第7話

 また、彼方さんは少し驚いた顔をした。

 十五年間生きている人間の中では、僕は間違いなくかなりの涙を流している方だろう。

 もしかすると、僕はもう普通の人間が流す涙の分を出し切ってしまったのかもしれない。いつしか、クラスメイトに化け物扱いされようとも、母の墓前で手を合わせようとも、僕の瞳から涙が流れることはなくなっていた。

 僕は、自分の感情で涙を流せなくなっていた。


「……それは、難しいな。私、あんまり泣くの好きじゃないから」


 困ったみたいに笑う彼方さんの表情は、やはり僕が知らない意味が込められている気がしてならなかった。心を病んでいる彼女だ。僕とは事情が違うにしても、涙を流した経験も数え切れないほどあるのだろう。けれどそれは、軽々しく他人に話せるようなことじゃない。

 ふと、外からの光を遮っている水色のカーテンが目に入る。きっとあれは海なんだろうな。自分から質問をしておいて、頭のどこかではそんなことを考えていた。


「ねえ、また明日も君は海に行くの?」


 視界の端で膝を抱えていた彼方さんが僕に訊く。ちょうど思考していたことと混ざって、一瞬、彼女の背景が海に見えた。

 いやに喉が渇いていたので、彼方さんが用意してくれた麦茶を一気に飲んだ。色の通りといった風味の濃さで、これなら出がらしのコーヒーといわれて出されても分からないかもしれないと思った。


「彼方さんはどうなんですか」


 僕は空になったコップをテーブルに置いてから、なんとなく答えが分かっていることを訊き返した。きっと彼方さんは、明日も海に行くのだ。そして、未遂に終わってしまった入水自殺を完遂させる。それ以外の答えを期待するなんて、まだ彼女のことを何も知らない僕の傲慢でしかない。

 けれど彼方さんの返答は、僕の想定とは絶妙にズレていた。


「君が来てくれると、嬉しいよ」



 それから一時間くらいして雨がやんだころ、僕は彼方さんにバスの停留所まで送ってもらった。

 彼女は駅まで送っていくよと言ってくれたが、せっかく乾きかけたワンピースがまた濡れるのが申し訳ないと言って断った。心底残念そうな顔をされたので、少し困った。

 帰りに乗ったバスは、彼方さんの家に来る前に乗ったのと同じ黄緑色をしていた。運転手は、あの伊藤さんとは違う人だった。

 僕はバスの窓辺に寄りかかって、彼方さんと直前まで話していた内容を頭の中で反芻していた。といっても僕たちが話していたのは、好きな音楽だとか映画だとか、本当になんでもないような話だったけれど。

 彼方さんの口から聞く曲名や映画のタイトルは、それだけで一つの詩みたいに僕の心に落ちていった。

 僕のイヤホンからは、全然知らない邦楽バンドの歌声が流れている。聞いている音楽が変わるだけで、もう知っている道が変色しているみたいに感じる。車窓から覗く水たまりだらけの今の景色は、ところどころに白が混じった薄いブルーだった。

 あまり整備されていないらしいアスファルトの僅かな窪みで、バスは不規則に揺れている。自分でも単純だと気恥ずかしくなるくらい、その揺れは僕の心の動きに同調しているように思えた。


「僕も、また彼方さんに会いたいです」


 思い出すだけで顔の辺りに熱が集まっていくのがわかる。彼女の言葉がきっかけとはいえ、まさか僕の方から会う約束を取り付けてしまうとは思ってもみなかった。

 趣味の話やあれこれも、僕は恥ずかしさを誤魔化すためにしていたような気がする。そういう浅ましさが、また羞恥心を高めていく。

 人の言葉を疑いなく信じてみたいと感じたのは初めてだった。

 それは、彼女が今にも消えてしまいそうなほど幽かな存在だからなのか、僕の正体をいとも簡単に見抜いた彼女への畏怖の念からなのか、もしくは両方か、そのどちらでもないのか。

 僕は早くも、答えを出すのを諦めていた。


 バスに乗り込む前、彼女に名前を訊かれた。


「あっ、待って。そういえば私だけ名前訊いてないよね?」

「遥、です」


 僕はなぜか、下の名前しか名乗らなかった。たとえ名前であっても、彼女に全てを教えてしまうのが怖かった。まだお互いをよく知らないからこそ、僕は彼女に興味を持たれているのだと思っていたからだ。


「それじゃあね、遥」


 なんでそんなに優しく人の名前を呼べるのだろう。不思議だったけど、やはり僕は知らないでおきたかった。何も知らないうちは、誰も傷つかなくて済むから。

 僕は目を閉じる。結露した窓はひんやりとして気持ちがよかった。

 彼方さんと次に待ち合わせたのは明日の朝九時、場所はあの海辺だった。少し早めに行こうと決めていた。

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