第24話 閑話 稀星の出産

「稀星、愛しています。こんな俺があなたに触れることは、もしかしたら許されることではないのかもしれない。でも、愛しすぎて、心が張り裂けそうなんです。こんなに女性に惹かれたことはありません。俺の唯一の愛、俺の誠、俺の女神――稀星」


「ウィル、わたくしも愛しています。愛しい貴方、わたくしも、こんなに人を好きになったのは初めてです」


 稀星とウィルは、ラドメフィール王国王宮主催の新国王即位を祝うパーティーから抜け出てきた。ワルツの調べが王宮の外まで響き渡っている。パーティーは大変盛り上がり、夜通し賑わうことだろう。

 ウィルに連れられてやってきたのは、王宮の東庭園。先程、西の庭園に降りていく穂積とデュークを見かけたウィルと稀星は、敢えて東の庭園に出た。王宮を中心に東西南北に庭園があり、それぞれ異なった趣がある。東の庭園は、季節の花が夜露に濡れ、一層香しい匂いを放っており、優しい夜風が熱った身体を冷ましていく。

 二人はパーティーのダンスで何度も踊ってクタクタになった。その興奮が冷めやらず、見つめ合ってはクスクス笑ったりじゃれ合ううちに、この世界に二人しかいないような気持ちの昂りを感じる。

 余韻を味わう様に手を繋いで庭園をぶらぶら歩いてた稀星達は、黄色い小ぶりな薔薇の花で作られたアーチの下にベンチが置いてある場所に出た。ウィルは稀星をそっと座らせると、自分もその隣に腰を落ち着けた。


 稀星は、ほんの一時間前に新国王からこの国の勇者の一人として勲章をもらい、名誉国民の一人になったばかり。稀星は今日のパーティーで、剣術の弟子でもあるウィルことウイリアム・ブラウンにエスコートしてもらうのをとても楽しみにしていた。傍目からみれば、マリー・アントワネットのようなフリル天こ盛りのドレスを着ている姫と従者のような二人に見えるかもしれないけど、稀星は微塵も気にしていない。この一時を名一杯楽しもうと初めから決めていた。


 ラドメフィール王国出身のウイリアム・ブラウンはフェニックス騎士団の小隊長を任されているが平民であり、ラドメフィール王国では珍しく『魔力無し』の人である。ここは、男性だけが魔法を使える国で、それにより男尊女卑社会が形成されていった経緯があり、例え男性として生を受けても魔力が無いのであれば非常に生きづらい国だった。

 それでも、持ち前の努力で小隊長まで上り詰めたウィルは、偶々、騎士団を見学に訪れた稀星と出会い、剣術を伝授してもらうことをきっかけにして、こうして愛し合う仲にまでなった。


 ウィルは魔力無しのため、小さい頃から虐められたり、馬鹿にされることが多かった。魔力が使えない分誰よりも努力してきたのに、今まで褒めてもらった経験はほとんどない。そんな中で、とてもよく頑張っていると褒めてくれたのは稀星であり、ウィルが思わず泣いてしまったのはつい先日のこと。それから、二人が恋に落ちるまでは、そう時間はかからなかった。

 ウィルは稀星が想いを返してくれるなんて、今でも嘘なのではないかと思うくらい信じられなかったが、嬉しさと同時に「俺なんかに何故」という卑屈な感情が常に付きまとっている。今まで幸せな記憶はあまりなく、幸せに慣れていないからなのかもしれない。


 ウィルが難しい顔つきをしていたので、稀星はまたかと小さく息を吐いた。

「ウィル、『こんな俺』とか『俺なんか』とかは、今後、言うのも思うのも禁止です」

 稀星はそっとウィルの頬に手をあてた。


「わたくしが見込んで、手づから剣を教えたのは貴方が初めてです。他の人には一度だって無いことを貴方にだから教えたのです。だから、『こんな俺なんて』って思っていたら、わたくしに失礼だと思いませんか? 自信を持って下さい、ウィル」


