第8話

 家に着いたときにはもう午後二時になっていた。持たせてもらっている合鍵で中に入り、リビングに用意されていた昼食を食べた。

 叔父はほとんど毎日夜遅くまで仕事に行っているし、叔母は最近近くのスーパーでパートを始めたらしく、昼前には家を空ける。多分、僕に気を遣ってくれているのだろう。

 事実、僕は静かな家が好きだった。誰も僕を見ていない空間が必要だった。

 他人の視線が怖い。ここでの他人とは、自分以外の全てだ。知らないうちに他人を不快にさせてないか、知らないうちに他人から馬鹿にされてないか、気づけば、ずっとそんなことばかり考えて生きている。

 生きづらさは、季節が重なるごとに重みを増していた。


 普通にすればいい。ときどき学校に行けなくなる僕に担任教師は言った。まるで僕の魂にまで寄り添っているような、勘違いに塗れた口調だった。うるさい。僕にとってはこれが普通だよ。そもそも、普通ってなんだ。自分の正しさの証明のために価値観を押しつけることが普通なら、そんなものに興味はない。

 全部頭で叫ぶだけ。言ったところでなんの意味もないから。いや違う、僕が弱いからだ。弱いから、何もできない。言い返したい言葉も全部、ただ自分を正当化するために練り上げているだけだ。

 さっきまで彼方さんと交わした会話のことだけ考えていたから、脳がバランスを取ろうとしているのだろうか。嫌なことばかり思い出す。こんなところで平常を保たなくてもいいだろうに。

 余計な思考を洗い流すように顔を洗って、砂と雨で汚れた服を着替えた。けれど、ざわつきは止まらない。

 さっき時計を見たとき、一瞬だけ焦燥感が湧いた。きっと学校では五限の授業を受けている時間帯だ。


 僕の夏休みは、世の中よりも一週間早く始まっている。勝手に、自分でそう決めた。しょうがない。今朝はどうしたって学校に行けなかった。

 夏休み前の、抑えきれない高揚感が充満した教室にいると、半日も経たないうちに吐き気に襲われる。どのみち帰るなら、初めからいないほうがいい。まだ一学期だし、出席日数は足りるだろう。それに、今の僕に先のことを考えられるような余裕はない。先があるのかどうかも分からないが。

 他人の楽しそうな声が苦手だ。聞こえてくる会話の内容が明るければ明るいだけ、そこに添えられる笑い声が大きければ大きいだけ、その『喜ばしい出来事』の中にいない自分が惨めに思えるから。

 そういう、毎日に付随する重たさを、最近は隠せなくなってきていた。前までやり過ごせていたことが、耐えられない。何もしていなくても悲しさがぽつぽつと湧いてきて、胸がどこまでも苦しくなる。変に汗をかくようになって、よく自分が死ぬところを想像するようになった。

 多分、僕に彼方さんを止める資格なんてなかった。


 それでも、僕は確かに、また彼女に会いたいと思っていた。

 久しぶりに他人と会話をしたような気がする。震えてない自分の声を聞いたのはいつぶりだろう。

 嬉しかった。彼方さんと過ごした、たった数時間だけ、自分がまともな人間になれたような気がした。もっと言えば、自分よりどうしようもない重たさを抱えている彼女を知って、安堵した。下には下がいるんだ、という淀んだ安心感は、錆びた僕の視界の中であまりにも優しく映った。

 そして、そんな絶望の底にいてなお、彼方さんは笑っていた。もしかすると、彼女はそうすることしか生き方を知らないのかもしれない。それでも、僕はあの快活さに、勝手に救われていた。


 ベッドにうつ伏せになり、夢想する。このまま彼女と会う生活を続ければ、少なくとも自分の憂鬱からは解放されるかもしれない。そんな浅はかな可能性を。

 彼女に生きる希望なんて与えられないし、与えるつもりもない。その上で、僕は彼方さんを利用しようとしている。許されないことだろうが、別に構わない。他人に失望されることは慣れていた。

 正当化するための文章を、自分に言い聞かせる。他人を利用する、なんてことすら、言い訳を用意しないと実行に移せない自分が嫌になる。けれど、決意は固かった。

 自分の都合のいいように他人を使って生き延びる。こんなの、みんなやってることだ。

 それに、と枕の端を握りしめながら、僕は最後に思う。

 彼女はどうせ、そのうち死んでしまうかもしれないのだから。

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