第30話
なんで。
脳が痛いくらいに警鐘を鳴らしていた。
僕と林孝司の接点は、あの小学三年生の半年にも満たない日々を同級生として過ごしただけ。本来であれば、二度と会うはずのない人間のはずだ。
ただ、僕には心当たりがある。彼に何をされたとしても不当とは言えないほどの、確かな罪がある。
出処の分からない恐怖に奥歯が鳴る。なんで今になって会いに来た? そもそも、彼がまだこの辺りに住んでいたなんて、微塵も思っていなかった。
あの日、僕の振らせた雨によって選手としての未来を奪われた林孝司は、それから人が変わったかのように大人しくなり、そして間もなく転校した。噂によると転校したのは、それまで彼が虐げてきたクラスメイトからの報復から逃げるため、という理由もあったらしい。けれどそれだって、僕が雨を降らせなければ起こらなかった事象だろう。
「相沢のことで話がある」
僕が混乱の渦に溺れている中、そんな付け加えが聞こえてきた。
思いもよらない名前が飛び出たことによって、かえって僕は冷静さを少し取り戻した。佐紀の名前がなんで出てくるんだ。それも、そんな平気な顔をして。
再び目を向けた彼の顔からは、そこに含まれている感情の色が読み取れなかった。そもそも、目の前の林孝司は僕が知っている彼よりもずっと落ち着いていて、とても冗談を言うような雰囲気はなかった。
佐紀の名前が出た途端、僕の中には先程までとは別種の焦燥感が湧いていた。なんで林孝司が今になって、顔も見たくないであろう僕に会いに来たのか。その答えが佐紀にあるとするならば、僕はきっと彼の話を聞かなければならない。
「今から降りるよ」
窓を開け、その隙間から返答をした。林は何も言わなかったが、どうやら聞こえたらしく、玄関の方へ戻った。
万が一のことを考えて、ベッド下に滑らせていた携帯を取り出してズボンの尻ポケットに入れた。
仮に彼の目的が単純に僕への報復だったとして、なんとか殺される前には通報できるようにしておこう。これは過剰な防衛でもなんでもない。僕にはそうされるだけの理由が確かにあるのだから。
ドアノブを握り、深く呼吸をして心拍を落ち着ける。鍵を開けた気配を察したのか、ドアは外から開かれた。
「よお、久々」
林も、どう話しかけたらいいのか探っているように感じた。僕は軽く会釈し、外へと出てドアの鍵を閉める。
「ちょっと歩こうぜ」
言うと彼はすたすたと歩き出した。あえてこちらを振り向かないのは、ついて来い、という意思表示だろう。二・三歩分距離をあけて、僕は彼の背中を追った。
住宅街を抜けた河川敷で林は足を止め、「ここでいいや」と言った。彼はその場に座り込むと、隣に座るよう僕に促す。警戒を忘れないように注意しつつ、僕はそれに従った。右手はいつでも携帯に触れられるようにしていた。
林は大袈裟なくらいに溜息をつき、それから横目で僕を捉えた。
「未鳴って、相沢と仲いいの?」
やはり林の用件とはあくまで佐紀のことらしい。それがそもそも疑問ではあるのだけれど、僕は素直に答える。
「別にかな。同じクラスってだけで話したことなかったし、学校外だと二回会って話しただけだよ」
「二回?」
「プリントを届けてもらったのと、小説を貸しただけ。もう絶版になってて読めないって言ってたから」
「へえ」
林は足元にあった小さな石を右手で弄びながら、捨てるような相槌をうった。
やけに突っかかるような彼の口調から、美術館の件は言わない方がいいだろうと判断した。彼はどうやら僕と佐紀に関わりがあること自体が気に食わないらしい。
「……いや、まどろっこしいな」
右手で頭を掻いた林は、核心に迫るような声で続ける。
「相沢から、俺のこと聞いた?」
彼の言う『俺のこと』とは、つまり彼が小学生時代に佐紀へのいじめに加担していた過去についてだろうか。それに対する正直な答えは是、なのだけれど、どうもいい予感はしない。
「聞いたんだな」
僕の沈黙の意味を察した林は、無機質な声でそう言った。早く誤解だと撤回するべきか。悩んでいるうちに、僕の服の襟元を林の手が掴み、そのまま吊り上げる。
「相沢がただの知り合いくらいの人間にそんなこと話すわけない」
気管が圧迫されて喋れない。
「お前、相沢の何?」
「……なんでも、ない」
舌打ちをした林は、そのまま僕を河川敷の斜面に投げ捨てた。地面にぶつかる衝撃で短い呻き声が漏れる。雑草の上を十回転ほどしてから、やっと僕の体は止まった。
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