第34話
「やあやあ、待たせたね」
カフェでのエプロン姿のイメージが強かったのもあって、目の前の女性が千加さんだと納得するのに数秒を要した。千加さんは大きめの半袖シャツにデニムを履いていて、かなりボーイッシュな服装をしていた。赤いつば付きの帽子も、彼女の中性的な要素をいっそう引き立たせている。
そしてこれも今気づいたことだが、彼女は喫煙者らしい。車に乗り込む際に、まず目に飛び込んできたのがいっぱいになった灰皿だった。
「心配しなくても、私、人を乗せてるときは吸わないから」
ハンドルを握った千加さんは、開口一番そう断りを入れた。よほど無遠慮な視線を向けてしまっていたらしい。
「いや、別にいいです。ちょっと驚いただけなので」
「驚いた? もしかして働いてる私って、めちゃくちゃ大人びて見えてたり?」
明らかに嬉しそうに千加さんは訊く。想像よりもずっと朗らかな雰囲気に、戸惑いと安心が半々の感情だった。
僕が彼女の質問に答えないでいると、千加さんはつまらなそうに唇を結んだ。分かりやすい感情の変移に、少し申し訳なさを覚える。
「こないだ彼方とうちの店来てくれたときも思ったけど、遥くんって常に緊張してるね。他人の視線とか、そういうのに敏感な感じ」
この勘の鋭さは彼方さんに通ずるところがあるな、と思った。
「臆病なので」
「いやあ、悪いことじゃないでしょ。怖がりだって才能だよ、才能」
そう言って千加さんは口角を上げる。髪の隙間から覗く耳には、いくつか銀色のピアスが光っていた。
「……てか、触れてほしくなかったらごめんなんだけど、その傷どうしたの? 喧嘩とか、しそうな感じしないけど」
遠慮がちに千加さんは訊ねる。
自分なりに応急処置はしたものの、まだ殴られた顔面には薄紫色の痣が残っていたし、河川敷を転がったときにできた頬の擦り傷もそれなりに目立っていた。気にならない方がおかしいだろう。
「天罰です」
詳しく話せる気はしなかった。それに、咄嗟に出た言葉としては、僕の心境と限りなく近かった。
昨日の林との出来事は、あくまでいつか僕が遭遇するべき事象だったのだと思う。
もう、僕はあのとき降らせた雨のことを自分の責任として背負って生きていくのをやめる。まだ実感は伴っていないけれど、それが自分の本心だった。
本当は、はなからそうしたかった。理不尽な呪いに見舞われた被害者として、自分を責める以外の逃げ場所がほしかった。それでも僕が罪悪感に押しつぶされそうだったのは、あの雨による被害者が確かに存在したからだ。
その一人である林に殴られたことで、少し胸が軽くなった自分がいた。根底から間違っている彼に対して、謝るのではなく否定することを選べた。それだけで、今は十分な気がした。ほんの少しだけ、自分のことを認められそうだった。
僕の曖昧な答えから何かを察してくれたのか、千加さんはそれ以上何も踏み込んでこなかった。
優しい人だな、と思った。
車は気づくと、見慣れない道を走っていた。
「そろそろ、目的地くらい教えてください」
「彼方がいるところ」
千加さんは毅然とした態度で言った。
「だからそれはどこですか」
「自分の目で確かめな。それで、会うかどうかも自分で決めて」
どうも引っかかりを覚える言い回しだったが、これ以上詮索したところで千加さんからは何も聞き出せそうになかった。
「彼方、結構癖ある性格でしょ」
突然、千加さんはそう切り出した。悪意を持って言っているわけではないことは分かった。
「まあ、確かに」
僕だって人のことを言える立場ではないが。
即答だったのがおかしかったのか、千加さんは軽く吹き出す。
「彼方とは高校が同じでさ、美術部だったんだけど。小さな学校だったし、部員は私たちを入れても十人しかいなくて。その中でも、本気で絵で食べていこうとしてたのは彼方くらいだった。昔から変わり者ではあったけど、でも自分で決めたことだけは絶対にやりきるんだよ」
今まで聞いたことのない彼方さんの話が聞けて、新鮮な気持ちだった。彼方さんは過去の話をほとんどしない。同じくらい、未来の話もしないのだけれど。いつも彼方さんは目の前のことだけを見つめている。
僕には、それが眩しい。
「なんか、彼方ってずるいよね」
千加さんが呟く。彼女がそう形容したくなるのは、僕と同じで、彼方さんに憧れている部分があるからだ。
「はい、ずるいです」
何も知らない他人からすれば陰口に聞こえるかもしれないな、なんて考えると少しおかしい。
「おっ、笑った」
物珍しそうに千加さんが反応する。
彼方さんもそうだったけれど、笑っただけで驚かれるなんて、彼女たちにとって普段の僕はよほど無愛想に映っているのだろう。
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