第19話【閑話】ハンス、もう一つの顔

 《若執事ハンス視点》



 私の名はハンス。


 バルマン侯爵家に仕える執事である。

 亡き奥方様の遺言に従い、学園に通うマリアンヌ様に、今はお仕えしている。


 そんな私には、もう一つの顔(かお)がある。


 バルマン家が誇る秘密諜報部隊暗部(あんぶ)の工作員。


 ――――それがお嬢さまにも知られていない、私の裏の顔であった。


 ◇


 マリアンヌ様が事件に巻き込まれていから、数日が経つ。


 ある日の夜。

 今はファルマの街を、漆黒の闇が包む真夜中だ。


(ここか……)


 そんな中、私は安宿の一室に、忍び込んでいた。

 この数日で、この部屋の調査と段取りは、内密に済ませていた。


 音も気配もなく、完璧に室内への侵入に成功する。 

 他国の王城に忍び込むことに比べたら、この程度の雑な部屋に忍び込むことなど造作もない。


 バルマン家の若執事として、私は幼い時から厳しく育てられてきた。

 同時に裏では“暗部(あんぶ)”の一員として、旦那様に鍛えられた。


 今使っているのは暗部としての技術だ。


(こいつがベルガか……)


 安宿の薄汚れたベッドに、大きなイビキをかく男がいた。

 調査によると、この者が大剣使いベルガ。


(噂ほどでなかったな。他愛もない……)


 お嬢様には内緒で調査を行い、この男の住処を発見した。

 目立つ男なので、この宿はすぐに判明した。


 そして留守を狙い“目的の品”を探し、この部屋にも事前に侵入していた。

 もちろん何の痕跡も残さないように。


 だが“目的の品”は、部屋の中には無かった。

 恐らくはベルガが持ち歩いていたのであろう。


 そして再度潜入の準備を終えて、今宵となったのだ。


 気配を完全に消しながら、部屋の中を物色していく。


(あった……これだ)


 目的の品……ネックレスを発見する。


 これはマリアンヌ様の御母上さまが、彼女に託した形見の品。

 この野蛮な男が奪い去った品だ。


(チェーンは引き千切られているが……修理は可能だな)


 私はヒドリーナ様から密かに、このネックレスの経緯を聞き出していた。


 それによると、このベルガは助けた対価として、強引にネックレスを強奪したという。


 ヒドリーナ様の話によると、マリアンヌお嬢さまは笑って許していたらしい。


 だが私とっては、それは許されざる蛮行だった。

 だからこそ私は決意した。


 お嬢さまに内密に、このネックレスを取り戻すことを。


(ふん。よく寝ていられるものだな。ここで命を取られなかっただけでも、感謝するのだな、蛮人め)


 本当ならこの男の寝首を斬り裂き、この世から滅殺したかった。

 お嬢さまと御母上さまの絆を汚した、天罰を下したい。


 だが、それではこの形見の品が、野蛮な男の血で汚れてしまう。


 だからこの場は、何もせずに立ち去ることにする。


(さて……戻るとするか……)


 貴金属の音を消す特別な布で、ネックレスを包み立ち去る準備をする。

 後は帰還するだけだ。


 ――――だが、その時だった。


「ほほう……見事なもんだな?」


「――――っ⁉」


 驚くべきことが、起きた。


 男が……先ほどまで大きなイビキを、かいていたベルガ。

 今はベッドの上に腰をかけていたのだ。

 口元に野獣のような笑みを、浮かべている。


 なぜイビキが消えるのに、私は気がつかなかったのだ? 


 そして完全に気配を消していたはずの自分に、どうやって気がついたのだ? 


 驚愕の数々に心が乱れそうになる。


 ふう……。

 だが息を整え、スッと冷静さを取り戻す。


「ほほう? しかも、この“死地”でも、肝が据(す)わってやがるな、お前」


 ベルガは鼻を鳴らし、機嫌よさそうに微笑む。

 だが、その右手には、いつの間にか鋭い大剣が握られていた。


 ――――“動けば死ぬ”


 まさに死地。

 死の宣告の恐怖が、自分の心の臓を襲う。


 このベルガという男の武を、私は見誤っていた。


(私は、ここで“死ぬ”か。だが自分とて歴代の“暗部(あんぶ)”の中でも“最高傑作(キラー・マシーン)”と呼ばれた男……)


 やすやすと殺される訳には、いかなかった。

 腰にある短剣に手をやり、いつでも抜けるようにしておく。

 そして小さな猛毒針と煙玉も用意しておく。


「ほほう? こいつは面白ぇえ。卓越した隠密術に、鋼の魂(たましい)に、それに、その暗殺術か? 本当にいいな、お前は」


 私の行動を見透かし、ベルガは子供のような無邪気な笑みを浮かべる。


(くっ……力ではこの剣士には敵わない。だが、この狭い室内での近接戦闘なら、あるいは……)


 ベルガの騎士としての実力は、凄まじい。

 単騎で妖魔(ヨーム)兵の群れを駆逐したことからも、それは推測できる。


 だが対人戦闘と暗殺術ならば、自分にも分(ぶ)があるかもしれない。


(私は必ず生き残る。マリアンヌお嬢さまの元へ帰還するために!)


 私は覚悟を決める。

 必ず生き残ると。


 御母上さまの遺言を守るために、私はマリアンヌ様を助けていく責務があるのだ。


「ほう……そんな“戦士の目”もできるのか? ますますイイな……」


 自分は顔を含む全身を、黒装束で隠している。

 だが不覚にも目線を、ベルガに見破られてしまった。


 しかし今も気にしている場合ではない。

 生き延びるために、全てを捨てて力を出す必要があるのだ。


「ふう……面白かったぜ、この時間は。このファルマの街は面白い奴が多くて、オレも最高だな。お前みたいな奴に、あのマリアンヌという女がいてよ。さて、満足したことだし、寝るとするか。またな、黒い兄ちゃん……」


 ――――驚いたことが起きた。


 ベルガはベッドにごろりと横になったのだ。

 先ほど同じように、大きないびきをかき寝始めたのだ。


(くぅ……見逃すということか? いや、次回にお預けということか)


 暗殺者に対して、無防備な背中を向ける男の思惑が、読み取れない。


 いや……この野獣のような男に思惑など、最初からないのかもしれない。


 魂が飢えたら敵を食らい、満たされたら寝るだけ……そんな欲望に忠実な戦士なのだ。


(ベルガ……か。それならこの勝負の決着は、いつか必ずこの手に……)


 私は心の中でそう宣誓する。

 ネックレスを元の場所に、そっと戻しておく。


 ふう……戻るか。


 そして来た時と同じように、音もなくこの部屋から立ち去るのだった。


 ◇


 私の名はハンス。


 マリアンヌお嬢さまに仕える若執事(バトラー)である。


 自分の人生はマリアンヌお嬢さまを、陰ながら支える為に費やす予定でいた。


 だが今は少し違う。


 お嬢さまが変わった"あの日”から、少しずつ私も変わっていた。


 きっとこれから、私も忙しくなりそうな予感がする。

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