 頬にあてられた稀星の両手に、そっと自分の手を重ねたウィル。稀星の手は剣術の師範とは思えない程白くて細くて柔らかい。ウィルは堪らずぎゅっと強く握った。

 稀星は握られた手からウィルの情熱が伝わってきて、思わず頬がピンクに染まってしまう。もしかしたら、――いよいよキスの展開かもしれない。

 そんな予感がして、ドキドキする鼓動を無視しながら大きな瞳をそっと閉じた。


 近い距離で目を閉じた稀星は本当に可愛い。濃い睫毛とピンクの頬、閉じられた唇はチェリーのように艶があって愛らしい。ウィルはドキドキして今にも口から心臓が出そうだ。かつて同世代の若者が揃うと下ネタで盛り上がることもあったが、ウィルはキスすら経験がないお子ちゃま枠だけに、いつもその点で馬鹿にされていた。全くそのとおりであり、こんなタイミングでもどうしたらいいのか分からない。もっと友人達の経験談を真面目に聞いておけばよかったと過去の自分に後悔する。しかも、うっかり気を抜けば、変なところに血液が集まっていきそうだから、必死で意識を他に向けようとするが、目の前には目を瞑って唇を向けてくる稀星がいる。


「――――参った……」溜息のように囁いて、ウィルは、進退窮まった顔で天井を仰いだ。


 一方の稀星は、いよいよキスの瞬間だと、完全に頭の中はお花畑状態。

(あーあぁ、ドキドキしますわ。恥ずかしいけど、なんてロマンチックなのかしら。ウィルの唇は柔らかいのかしら、吐息は熱いのかしら、ファーストキスはレモンの味がするのかしら……)


 だがしかし、ずっとドキドキしながら『待て』状態の稀星なのに、待っても、待っても随分と待てが長い。

(……間が長いですわね……?)


 忠犬とは違って堪え性の無い稀星は、待てができない。どうしたのかと、そうっと片目を開けてみたら、見えたのは顔中が汗ダラダラで、一人百面相状態のウィル。ウィルは額に若葉マークをつけていてもいい程の初心者で純粋で、とても稀星の同級生だとは思えないくらい全くすれていないのだ。この展開にかなり動揺しているようだ。


(――もう、本当に仕方のない人ですこと……)


 稀星はがばっと目を開けると、それに驚いたウィルが目を見開いた。

 ウィルの驚いた様子を無視して稀星は自分からグイっと顔を近づけて口付けた。


「――ん、んん……」

 唇と唇が触れ合った瞬間、ピタっとお互いの動きが止まり、この後どうしたらよいのか分からない。しっとりとした感触が伝わってきて、自分から口付けた稀星でさえも今更ながら羞恥心でいっぱいになった。一端、離れようかと思って、稀星がウィルの胸をそっと押した瞬間、何故かカチっと、――ウィルにスイッチが入った。


 ウィルは、突然稀星の腰をぐっと引き寄せて顎を上に向かせると、額、目、頬と、顔中にキスの雨を降らす。そして最後はまた唇に落ち着き、じっくりと味わうように唇の角度をかえながら、まるで果実を啄む小鳥のように、何度も何度も小刻みに口付けを落とす。


(――んん、ん――苦しい……。ウィルってば、こんな情熱的な面があったなんて)


 稀星は、ウィルが迫ってくるというよりは、がっついてくる勢いに、呆れを通り越してもはや感心していた。キスをされながら、押し倒されそうな勢いでグイグイと顔を押してくるので、稀星はとうとう体制をキープできず後ろに押し倒されてしまった。


「痛ったあぃ……」


「――あっ、稀星、大丈夫ですか!? 俺ってば夢中になってしまって、申し訳ございません」


 ウィルは紅潮した顔のまま、急いで稀星の手を取って引き起こす。


「もう、ウィルってば! がっつき過ぎですわ。ロマンチックに進めるなら、もう少しスマートにお願いしたいものです」


「す、すみません。あまりにもキスが素晴らしくて、そのっ、稀星の唇が柔らかくて、なんだかレモンの味がして……」


「……ふっ、ふふふふ、ふ、ふ、ふっ、――アハハハハ!」


 ウィルも同じことを考えていたのかと思ったら稀星はとても可笑しくなって、ムードなんてどっかへ吹き飛ばしてしまうくらい大笑いした。それを見たウィルは初めは唖然としたものの釣られて笑い出し、結局二人でお腹を抱えて笑ってしまった。稀星は涙が出てくるくらいにお腹を抱えてこの時ほど笑ったことはない。





「――――もう、ウィルってば…………ウィル?……――」


 実際に口から洩れ出ていた言葉が耳に残り、気だるげに重たい瞼を開けると、見慣れた天井に見慣れたカーテンが目に飛びこんだ。カーテンの隙間から朝日が覗いている。


(――そうか、ここは自分の部屋のベッドの上ですわね)


 稀星の目には涙が残っている。稀星はベッドサイドに置いてあるティッシュを一枚取って、そっと目を拭った。


「あーあぁ……、幸せな夢だった……、あの時のウィルってば、本当に末代まで語り継いでやるんだから! あなたのお父様は、優しいウサギの振りをして本当はオオカミなのよって」


