第9話

 慣れない時間に起きたせいか、知らないうちに数時間ほど眠っていたらしい。頭のすぐ側に連続再生されたままの携帯が転がっている。すぐにそれを停止し、充電器をさした。と同時に、着信音が鳴り始める。

 僕の携帯が鳴るなんてイベントはあまりに珍しいことで、数秒、その意味を考えてしまった。ああそうか、携帯って鳴るんだっけ。

 六回目の呼び出しの電子音の途中で、ようやく僕は応答ボタンを押した。


「もしもし」

「遥くん? あの、相沢です。相沢佐紀」


 脳内検索の末、僕は電話の相手が同級生の女子であることを思い出した。

 相沢佐紀、話した覚えもほとんどない、いつも一人でいる、はっきり言って暗い雰囲気の女の子。四ヶ月間同じクラスでありながら、僕が彼女に抱いている印象はそれくらいしかない。そもそも僕が他人について無頓着というのもあるが、彼女の場合はどこか違った。

 端的に言えば、彼女の纏っている空気は僕と少しだけ似ていたのだ。

 他人と自分の間に明確なラインというものを引いていて、一定以上のコミュニケーションがそもそも発生しないように努めている。『空気でいることを心がけている』みたいな精神性が見て取れた。だから僕も、彼女について深く知ろうとはしなかった。

 そんな彼女からの突然の電話、理由なんて想像もつかなかった。少し不気味さを覚えながらも、僕は訊ねる。


「……えっと、どうしたの? というか、僕の電話番号なんてどこで知ったの?」

「今日、どうしても渡さなきゃいけないプリントがあって、先生が生徒の誰かに頼むって。それで、他に誰も手を挙げなかったので。電話番号は、あの、なんだっけ……クラス委員長にもらいました」


 この子はクラスメイトの名前も覚えてないのか。彼女の名前を聞いてもすぐに顔と合致しなかった僕が言えたことではないが、さすがに少しばかり、彼女の学校生活の希薄さを案じた。


「ああ、そういうことね。じゃあこれは家にいるのかって確認の電話?」

「うん。でももう大丈夫かもしれません。多分、着いちゃいました」


 電話口の彼女が突飛なことを言うので、僕は慌てて部屋の窓から外の様子を確認した。

 確かに、記憶の中の相沢佐紀が、携帯を耳に当てながら僕の家のすぐ前にいた。僕の動きに気づいたのか、彼女はこちらを見上げている。まるで殺人映画のワンシーンだ、なんて失礼なことを連想してしまった。


「……僕が家にいてよかったね」


 急いで電話を切り、階段を降りて玄関の扉を開けた。すると、彼女はなんだか意外そうな顔をして立っていた。目元まで伸びた前髪の隙間から、今まで直視したことのない大きく丸い瞳が覗いている。


「……開けてくれるんですね」


 色素の薄い唇を僅かに開いて、相沢は言った。


「え?」

「私なら開けない」

「えっと……とりあえず、そのプリント、もらえる? あ、わざわざ持ってきてくれてありがとう」


 得体が知れない。そんな警告に似たメッセージが浮かぶ。あまり関わらないようにすべきだと、本能が告げていた。


「あの、その」


 早く切り上げようとしている僕の言葉には触れず、相沢はその切れ味の鋭そうな目だけは僕に向けたまま、突っかかりがちにいう。


「私と、少しだけでいいから、会話をしてくれませんか」

「はい?」

「だから、会話です。本当に少しでいいから」

「会話って、これもそうじゃないの?」

「違います。これはただ言葉を並べ合ってるだけ、会話じゃない、です」


 この子は、何かズレている。普通、じゃない。それだけは明白だった。

 けれど、冗談を言っているようには聞こえなかった。いや、むしろその方が危ないのかもしれないけれど。

 よく見ると、彼女の足は震えていた。長袖の白シャツで半分隠れている両手も、色が変わるほど硬く握られていて、彼女がこんなつかみどころのない提案をするために振り絞った気力の甚大さを物語っていた。

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