吸血鬼、指を回す

 ある日の朝、とある街の電車内にて。



※ 



 通勤電車っていうのは正直に言うとかなり苦手だ。


 人肌に問答無用で揉まれる密集感と熱気が最悪だ。


 延々と続く電車の稼働音と、無数の人の息遣いも気持ち悪い。


 視界がほとんど見知らぬ人間のスーツでおおわれるのも正直嫌だ。


 ただ、何より最悪なのは臭いだろうねえ。


 他人の汗の臭いが、皮脂のニオイが、足のにおいが、香水の匂いが。


 他にもとにかくいろんなものを混ぜ合わせた臭いがぐちゃぐちゃに混じってる。おかげで私は毎朝吐き気を催し続けながら、この時間を過ごしている。


 はあ……しまったな、ちょっと給料がいいからって、電車で朝から通わないといけないバイト先なんて選ぶんじゃなかった。


 まあ、仕方ないのだけど、親もおらず、ぎり夜間高校を卒業した程度の私じゃあ働ける場所なんて限られている。


 五感と身体能力が高いのなんて、正直このご時世そこまで役に立つわけじゃない。というか、あんまり突飛に動きすぎると、むしろ正体がバレてダメだから。セーブするために、ちょっとどんくさい人間として売っているくらいなのだから。


 この能力も、精々ケツを触ろうとしてきた痴漢の指を、気づかれないように逆方向に曲げるくらいにしか役に立たない。


 そうやってこの前、見知らぬおっさんの指を折ったのも三日前くらいだったろうか。


 まあ、そいうことを致すおっさんもさぞストレスが溜まっているんだろう。例えば、職場で有能な後輩がいて立つ瀬がないとか。時代の変化についていけず、何もできなくなってきているとか。価値観の変化で、家庭でも煙たがられるようになったとか。それで発散先を探しているわけだ、まあよくある話だろうね。


 可哀そうだとは思うが、かといって一方的にやられてあげるほど、私は奉仕精神豊富じゃない。


 残念ながらどれほど理不尽な目に遭った人間にも、誰かに理不尽を与えていいなんて理屈はないのま。


 まあ、その理屈でいうと、吸血という他人の権利を犯しまくっている私も許されるべきではないんだけど。まあ、これがないと物理的に生きていけないので、勘弁願いたいところだ。


 ただ、どれだけ変な身体で生まれようが、どれだけ孤独に苛まれようが、どれだけ周囲との差異に苦しもうが、どれだけ過剰な感覚の反動に辟易しようが。


 それは他人に苦しみを与えていい理由にはならない。それは私も何も変わらない。


 まあ、昔は私も随分ひねていたから、世界で自分が一番不幸だと想いこんでいたけど。


 だから、他人に何をしてもいいって本気で想っていた節があったけね。


 私が被害者なのだから、しかたないだろうって。こんな身体に産んだどこかの誰かが悪いんだと。そう憤っていた。


 おあつらえ向きに、この身体は、人知れず悪事を働くにはあまりにも適しすぎていたしね。


 そうして、私が吸血鬼だということを唯一知っている孤児院の先生に思いっきりぶん殴られるまで、その悪事は続いたっけか。


 まあ、今では立派に更生して、バーガーショップでポテトを揚げてパティを挟む毎日だ。


 なんて、回想をしながらいい加減、臭いのカクテルにぶっ倒れそうになった。



 そんな頃のことだった。



 脳の奥の方に、一瞬だけ火花が散った。



 何気なく眼を開けると不思議と意識が鮮明で、眼球が機敏に動く。


 少しだけ心臓が逸るのを感じてから、鼻を少しだけ抑えて一瞬だけ感じた匂いの正体を探る。



 ―――。



 数瞬して、匂いの発生元に気付く。


 私の眼前、三人か四人ばかり越えたところにいる女の人。その匂い。


 濃く、濁った、確かな


 生理期特有の女性の匂い。


 加えていうなら、確実に美味しいであろう、濃厚で折り重なった血の匂い。


 想像すると、明確に涎が湧いてくる。


 そういえば、ここ一か月くらいまともに血吸っていなかったっけ。


 どうしようもなかったら、トイレとかに捨ててある誰のとも知らないナプキンとかも吸うのだけど。あれ死ぬほど不味いのに当たると、普通に三日は腹を下すことになるから嫌なのだ。一度お邪魔した家は二度目に行くと流石に通報されるリスクが高くなりすぎるし。


 だから新鮮で美味しいことが確定している見知らぬ人の血というのはとても希少なわけでして。


 うー……仕事の帰りにでもお邪魔しようかな。


 我ながら、生理の経血だけ飲む、というのもいかがなものかと想うが、同胞を増やすなんてリスクは少しでも排除しておきたいのだ。


 まあ、私、一度も同胞を増やしたことなんてないから、本当に増えるのかすら怪しいところなんだけど。


 いわゆる想像上の吸血鬼と、符合するところはたくさんあるけれど、そうじゃないところもたくさんあるのだ。


 にんにくは相応に効くけれど、十字架なんてまるで効かない。処女の血を吸えば吸血鬼になるなんてのもどこまで本当かは怪しいものだ。


 なんて思考をしながら、とりあえず人波をそっと抜けた。それから、それとなく女の人の隣まで移動する。


 深く香りを嗅いで、ある程度遠方にいても認識できるように匂いを覚え込む。


 たくさんの人の混じった匂いに苦心しながら、この人の特有の匂いを頭に刻み付けないといけない―――。




 そう想って、ふと気づく。


 