 稀星は大きく突き出たお腹を優しく撫でた。臨月と同義の38週に到達したので、いつ生まれてきてもおかしくはない。お腹の中の子供も2500グラムは優に超えているだろう。

 稀星は横向きのままお腹を撫でると、それに反応するように、ぼこぼことお腹の中から蹴ってくる。


「ふふふ、元気なこと。いい子、いい子」


 稀星の妊娠が判明した時はまだ9週に入ったばかりだった。穂積と皐月がセント・エターナル女子学院に編入して直ぐの頃、貧血で倒れて妊娠だとわかり、父親と母親には烈火のごとく叱られてしまった。当然、父親には誰の子かと問い詰められ、まさか異世界人のウィルとは言えないから、ひたすら隠していたら、今度は、誰の子供か言えないなら子供を諦めろと乱暴なことを言ってくる。

 親の言い分は最もだし理解できなくはない。ましてや稀星はまだ17歳の子供だ。「子供が子供を産んで育てられるのか、父親は認知しないでどういうつもりだ」と、特に稀星の父親の怒りようには手がつけられなかった。母親もオロオロするばかりで、稀星の味方にはなってくれない。


「嫌です、わたくしは、一人でも絶対に産みます!!」


 稀星の決心は鉄壁の如く固く、両親が認めてくれるまでは隠れ家に非難することに決めた。隠れ家ではよく家出少女を匿っていたが、まさか自分が家出でするなどとは夢にも思わなかった。仮に親が認めなくても堕胎することができない妊娠5か月までは隠れ家で生活して、お腹の子供を守るつもりだ。



「稀星、体調はどうだ?」


「――穂積ぃ……よくはありません……、悪阻つわりだと思います」


「悪阻の時はキャンディを口に入れると紛れるらしいから、ほら! 舐めてみて」


 隠れ家の稀星のベッドの上で、皐月がカラフルなキャンディを広げた。

 稀星は横になっていた上半身を起こすと、早速苺味のキャンディを口に入れた。確かにムカつきが少し軽減されるような気がする。


「食べ悪阻って言葉があるから、ムカムカしたらカロリーの低いものを少し食べるといいらしいよ。でも、際限なく食べると体重が増加して出産が大変になるから、くれぐれも気をつけてね」

 あたかも出産経験者のように語る皐月に、稀星も穂積も目が点になる。

 皐月の言葉に頷いてはいるが、二つ目のキャンディの袋を開けていた稀星は、取り上げられる前に急いで口に放り込んだ。


 稀星が妊娠3ヶ月になった頃、隠れ家で生活するようになってから、穂積と皐月は、朝も放課後もほぼ毎日隠れ家に通っている。稀星は、まだ妊娠初期でお腹が目立っていないので、学校にも毎日通っているし、隠れ家にいることを稀星の両親も知っていたので、大きな問題にはなっていなかった。何よりも隠れ家に逃げ込んだのは、稀星にとって最大のお目当てがあったのだ。

 稀星のベッドサイドに置かれたラドメフィール王国から貰った勲章は、二匹の獅子が向かい合って真ん中の宝玉を持ち上げるデザインだ。これをJK3人組が貰ったことで王国との絆が結ばれ、王国内で彼女らが忘れ去られることはない。また、魔力を含んだ宝玉が収まっているため便利に使えることがあった。大体は自分達に関するお知らせ機能だ。


「あっ、勲章の宝玉が光ってる!」


 穂積が見つけたのを合図に、JK3人組は急いでデュークの部屋へ向かう。穂積のベッドサイドのクローゼットが入口になっている不思議な部屋は、デュークが空間魔法を使って構築したものだ。

 部屋に入ると、研究室になっている部屋のドアが開いており話声が漏れてきた。

 中では大きな魔法陣にウィリアム・ブラウンが立っている。脇に立つデュークと国の話をしていたらしい。


「ウィル!」


 稀星は駆け寄った。二人は手を合わせているように見えるが、何かがおかしい。

 稀星の手がウィルの手を突き抜けているし、良くみるとウィルの色が薄い。


「何度見ても不思議だね。熱まで感じそうなくらい、本物みたいな存在感だけど、ウィルは映像なんだね?」

 皐月は感心したように口笛を鳴らした。


 稀星とウィルは超遠距離恋愛だ。異世界間恋愛と言ってもいい。とにかく会うのが簡単じゃないため、穂積と皐月がテレビ電話のような機能を魔法陣に構築できないのかとデュークにお願いしていた。デュークは穂積の願いとあればと、「なんでも言うことを聞く」という穂積の言質と引き換えに、魔法陣の研究に精を出した。流石、召喚士だけに試行錯誤のうえ、僅か1週間足らずでラドメフィール王国から映像を飛ばすことに成功したのだ。


