第17話 閑話・御門道場

「よう、爺さんよろしく頼むわ」


 道場の上座で御門道場の教えが書かれた掛け軸を背に座っている老人に、穂積は右手を上げて軽快に挨拶した。


 老人は正座をして目を瞑り瞑想をしているように微動だにしなかったが、突然カッと目を見開くと、


「この、たわけーーーーっっ」と、怒声をあげた。


 立派な白い顎鬚を蓄え、長く伸ばした白髪を後ろに一つで束ねているその老人は、とても細身であり、胴着から覗いている四肢などは筋張って鶏ガラみたいだ。


「お、お爺様――っ、申し訳ございません。ほら、穂積も謝って下さい」


 穂積の後ろから、胴着にピンク色の帯を締めた稀星が慌てて追いかけて来た。


「まじかっ! 爺さん、申し訳ない、稀星の友人の穂積だ。今日からよろしく頼む」


 相変わらず尊敬語も謙譲語も全く頭に無い穂積に、隣の稀星はアタフタと慌てふためいた。


「穂積、爺さんではなく、総師範とお呼びして。とても偉い方なのですよ」


「だって、稀星の爺さんなんだろう? それなら自分にとっても爺さんだよ。爺さんでいいじゃないか」


「穂積っ!」


 漫才のような二人のやりとりを厳しい顔でみていた道場の主は、

「――ぶはっ、はっはっはっはっは」と、突然大きな声で笑いだした。


「稀星や、ほんに親友のようじゃな」


「はい、お爺様、わたくしにとって大事な友人です。改めまして、わたくしの親友の穂積です。わたくしの学校のスポーツ特待を狙うためにお爺様に武道を伝授していただきたいのです。しかも編入試験まであと3週間弱しか時間がありません」


「うん、そういう事……」


 総師範がギロっと穂積を睨んだので、慌てて語尾をつけたした。


「……です……」


「うむ、よろしい。では、まずここに正座をしなさい」


「はい」


 二人は総師範の前に正座をした。

 御門道場の総師範は、全国に門下生が1000人以上はいる総元締めである。

 稀星も師範の資格を持つ一人だ。

 御門流は剣術がメインであるものの、総師範は合気道や空手など一通りの武道を習得しており、武道界のレジェンドと呼ばれている。御年70歳だが、まだまだ現役で、365日一日も欠かさず道場で鍛錬している強者である。


「で、爺さん……」


「総師範と呼びなさい!!」


「ひっ! はい!!」


 細身の身体からはとても想像ができないほど、総師範は大声を出す。穂積はそのたびに背筋がピンとなった。

 もとい、恐る恐る話しかけてみる。

「総師範……」


「……」


「――あのぉ……」


「――なんじゃ、早く言え!!」


「はいっ!!」

 話しかけるタイミングが難しいなぁと口の中でブツブツ文句を言っていると再びギロりと睨まれたので、穂積はなるべく丁寧に話すように心がけた。


「えーと、早速ですが、組手や型などを教えていただけません、か、?」


「ひよっこ風情が、何の戯言をほざいておる。お主は、まず道場の敷地を10周してから、その後は道場の床掃除、最後は、道場の脇にある井戸で隣の甕に水汲みをしてからじゃ!」


「――はあぁ??」


 稀星は「あちゃ~」と、額に手をあてている。


「穂積、総師範の言われるとおりにして下さい。とにかくその通りにすれば、恐らく全国で一番の先生からご指導いただけるのですから」


 穂積は苦虫を嚙み潰したような表情をしながら、しぶしぶ道場の外へ向かった。

 穂積の後ろ姿を見送ってから稀星は総師範に向き直り、床に三つ指を付いた。


「お爺様、穂積はあのようにガサツで乱暴に見えますが、とても心根が綺麗な女性なのです。今回はわたくしの我儘のための受験ですし、どうか、お力をお貸しくださいませ」


「――よい、よい。稀星や、あやつの目を見れば分かる。分かっておるよ」


 顔を上げて見た総師範の顔は、稀星が良く知っている優しいお爺様だった。

 稀星は安心すると、自分も竹刀を持ち出し、久しぶりに素振りを始めた。

 目に入れても痛くない程溺愛する孫に目を細める総師範は、孫の頼みを断る気は端からない。外へ目をやると必死にランニングしている穂積が見える。「良きかな、良きかな」とニコニコしながら自慢の顎鬚をゆっくりと撫でた。



