第6話
初めて雨を降らせたのは、小学三年生のときだった。
その日は遠足で、ちょうど昼休憩だった。当時入院していた母が死んだという知らせが、担任教師の倉本の携帯に届いた。
倉本は僕一人を木の陰に呼び出して、すごく遠回りに、その事実を伝えた。確かあれは杉の木だった。言い終えた後、僕よりも先に彼女の方が泣いていた。いい人だな、と僕はどこか他人事みたいに思っていた。
実感が湧かなかった。いつか湧く気もしなかった。
母はもう半年以上入院していた。そもそも、僕が物心ついたときから病気がちで、家にいないのが半分当たり前だった。だから母の死は、寂しいといえば寂しいのだけれど、瞬間的な悲しみの大きさなら、ずっと側にいた親を突然事故で失う方が悲しいのだろうと、涙を袖で拭く倉本を前に、そんなことをぼんやり考えていた。
けれど倉本と一緒に山を下っている中で、胸のどこかに水滴が溜まっていくような感覚がした。これがどういう感情なのか全く分からなくて、何度も僕は「お腹が気持ち悪い」と訴えた。
倉本の対応は優しく、彼女は歩けなくなった僕を背負って残りの山を下ってくれた。
彼女の背中の体温が、ゆっくりと僕を慰めてくれているような気がして、それを自覚した途端、一滴の涙が頬をなぞっていくのを感じた。
そしてその日、僕は大雨を降らした。
死者が出なかったのは奇跡らしい。そんなことを副担任の林原は言っていた。
山への遠足ということもあって、教師陣も入念に天気予報や毎年の傾向を参考にしながら、決行の日付を決めていた。けれど、あの日僕が早退したすぐ後のこと、記録的な大雨がクラスメイトのいた山を襲った。
豪雨で緩くなった地面のせいで足を滑らせ、骨を折った生徒が二人出たらしい。それ以外にも、ほとんど全員が風邪を引いて高熱にうなされた話や、山崩れが起きて無人の民家が一つ潰れた、なんて話も聞いた。
それが自分のしたことだと、僕はすぐに理解した。というより、実感があったのだ。
母の遺体が出棺された日から、一週間連続で雨が降った。少しずつ弱まっていった雨は、僕が母の死を事実として受け入れられるようになったころにぱたりとやんだ。つまり、僕が泣かなくなったころ。
初めはただの偶然だと思っていた。けれど、それからも僕が母のことを思い出した日は必ず雨が降った。
僕はあまりにも幼かった。思考が拙かったと言ってもいい。今思えば呆れるしかないのだが、僕は当時何をするにもずっと一緒にいた、いわゆる親友にだけ、自分の身に起きている超常現象のことを相談した。
あとは、当然の流れだ。
親友に相談を持ちかけた翌週の教室は、それまでとは全く違う空気で満ちていた。誰もが僕に奇異な視線を向け、ひそひそとこちらには聞こえない声で話し込んでいた。親友が決まりの悪そうな顔で何か言っていた。けれど、それも僕には聞こえなかった。
噂というものは、それが現実から乖離しているほど盛り上がる。そして仮にそれを目にしたことがなかったとしても、『そういう噂の中心にいる人間』として、僕は彼らとははっきりと違う人種になってしまうのだ。
それから、不幸に拍車をかけるように僕の体質は悪化した。ときどき、なんの前触れもなく涙が出るようになったのだ。そしてその後には、決まって大雨が降った。
もちろん、これは僕の涙が呼んだ雨ではない。大雨の予兆を受け取っただけにすぎないのだ。でもそんなこと、周りの人間からすればどうでもいいことだ。『僕が泣いて、雨が降った』という事実は、確かにそこにあるのだから。
僕が雨を降らす度、涙を流す度に、周囲の人間の態度は嫌悪から無関心に変わっていった。そのとき読んでいた本の中に書いてあった、好意の反対は無関心であるという文面を見て、心底胸落ちしたのを覚えている。
彼らの対応を受け、当たり前の感性が育つと同時に、僕はゆっくりと理解した。自分は人間ではない。世界に迷惑しかかけない化け物なのだと。
毒を水でひどく薄めたような迫害は、中学を卒業するまで続いた。
転校の選択肢はなかった。母が入院していたときから僕は母方の親戚の家に預けられている身だった。叔父も叔母も優しい人だった。だから、僕みたいな化け物が彼らを困らせてはいけないと思った。
それに、全ては仕方がないことだから。
何の脈略もなく突然涙を流し、そしてそいつが泣いた後には必ず雨が降る。そんなクラスメイトが教室にいたら、不気味と思わない方が不自然だろう。
だから、僕は彼らを憎いと思ったことはない。僕が憎いと思うのは、欠陥品として僕を作ったこの世界だけだ。
神様がもしいるのなら、心の底から殺してやりたい。それだけだ。
こんな体質の自分が迫害されることを妥協し、許容しているからこそ、彼方さんの表情が少しも曇らないことに、不審感を抱かざるを得なかった。
バスでのやり取りを思い出す。彼女は、嘘をつくことに躊躇いがない人間だ。この寛容な態度だって、表面的なものに違いない。そっちの方が、自然だ。
「もし、僕の涙が本当に雨を降らせてたら。そんなの、怖くないんですか? 不気味で、気持ち悪くないんですか?」
僕の問いに、彼方さんは少しの間何も言わなかった。ただ目を丸くして、驚いたような顔をしていた。
彼女の意外な表情に、問いかけた僕の方が息苦しくなる。別にそんな変なことを言ったつもりはなかった。
張り詰めた空気にいたたまれなくなり、僕はつい言葉を重ねた。
「いいんですよ。気持ち悪いと思われてもしょうがないんです。当たり前ですよ。こんなの、ほら、病気みたいなものですから」
僕の呟きに、彼方さんは間髪入れずに返す。
「別になんとも思わないよ。私だって、病気だし」
彼女は言いながら、自分の胸に手をあててみせた。瞬間、再度脳裏によぎるのは、海に沈む彼女の背中だった。まだ、まるで目の前で起きている出来事と大差ないほど鮮明に思い出せる。
僕は知っていた。彼女が病んでいる心という器官が、そんなところにはないということを。
そして僕のそれも、他人と比べて明らかに不完全であるということを。
彼女のひたすらに刺すような視線の中に、勝手な仲間意識みたいなものを持ってしまう。
「みんなどこか病気してるもんだよ。君のが特別分かりやすいだけでさ」
彼方さんが窓の外を眺めながら零したのは、慰めのような、同調のような、でもどれでもないような言葉だった。それが本質的になんであれ、僕にとっては新鮮なものだった。
そして気づけば僕は、自分の人生における命題を、会ったばかりの女性に投げかけていた。
「あの……人って、どんなときに泣くんでしょうか」
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