 使用方法は簡単で、前もって日時を指定し、所定の魔法陣に乗ることで映像だけ日本に飛んでくる。初めてウィルの映像が届いた時は、稀星は感極まって号泣してしまい、せっかくの逢瀬がほとんど話すこともできずに終わってしまった。しかし、その日を境に二人は定期的に逢うことができ、この時ばかりは、稀星はデュークの研究室を独占させてもらってウィルとの時間を楽しんだ。


 稀星のお腹の子供は順調に育ち安定期を過ぎたころ、碌に妊婦検診を受けに来ない稀星を心配した両親は、出産を認める代わりに実家に連れ戻した。両親は娘が妊娠した事実に関係する諸々を一端棚上げして、娘の体調管理を優先したためだ。何しろ大事な一人娘なのだから、娘の体調が一番心配であるという親心は稀星にも理解できる。

 それでも2週間に一回のペースでデュークの研究室に通い、ウィルと逢って会話を楽しみ、日々大きくなるお腹を見て、ウィルも子供が生まれるのをとても楽しみにしていた。


 ――――だけれども……、稀星は夜になると悲しくなり、一人で泣くことが増えた。


「人間ってなんて我儘なのかしら。ウィルと逢えない時は、顔だけでも見られたらそれで満足なはずだったのに、逢うことが通常になると、触れたい、熱を感じたいと思ってしまうなんて……」


 お腹が大きくなってきた6か月に入ると、稀星は留学を理由にして学校を休学した。暇を持て余した稀星はプレママ専用の雑誌などをよく読んでいたが、そこに掲載されている幸せそうな夫婦の写真や、立ち合い出産のことなど、自分が叶わないことが全部羨ましく思ってしまう。

 人間の欲は計り知れない底なし沼だ。妬み、嫉み、羨みなどの感情は学園で起きた事件の原因の一つであって、とんでもないパワーを持っていることをよく知っているのに。

 稀星は、思考を遮るように手元の雑誌を床に投げつけた。



 そしてもうすぐ妊娠10か月に入る38週目の朝に、稀星は、懐かしいラドメフィール王国でウィルとのファーストキスの夢を見た。

 どういう訳か頻繁にお腹が固くなるし、もしかしたら虫の知らせかもしれない。胸騒ぎがしてトイレに行くと所謂『おしるし』と言われる出血があった。


「う、産まれるの!!?」


 稀星は慌てて予めまとめておいた荷物を持って、実家の隣にある御門総合医療センターの産科に入院した。お産を進めるために陣痛がきてからの入院が一般的なのだが、稀星はまだ未成年ということもあり、万全を期すため早めに入院することになった。腰の細い稀星は、赤ん坊の頭囲が骨盤の幅ギリギリな感じで、もしかしたら緊急帝王切開の可能性もかなり高かった。


 ホテルの一室のような豪華な病室でクラッシックを聞きながら、お昼はフランス料理のフルコースを優雅に食べていた稀星であったが、夕方からジワジワと陣痛が始まると様子が一変する。

 この尋常ではない痛みに一人で耐えなければならないなんて、何て苦痛なのだろうと正直泣きたくなった。稀星の父親は無痛分娩を勧めたが、これからの覚悟を身に刻むためにも陣痛の痛みを感じてみたいと思った。が、……。


「――――っ、でも、結構、きついかもしれませんわ――っつ」


 陣痛は海の波と一緒で、押し寄せては引いてくるの繰り返し。しかし、その間隔が徐々に狭まり、もう駄目、限界、死ぬというところで、やっと力を入れていきむことを許可されるのだ。いきみを許可されるまでは何時間もこの痛みと向き合わなければばらない。死ぬわけないけど、感心するくらい死にそうな痛み。鼻からスイカを出すような痛みと言えば誰もが想像できるだろう。


「それにしても、穂積や皐月はどうしたのかしら? 入院したのを連絡しましたのに、いつもなら直ぐに駆けつけてくれるはずなのに、まだ来ないなんて。―――っ、また、きたっ、痛いよぉおおおぉ……」