 穂積が稽古を始めて1週間が経過した。


 穂積は未だに型や組手などを教えてもらえず、ランニング、掃除、水汲みの毎日だった。

 へとへとに疲れ果てる日々に、いつまで経っても稽古を付けてもらえないことに苛立ちを覚えていた。ただ、稀星が「とにかく総師範の言われるとおりにやって下さい!」と、言うので、渋々その通りにやっていたものの、段々と気持ちが腐ってくるのも事実で……。

 特に腹立たしいのは、水汲みだった。御門道場には井戸があって、その隣に甕が置かれている。その甕に水を汲むように言われているが、何故か汲んでも汲んでも満たされない。

 きっと穴が開いているのかと、穂積が調べてみると確かに底に小さな穴があった。穴があるならいつまでも満水にすることが出来ないのは当然で、そのうち力尽きてその日は終了となるのだ。

 穂積は、ある日、こっそりガムテープで穴を塞いで水汲みを終了したと総師範に伝えた。


「まさか、穴を塞いだのではなかろうな?」


「は? 穴が開いているのを知っているのか?」


「あたりまえじゃろう、穴が開いたままの状態で満水にするのじゃ!」


「――そんなの無理にきまっているだろう!!」


「そんなことはあるまい、穴から水が抜けきる前にもっと早く水を入れればいいだけの事じゃろ?」


「――ぐっ、ぐぐううっ……」


 穂積は真っ赤な顔をすると、ただ拳を強く握りしめて、ドスドスと足音をたてて井戸に逆戻りした。


(――くそっ、じじぃ、むかつくけど、これをクリアしなきゃ前に進まないのか……)


 そして、この日も穂積は甕を満水にすることはできなかった。


 夕方、皐月が隠れ家に着くと、穂積は御門道場のトレーニングでかなり疲れていて、隠れ家の自分のベッドの上で泥のように眠っていた。

 JK3人組は来月の編入試験の準備のため、予定のない日は学校帰りに隠れ家に集合し、デュークの部屋で夕飯を食べて帰るのが日課になっている。

 皐月が部屋に入ってきたことで、穂積はむくっと上体を起こした。


「穂積、大丈夫? かなり扱かれているね」


 穂積は深い溜息をついた。

「――――稀星のじじぃはかなり偏屈で参ったよ。穴の開いた甕を満水にしろなんて無茶苦茶なことを言うんだ……」


「……なるほど」


「……どうやっても満水にはならない、……皐月、どうずればいいんだ?」


「――――う――ん、きっと無理だよ。それは流体力学でも証明されるけど、穴から流れ出す水の速さにポイントがあるんだよ。重力加速度が関係しているという事だけど、穂積もお風呂の浴槽の水を抜いたことがあるでしょう? 排水口から流れ出す水の速さは決して一定ではなく、浴槽が満杯に近いときは,流れ出す水の速度は速く,空っぽに近くなるとそれにつれて速度も遅くなっていく。結論だけをいうと,一定の速度で水を入れ続けても半分くらいを上限にして満水には一生ならないよ」


 穂積はがっくりと肩を落とした。


「じじぃは満水にしろって……」


「穂積は、どれくらいその作業を続けたの?」


「い、一週間……っ」


「うっそ、めちゃくちゃ真面目じゃないの!?」


「だって、稀星がいう事を聞けって……」


「多分、お爺さんの狙いは水を一杯にすることではなくて、その動作により得るものなのではないかなって思うけどね?」


「??」 穂積は全く理解していない顔をしている。


「つまり、明日は、お爺さんにできませんって素直に言ってみなよ」


「絶対に許してくれないよ。めちゃくちゃ頑固じじいなんだ!!」


「大丈夫だって。ね?」


 絶対に許してくれないと思ったが、皐月に水を一杯にできないと証明されたからには素直に白旗をあげるしかないだろう。


 皐月、稀星、デュークの3人が穂積を心配して気を使っているなか、穂積は明日の稽古の事が頭から離れず、早々に隠れ家から自宅に帰っていたときだった。悶々と考え事をしていたので前方不注意になってしまい、怖そうなお兄さんの肩にぶつかってしまう。

