第31話
痛みで呼吸が上手くできなかった。これから僕はどうなる? 答えが決まっていることを考える。
分かっている。これ以上のことになって考える余裕がなくなる前、つまり今のうちに早く通報するべきだ。しかし、手が動かない。動かそうとしても、どの神経に命令を与えたらいいのか分からない。自分の体が糸の切れた傀儡のようで、でも痛みだけは感じていた。
「おい、起きろよ」
無理やり腕を引っ張られ、座り込むような体勢にさせられる。頭を強く打ったのか、焦点は一つの場所に定まらずに上下左右へと揺れていた。そんなグラついた世界の中心に、林の困り顔が映る。なんで彼がそんな顔をつくれるのか、僕には一生理解できないのだろうと思う。
「俺さ、謝ったんだよ。引っ越す前、相沢に。よく考えたら、俺が相沢にしてたことって本当に最低なことだったし、俺がいなくなる前に、そういう嫌な思い出は忘れてほしかったから」
言いながら、彼は僕と視点を合わせるためにしゃがみ込んだ。話をする、というより、僕に何かを言い聞かせたいようだった。違うな。僕に言うことで、それが正しいことだったと自分に納得させているんだ。
こいつはずっとこうやって生きてきて、これからも生きていくのだろう。そう思うと、なんだか悲しくなってきた。
「相沢、俺のこと許してくれてさ。それもめちゃくちゃあっさり」
それは許したわけでもなんでもない。許す気がないから、不毛なやり取りを終わらせただけだ。
だんだんと視界の揺れが治まってきた。眉を歪めた林の顔がはっきりと視認できる。僕と彼の力の差は歴然としているのだけれど、不思議と恐怖はなかった。そんな感情をこの男に払うことに意味を見い出せなかった。
「……分かるよな。なんか違うんだよ」
違う? そもそも許されようというのが見当違いだということならその通りだ。
「俺は罪滅ぼしをしなきゃいけない。謝るだけじゃダメなんだよ。……俺はもう、相沢を不幸にしちゃいけない。だからさ、お前みたいな疫病神が相沢に近づくなんて、許せないんだよ」
林があまりにも真剣にそんなことを言うものだから、思わず吹き出してしまいそうになった。
「なあ、どうすればお前は、もう相沢に会えないようになるんだ?」
再度、彼の腕によって胸ぐらを掴まれ、そのまま腕力で立たされる。林の顔は、彼なりの正義感とやらで満ち満ちていた。心底おかしくなってくる。
「普通ここで笑うか? お前やっぱり頭おかしいの?」
自覚はないけれど、にやけ顔にでもなっているのだろうか。異物を見るような目で林は僕を見つめていた。
もう限界だ。僕はろくに呼吸もできない状態でひたすら笑った。二・三発と腹部を殴打されたが、酸素が欠乏した脳には痛覚も十全には行き渡らないらしく、なんだかそれすらも面白くてたまらなかった。
「……気持ち悪い」
呆れた様子で林は胸ぐらを握っていた拳を解き、僕の体はその場に崩れ落ちた。体中が痛かったけれど、意識ははっきりとしていた。
また無理やり持ち上げられる前に、自分の力で立ってみようと思った。震える脚を拳で叩き、芯の抜かれたような背筋を意地だけでまっすぐに保った。
地面を転がったときに切った唇の端が鋭く痛むが、構うことなく口を開く。
「気持ち悪いのは、お前だよ」
最後まで言い終わったかどうか、自分でも定かじゃなかった。前方から飛んできた拳と僕の顔の骨がぶつかる音が、体の外と中の両方で響いた。鼻血らしきものが細いアーチを描いていくのを、どこか他人事みたいに眺めていた。
倒れながら目を瞑ると、彼方さんの姿があった。相変わらずワンピース姿の彼女は、
「遥、そんなキャラだったっけ?」
と心配しているような褒めているような口調で僕に訊ねていた。
「変わっちゃったんですよ」
と僕は答える。
「……あなたのせいで」
「あ? 何ブツブツ言ってんだよ、バケモン」
とどめの追撃を顔面に受け、僕の意識は綺麗に途絶えた。
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