第32話
「目、覚めた?」
聞き馴染みのある声だ。瞼が腫れ上がっているのか、とても目を開けられない。なんとかこじ開けた隙間から、僕は声の主を視認する。
「大丈夫、もうあの人いないから」
そう言いながらこちらを覗き込む佐紀の表情は、いつにも増して陰りを帯びていた。
「……なんでここにいるの」
喋る度にうっすらと血の味がする。絞り出した声も掠れていて、ろくにかたちにならない。
「一時間くらい前かな、あの人から連絡あって。『疫病神は俺がなんとかする』みたいな、意味分かんないメッセージ」
「ははっ」
そこまでくるともう、怒りを通り越して気持ちよく笑える。
「じゃあ目的は達成だ」
「いや、私は遥くんを見つけたから、未達成だね」
「もうとっくにボロボロにされた後だよ」
「ボロボロだろうと新品だろうと、遥くんは遥くんだよ」
当事者である僕を差し置いて、あまりにも傲慢な主張だ。
よく見ると、彼女の肩は僅かながら上下していて、上がった息を整えているようだった。ここに辿り着くまでそれなりの距離を探し回ったのだろう。もっとも、今の僕に彼女の疲労を気遣う余裕は残っていないのだけれど。
「なんで分かんないかな。何されたって許す気なんかないのに」
心の底から不思議そうな口ぶりで佐紀は言った。
「分かるなんて思ってないくせに」
口をあまり開かないようにしながら、できるだけ嫌味ったらしく言ってやった。けれど、別に彼女の林への対応を咎めるつもりはない。僕が佐紀なら同じことをやっていただろうから。
僕の真意も分かっているらしい佐紀は、少し口元を緩ませた。
「そうだよ。私の気持ちなんか一生分かんなくていいし、分かんないことに一生苦しめばいいの」
「もしかしたら苦しむ才能もないかもね」
「遥くんの方がよっぽど意地悪だ」
佐紀はわざとらしく感心するように言って、倒れている僕の隣に座った。既にずいぶんと太陽は沈んでいて、周囲の景色は一面が薄い灰色に染まっていた。
僕は空を、佐紀はどこか遠くを見ながら、少しの沈黙が流れた。
「連絡、無視してごめん」
「いいよ」
「……佐紀に、言わなきゃいけないことがある」
「うん、だろうね」
血と唾の混ざったものを飲み込んで、僕は続きの言葉を口にする。
「今、好きな人がいるんだ。だから、佐紀の気持ちには応えられない」
軋む体を起こして、佐紀の方を見る。彼女もまた、僕を見つめていた。彼女の目は、薄暗闇の中でも視認できるほど潤んでいた。
反射的に謝りそうになる口を、僕は右手で塞いだ。重苦しい液体が体の中を巡っているようで、心臓の部分が気持ち悪い。
「うん」
僕の目から目を逸らさず、佐紀はゆっくりと頷いた。
「大丈夫、ちゃんと聞こえたよ」
正しい選択なんてない。
僕が仮に彼女と同じ境遇で、同じように知らない誰かの、呪いにも近しい力で救われていたら、同じようにその人間のことを神格視してしまっていたかもしれない。当の本人が望んでいたかどうかはさておいて、それは確かに運命による結びつきなのだから。
彼女の神様になるという選択肢も、可能性としては存在していた。でもそれは、少なくとも今の僕には拾うことのできない可能性だ。
僕はまだ、自分の声すらろくに聞こえていない。自分が本当はどんなふうに生きたいのか、何をずっと言えずにいるのか、そういうことを、考えなくてはいけないような気がしていた。
もう、頭の中の声から逃げない。諦めることが美徳だとか、そんな考えを捨てて生きてみたかった。
だから、これが今思いつく中で、自分のことを一番嫌いにならなくてすむ選択だった。
お互い何も言わないまま、数分ほど経っただろうか。
視界の端で、佐紀が立ち上がるのが分かった。
「帰るね。遥くんも気をつけて。……じゃあ、」
僕の返事も待たず、彼女は走っていった。華奢なつくりの背中が、あっという間に小さくなっていく。
振り絞るような彼女の「またね」が、鼓膜にいつまでも響いていた。
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