 穂積はそのまま無視して歩いていると後ろから呼び止められた。ガラの悪そうな輩なのに穂積を知らないとは、この界隈ではかなり珍しいことだ。


「なんだ、おまえ……」

 穂積は腰に手をあて、ジロリと睨んだ。


「ねーちゃんよ。自分からぶつかっておいて、なんだおまえは無いんじゃないの?」


 半グレのような若いチンピラが、穂積にすごんで睨み返した。


 男の言い分にそれもそっかと思った穂積は、「……すんませんでしたねぇ」と一言言うと早々に踵を返した。


「ちょっと待てぃ!!」


 穂積のそっけない態度が男の神経を逆なでしたのか、男は怒声をあげた。


「ねーちゃん、ちょっと付き合ってもらうか――」と、穂積の肩を掴んだので、穂積は咄嗟に思いっきり強くその手を叩いて払いのけた。男の手にはジリジリと痛みが伝わっているのだろう。男はしきりに手をさすっている。


「こるらあぁ、アマ! 舐めるんじゃねぇ」


 男は穂積の腕を掴むと自分の方に強引に引っ張った。

 その拍子に男の方へ二~三歩よろけてしまったが、三歩目の足が出た瞬間、予想外に踏ん張りがきき、掴まれた手を軸に男の懐にくるっと回転して入ると、そのまま男を背負い投げして倒した。


(――いつもより身体の動きが格段に軽い……)

 穂積は驚いた。かなり自分の身体がかなり軽く感じるのだ。


「貴様ぁ……、俺を怒らせたな……、俺は元プロボクサーだぞ――……」

 男は倒れたまま目を見開くと、ゆらりと立ち上がってファイティングポーズを取り穂積に殴り掛かってきた。

 しかし、穂積は御門道場でのトレーニングで知らず知らずのうちに身体が作り込まれていたらしく男の動きに瞬時に反応し、攻撃を交わし、速攻で反撃に出ることができる。


(爺さん、凄い!――凄いよ!!)


 穂積は、男の背後に回り込み、後ろからけりを入れた後、男が倒れかかったところで背中にエルボー・バットをお見舞いする。元プロボクサーだかなんだか知らないが、男は完全にノックアウトされた。


 穂積は後ろを振り返ることなく、自分の拳をただ見つめていた。

 星空を見上げた穂積の顔にもう迷いはなかった。



 *****



「総師範、お早うございます!」


 早朝から道場に出かけた穂積は、総師範が来る前にランニングと道場の床掃除を済ませ、道場の草むしりをしていたところに総師範が現れた。


「今朝は、どうしたのじゃ、早いな」


 穂積は総師範の前に正座をすると手をついて頭を垂れた。


「総師範、甕の水はどうやっても満水にすることができません。早く入れればいいのかと思い、井戸の水を早く入れるようにやってみましたが、それでもダメでした……」


 総師範は目を瞑り、穂積の話を聞きながら自慢の長い顎鬚を手で撫でている。


「――自分には、甕を一杯にすることはできません。申し訳ございません」


「ひよっこよ、甕がいっぱいにならない事にどうして気が付いたんじゃ?」

「いや、それは、――だちの皐月に聞いたんだ。皐月は天才だから、色んなことをよく知っていて……、それで皐月から素直にできないと言えと、そうアドバイスされたから……」


 総師範は険しい目つきを穂積に向けた。

 穂積は怒鳴られると身構えた――が、次の瞬間に厳しい表情をふっと解いた。


「――よろしい。仲間に相談ができ、出来ないことを出来ないと言えることは大事な事じゃ」


 総師範は頷いた。


「良いか、武道とは、礼節と忍耐力がとりわけ重要である。感情を抑えて黙々と修練を継続する忍耐強さがなければ強くはなれないのじゃ」

 穂積は納得した表情で、何度も頷いた

「お主の顔つきを見ると、それをよく理解できたようじゃな。――よろしい、本日から空手の組手の稽古を行う。ただ、いつもどおり稽古前の時間にはランニング、道場の床掃除、今度は水汲みの代わりに庭の草むしりを行うように!」


「おっけー……、ではなく、了解ですっ!!」


 穂積は満面の笑みで総師範に敬礼をして答えた。


 穂積の編入試験まであと2週間。

 総師範に必死で食らいついて行こうと、心機一転、己の心にしっかりと誓った穂積だった。


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