 稀星は泣きたくなってきた。母親は側に控えているし、外科が専門の父親だって立ち会う予定だ。でも、違う。そうじゃない。稀星が必要なのは親ではない。

 側にいてほしいのは、手を握ってほしいのは、励ましの声をかけてほしいのは、ウィルただ一人なのだということを思い知る。

 あまりの痛みに意識が朦朧となった頃、お腹につけたモニターを見た看護師は分娩台に移るように指示した。


「――っ、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー……」


 分娩台で息を整えて、タイミングを計る。

(もうダメ、本当にダメ、絶対にダメ、死ぬ、死にますわ、痛い、痛いっ、怖いよー、ウィル……)


「ウィル、怖い、痛い、怖い、痛いっ、ウイィル――っ」断末魔の叫び声を稀星が上げた時だ。


「稀星! 待たせて済まない。ウィルを連れて来たぞ!!」


 既に意識が半分飛んでいた稀星は、両足を固定されてあられもない体制のところに突然、穂積と皐月が飛び込んできて、その後ろには懐かしくて愛しい青年が立っているのが見えた。

 青年は穂積を突き飛ばすと急いで傍に近寄り、稀星の頭を優しく抱え込みながら強く手を握った。青年は涙を流していた。


「稀星、稀星、大丈夫ですか。愛しています。頑張って下さい――っ」


 医療スタッフが茫然とするなか、ウィルだけは父親特権でそのまま入室が許可され、穂積と皐月は分娩室から追い出された。部屋の外ではデュークが心配そうに立っている。


「皐月、なんとか間に合ったかな?」


「うん、それにしても分娩室に乗り込むなんて、正気じゃないよ、穂積」


「しょうがないだろう。自分には稀星の叫び声が聞こえたんだよ! せっかく苦労してウィルを連れて来たんだから、産まれる前に稀星のところに行かないと!!」


「皐月のアイデアと穂積の行動力のお陰だな」

 デュークは穏やかに微笑んだ。「無事に石化が解除できて本当に良かった」




 間もなくして分娩室から大きな産声が聞こえてきた。


「産まれた!」

「産まれたよ!!」


 穂積と皐月は抱き合って喜んだ。


 年が改まった1月のこと、2800グラムの元気な男の子を稀星は出産した。


 *****


 出産後しばらく分娩台の上で眠っていた稀星は、まだぼんやりとしていて、出産のドサクサでウィルを見たような気がするが、どうせいつもの夢なのだろうと小さく溜息をついた。


「稀星、大丈夫ですか? 目を覚ましたのですね?」


(……なんかウィルの声がする。きっと、幻聴ですわ)


「稀星、水を飲みますか? それとも何か別なものを……」


「――お水を下さい」


「はい。どうぞ」


 水の入ったコップが差し出された手は、剣だこができていて、よく日に焼けていて、見覚えがある指のような気がする。でも期待して、もし違った時のショックを考えると手放しでは信じることは出来ない。稀星は慎重に息を整えてから、ゆっくりと恐る恐る水を差し出した人物の顔を見上げた。


 そこには稀星がよく知っている、白い歯を見せてニコニコと笑っているヘーゼルナッツ色の瞳がある。


「……えっ? ……ウィル??」


「はい。そうです」


「ウィルなの……? 本物の?? 映像じゃない???」


「はい。本物です、稀星。穂積さん、皐月さん、そしてデュークさんのお陰で日本にやってきました」


「――嘘よ、嘘。そんな夢を、何度も、何度も、百回は、嫌、千回は見ましたわっ」


 出産後でホルモンバランスが崩れている稀星は、子供ように泣いている。嬉しいんだか悲しいんだか分からないが、何故だか止めどなく涙が流れるのだ。

 混乱する稀星を前にして、頬の上で流れ落ちる涙にウィルはそっと優しく口付けた。その感触、熱、そして――レモンの香り。


「ウィル! ウィル、ウィル、ウィル、ウィル……ウィリアム!!」


 稀星は瞠目した。自分でも信じられない程の驚きと感動で言葉を失っている。

 ただ、ウィルの名前を呼ぶことしかできなかったけど、稀星は夢にまで見た愛しい人の胸に優しく抱きしめてもらい、ウィルの匂いを胸いっぱいに吸い込んでいるのだ。


 暫くして稀星が落ち着いたころ、処置が終わった赤ん坊が稀星とウィルの前に連れられてきた。

 ウィルに似て明るい髪色をした可愛い男の子。ウィルも生まれたての赤ん坊を抱かせてもらって、再び涙を流す。日本の常識で言えば、17歳はまだ子供だ。それでも、今日から稀星とウィルは親になった。

 どんな試練があっても責任をもってこの子を育てなければならない。

 でもウィルと二人なら乗り越えていける自信がある、何が起こっても絶対に乗り越えていこうと心に決める稀星だった。



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