微かに痛みは感じたけれど、それよりもずっと大きな感情に頭の中が占領されていた。
初めて会った日も、僕は彼方さんの手の冷たさに驚いた。無理やり他人を引っ張っていく強引さも、大雨を気にしない大雑把なところも、何もかもが新鮮だった。
そしていつの間にか、彼女のそういうところを全て好きになっていた。
「あのね」
頬に添えられていた手がすっと引かれ、彼方さんはベッドから身を乗り出して僕の顔に自分の顔を近づける。お互いの呼吸すら感じてしまいそうな距離だった。
彼方さんの唇はずいぶんと色が薄くなっていて、硬そうだな、と思った。
「私、もうすぐ死ぬの」
今まで見たこともないような悲しい顔をして、彼方さんは言った。
彼方さんが、死ぬ。
聞こえていたはずなのに、いつまでも耳より奥に入っていかない。「あ」とか「う」とか、かたちにもならない音が唇の隙間から漏れる。目頭が熱くなる。けれど、涙は出ない。僕は呪われているから。
いつまでも視界がぼやけてくれない。ずっと視界の中心には沈んだ彼方さんの顔だけが映っている。
「……なん……で、なんで、ですか」
声が震える。本当は知りたくなんかない。もう何も聞きたくなんかない。
僕の問いに、彼方さんはいつか見たことのあるポーズをとる。自分の胸の辺りを押さえて、でも瞳だけは僕を見つめていた。思わず彼女の台詞がフラッシュバックする。『私だって、病気だし』。人間の心はそんなところにないのに、とあのときの僕は思っていた。
違う。違う違う違う。
僕は、勘違いをしていた。
あのとき彼方さんの手が押さえていたのは、心なんて不明瞭な器官じゃない。
あの言葉は、気の利いた言い回しなんかじゃなかったのだ。
「私の心臓、もうそろそろ止まるんだってさ」
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