 酸っぱいような、苦いような。


 そんな匂いがしていた。


 強いストレスに晒された人、特有の匂い。


 泣いて、伏せられたような瞳。


 ……ああ、ていうか。この女の人の後ろのおっさん。あれじゃん。私に痴漢してきたおっさんじゃん。


 指が折れてるのに、……めげずにやってるのか。根性があるというか、なんというか。


 はあ、ろくでもないなあ……。


 思わずため息をつきかけて、ふとその女の人を見やる。


 背後から響く興奮したような息遣いに、必死に耳を塞いでいる。


 全身が震えて、縮こまって、怯えたように手のひらをぎゅっと握っている。


 顔は下を向いて、今にも泣き出しそうな喉を必死に抑えている。


 …………。


 ああ。


 黙っちゃったのか。


 きっと、怖いんだろうね。


 きっと、辛いんだろうね。


 自分より強い生き物に一方的に襲われる感覚を。


 理不尽な悪意に晒される感覚を。


 わかってはあげられるのだけど。


 理不尽に対して、恐怖して、ただ過ぎ去るのを待つことを選んじゃったか。


 …………まあ、そうなるのが自然かもね。


 それも、仕方ないのかもね。


 ただね…………それじゃあダメなんだよ。


 理不尽を受けた人間が、誰かに理不尽を振るうことが許されないように。


 理不尽を受けたなら、きちんと声を上げなければいけないのだ。


 どれほどその喉がか細くても、例えどれだけその意思が弱くても。


 それでも声を上げなければいけないのだ。


 助けて、と。


 その一言がなければ、誰もあなたを救うことなどできないのだから。


 差し伸べる手がいくつあっても、求めなければ引き上げられることはないのだから。


 たとえ、あなたがどれほど可哀想な理不尽の被害者であろうとも。


 そこだけは絶対なんだよ。


 可哀そうだね。怖いだろうね。


 自分さえ黙っておけば、我慢すれば誰も不幸にならないと。


 そう想ってしまったんだろうね。


 ただ、元の性格の優しさはよくわかるけれど、それは使い方が間違えているよ。


 だって、誰より、自分に対してその優しさは向けてあげるべきなんだから。


 そうして、十数秒ほど眺めていたけれど、事態は特に進展しそうになかった。



 だから、ため息を尽きながら、私は軽く指を払った。



 「お姉さんはね、ちゃんと自分で助けを呼ばないと、ダメだよ」



 それから、そう告げて軽く苦笑い。



 まあ、こんなこみいった車内じゃ、声が届いているかどうかも怪しいものだけどね。



 私は緩く手を伸ばした。



 撫でるみたいに、なぞるみたいに。



 人間の意識の隙間にすっと入り込むみたいに。



 おっさんの、お姉さんの方には伸びてない指―――先週、私を触ろうとして手酷く折れて包帯が巻かれた指を―――



 二・三回転もしたら千切れちゃうから軽く回してから元の方向に戻してあげる。



 まあ、戻るときも相応に痛いだろうけれど、完治するだけましでしょ。しゃあなしってやつよ。



 「ーーーーー~~~~~っ!!??ーーー~~っぁ!!ーー~!!!!???」



 おっさんの悶絶音を聴きながら、私は鼻を利かせながら女の人の匂いを記憶に刻み続ける。


 あなたは一瞬こっちに意識を向けかけたけど、それよりも背後の叫んでいる男の方に目が行くみたいだ。そうそう、それでいい。覚えられてたら、今夜やりにくいしねえ。


 そんで、こんなことしてるけど、別に私は善人じゃない。


 むしろ悪人。なんなら加害者。


 今のだって、あんまりストレスがかかりすぎると血が不味くなるからだし。そもそも今夜、不法侵入して血を貰う予定なのだ。善の要素なんて微塵もない。お姉さんとしてもたまったもんじゃないだろう。


 それに、結局、これは対処療法だ。


 このお姉さんが、自分で声を上げる心を持たない限り、またどこかの痴漢に同じようにされてしまう。


 残念ながら、そういう『弱い人』の匂いは吸血鬼でなくてもわかってしまうらしいから。


 だから、この人は、結局、また理不尽に晒されることになる。


 むしろ、今後、声を上げなくても助かってしまった―――という経験が悪い方向に働くことだって考えられる。


 来もしない助けを、延々と待ち続けるようになってしまうかもしれない。


 だから、まあ、わたしのやっていることって基本的にろくでもないんだよねえ。


 ごめんね、お姉さん。私、悪人なのだ。


 ごめんついでに、今夜ナプキンだけ寝てる間に貰って帰るからさ。


 軽く欠伸をしながら、私は周囲の騒ぎなどそ知らぬふりで、横目でお姉さんをぼんやりと眺めていた。


 

 ねえ、先生。私は今日も程々に悪人やりながら生き延びてます。



 まあ、墓の下のあんたには、もう毛ほども関係ないんだろうけどさ。

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