第33話
佐紀が返ってから少しして、僕もそのまま家に帰った。
靴の数を見たところ、既に叔父も叔母も帰っているようだった。けれど、全身が土で汚れている今の姿を見られるわけにはいかない。玄関に靴を脱ぎ捨て、逃げるように風呂場へ向かった。
服を脱ぐ動作でさえ、体のどこかが痛む。鏡を見ると、まだ鼻血の跡がうっすらと残っていた。鼻の骨でも折れてるんじゃないかと思っていたが、外から分かるような異変はなさそうだった。体って案外丈夫なもんだな、と決して喜ばしくない気づきを得る。
「帰ってたんだね、おかえり」
なんとか上着を脱ぎ、洗面所でこびりついた土の汚れだけでも手洗いしようとしていたところで、風呂場の扉の向こうから叔母がそう話しかけてきた。正直、こんなふうに彼女から話しかけてくるのは珍しいことだった。
「うん、ついさっき」
僕は彼女とどんな声で話していたのか、頭の片隅で思い出しながら口を動かす。
「ご飯できてるよ、お風呂上がったら食べる?」
「うん」
叔母の声にもどこか力が入っているようだった。
「……あの、ありがとう」
らしくないな、と自分で思う。でもなんとなく、自分らしさだとか、そういうものが根こそぎどうでもよくなった。
「遥くんは、最近少し元気だね。……勝手に何って感じだろうけど、なんか私まで嬉しくなってる」
僕は静かに驚いていた。彼女が僕のことをそんなに見ていたということを、初めて知った。
上手くは言えないけれど、とにかく不思議な感覚だった。
夕飯を食べて自室に戻った、そのすぐ後のことだった。さっきはまるで役に立たなかった携帯を充電器にさすと、不在着信の通知が来ていることに気づいた。
なんとなく、彼方さんからのものではないような気がした。他にあてがあったわけじゃないけれど。
そして予想通り、かけてきていたのは見覚えのない電話番号だった。ろくに話したこともない担任教師の顔が頭に浮かぶ。生徒の連絡先は共有されているし、一番可能性があるのはそこだろう。
どうしようか一瞬迷ったが、ここで先延ばしにする意味がないことは確かだった。
疲労で今にも落ちそうな瞼を擦り、僕は折り返しの電話をかけた。二回目の呼出音が鳴り終わる前に電話が繋がった電子音がする。
「はい」
ここでまず僕は戸惑う。女性の声だ。うちのクラスの担任は及川という名前の男性教師だった。どうやら僕の予想は外れていたらしい。
自分からかけておいて言葉に詰まるわけにはいかない。聞こえないよう軽く咳払いをしてから、ひとまず返答をした。
「未鳴です。こちらの番号から不在着信があったので折り返しました。もし間違え電話だとしたらすみません」
「ああ、遥くんか」
電話先の女性は妙に納得した様子だった。
「千加です。ほら、彼方の友達の」
意外な正体に小さく声が漏れた。電話越しだと分かりづらかったが、確かに、あのとき聞いた声に似ている。
それにしても、なんで千加さんが僕の連絡先を?
「いきなりごめんね。どうしても君に言わなきゃいけないことがあってさ。今日、彼方に番号聞いたの」
情報源はそこしかないとは思っていたが、なんだか違和感があった。別に彼方さんが僕と連絡を取っていない間、誰と何をしていようが口を出す権利はないのだけれど、でも当の本人に確認もしないまま連絡先を教えるなんてこと、少なくとも僕の知っている彼方さんならしないだろう。
「それって、彼方さんのことですか?」
「うん、まあそれ以外ないもんね」
「……彼方さんは、僕ともう会うつもりがないとか、ですか」
言いながら自分に呆れる。口に出すのも嫌なのに、なんでこんな考えしか浮かんでこないのだろう。
電話の向こうから、軽くため息が聞こえた。あのさあ、と前置きがあって、千加さんが言う。
「私、二人の関係性がどのくらいのものなのかとか、正直分かってないし、どっちかって言うと二人が一緒にいることに対して消極的なんだけどさ。でも、遥くんから見た彼方って、そういうこと言うタイプなの?」
千加さんの問いを、僕はすぐに否定できなかった。
もちろん、彼方さんのことは信じたい。けれど、僕の中に澱のように溜まっている灰色の何かが、死にたいほどの絶望を隠してしまえる彼方さんのあの笑顔が、それをさせてくれなかった。
歪んでいるのは僕も彼方さんも同じで、同じだからこそ、心の底から信じるということに対する重みと、その恐ろしさがよく分かる。だからまだ僕は、本当の彼方さんを知らないんだと思う。知ることに、怯えている。
「まあいいや。それより、住所教えてよ。明日のお昼に迎えに行くから」
住所? 迎えに行く? 突然のことが多すぎて処理が追いつかない。僕はこの電話の向こうにいる人と、一度しか会ったことがないのだ。
「え?」
「彼方に会いたくない?」
ずるい、と思った。
多分この人は、僕の反応を分かった上で訊いている。
「……会いたい、です」
じゃあとりあえずまた明日の朝連絡するよ、とだけ言い残した千加さんは、嘘みたいにあっさりと電話を切った。
ダメだ。これ以上考えると脳がおかしくなる。そう判断した僕は、一応携帯のアラームだけはセットして、ベッドに体を投げた。
さっきまで鉛のように重たかった瞼には、既に痛みすら覚えるほどの疲労感があった。それなのに、すぐに意識が消えてくれない。枕を顔の上半分に乗せて、上からそれを腕で押さえつける。
今日は彼方さんの夢を見たくない、そう思った。
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