第15話 初デートin日本は、事件の予感

「穂積、あれは何だ?」

「――ああ、あれは信号だ。青なら渡れ、赤なら止まれ、黄色は注意だ。車は危険だから、絶対に飛び出すなよ、デューク」


「うむ。分かった。穂積、あれは?」

「あれは……、コンビニだ……」

「どうして、似たような店が等間隔にあるのだ?」

「確かに、なんでコンビニが近い距離に幾つもあるんだろう……、ええっと、分かった! 日本人は欲しいものがあったら直ぐ買い物したい気質だから、便利なように至近距離に幾つもコンビニがあるんだよ」

「ふむ。日本とは変わった国だなぁ」

「まあ、魔法がないから、便利な店は近くにないとね。そういうことだよ、うん」


 穂積の回答じゃない回答に納得したのかしないのか、デュークは次々に色々な事に関心を示した。

「じゃあ、さっきの店で穂積がスマホをピッとして品物を受け取っていたが、日本は通貨が必要ではないのか?」

「あれは電子マネーだよ。ええっと、仕組みは……、――分かんないけど、ちゃんとお金は払ってんの!」

 デュークは腕を組むと、納得していないような不思議そうな顔をした。

「どうしてあれで支払ったことになるのか不思議だ、日本人も空間魔法を使っているのだろうか?」

「いや、魔法じゃないよ。――ったく、皐月を連れてくれば良かった。もう、三歳児じゃないんだから、何故、どうしてばかり聞くなよ」

 穂積は困り果てて眉間にぎゅっと皺を寄せた。


 穂積とデュークが日本に戻った次の日は土曜日で、学校は休みだ。デュークが生活するうえで不足している日用品などもあるだろうからと、2人で買い物に出かけることになったのだが、のっけからこの調子で穂積は目眩がしておでこを抑えた。

 デパートなどが立ち並ぶ街の中心地へ出かけてきたものの、日本の風景が新鮮なデュークはすっかり御上りさん状態だ。

 前にラドメフィール王国の王都メルトを見学した時は、逆に穂積が御上りさんだったのに、今日は全く逆の立場になった。あの時は危険があって、穂積は自由に見学することが叶わなかったが、日本は平和なので、デュークは伸び伸びと見て回ることができる。

 だが、困りごとはデュークの質問だけではなかった。予想外に困ったことが起きた。

 というのも、デュークは100メートル歩くたびに、芸能人かモデルと間違われて隠し撮りされるか、もしくは芸能事務所にスカウトされるか逆ナンパされるか……、とにかく大変なことになっている。当の本人は戸惑いつつも紳士的に対応するから、さらにファンを増やす面倒なことになり、穂積はすっかりマネージャーのようにデュークに集まるファンを蹴散らす役目になっていた。


「稀星のコーディネートが完璧で、デュークに似合いそうなど真ん中をもってくるからなぁ。だから自分はスウェット上下でいいって言ったのに……」


 穂積は改めてデュークを眺めて、その完璧さに溜息をついた。そして昨晩の稀星とのやり取りをぼんやりと思い浮かべた。

 当のデュークは、悩む穂積を余所に、まるで少年の眼差しでショーウィンドウなど街の風景に夢中になっている。






「取り敢えず着るものですわね、デュークさん」


 穂積とデュークが日本に戻り、隠れ家で一息ついたころ、翌日は買い物に出かけることが決まった。途端に、稀星は目を輝かせ、デュークの服を心配した。


「着るものなんてスウェットでいいじゃん? それなら近くの店でもすぐ調達できるし」


「駄目ですわ、穂積。明日は買い物とはいえ、穂積とデュークさんの初デートin日本ですわよ。わたくしに任せて下さい。お出かけ用の服は、デュークさんとそう身長が変わらない父のものを拝借してきますので」


「服って、これではダメか?」

 デュークは黒のシャツに黒いパンツが定番で、しかも膝まであるブーツを履き、パンツの裾はブーツにインしている。シャツの上には黒いローブを纏っていた。


「駄目ではないけど、ローブだと悪目立ちしすぎるかも。コスプレしていると思われるね、絶対に」

 皐月は、デュークの服装にそっくりなアニメのキャラクターをスマホで見せた。

 デュークは自分にそっくりなキャラクターを食い入るように見ている。


「その通りですわ。ですからわたくしにお任せ下さい。ちなみに穂積もちゃんとおめかししてきて下さいね」


「えー、必要ないよ。自分はいつもTシャツとデニムに決まっているから」


「別に穂積らしくていいんじゃない?」


 皐月は賛同したが、稀星は口をとがらせて納得していない。結局稀星は穂積のコーデを諦め、その分、デュークには思いっきり気合を入れて考えた。

 初夏に相応しい麻素材のロイヤルブルー色のジャケットの中に白いTシャツ、下はベージュ色のスキニーなチノパンに白のローファーと、どこのセレブかと思わせる爽やかなコーディネートに決めた。流石、稀星の父親の服なだけあって、全身ブランド品で、何よりも穂積が一番嫌だったのはそれを完璧に着こなしているデューク自身だ。デュークは身長が190cmと高く、黒髪に所々銀髪のメッシュが入り、東洋と西洋が入り混じったような顔つきをしている。菫色の瞳はゾクっとするような色気があり、言わずもがなモデルかハリウッドスターのような美丈夫である。


 案の定、今日は100メートルごとに騒ぎとなっている。

 呆れて恨めしそうにデュークを見上げると、デュークは自分と目を合わせた穂積に微笑んで応える。爽やかな笑顔にドキっと心拍数が上がったのを感じて、気を反らすように穂積はデュークの手を引っ張った。

 穂積から手を握ってくるなんて珍しいこともあるものだと驚いたデュークだが、すぐに恋人握りで握り返す余裕を見せる。


 ――しかし、――この行動が功を奏した。

 手を繋いで歩いていると、さっきまで煩わしかった周囲の状況が一変したのだ。急に誰も近寄らなくなり、遠巻きで眺めるだけになる。

 穂積はデューク程めかし込んではいないが、持ち前のロングヘア―をそのまま後ろにたらし、スキニージーンズを完璧に履きこなしているスレンダーな女性だ。そんな目立つ二人が手を繋いで歩いている様子は、傍から見ても高身長の迫力があり普通に恋人同士に見える。

 穂積はゆっくりと周りを見回すと、感心した声を上げた。

「なるほどねー、初めから手を繋いでいれば良かったのか。視線は痛いが、ずっと静かになった」


「お安い御用だ、穂積。それにしても日本は賑やかで、フレンドリーな国民が多いのだな。見ず知らずの男にも平気で話しかけてくる。とりわけ女性は皆華やかで、目の置き場に苦慮する程、足や腕や、腹まで出しているし……。我が国では信じられない光景だ」


「まあね……。自由に自己発信できる平和な世の中ってことだよ」


 デュークは「ふむ」と感心しているが、女性に注目されるのは「誰のせいだよっ」って思わず小声で愚痴った。


 それからは順調にショッピングが終わったので、休憩をしようと歩行者天国になっている駅前の商店街へ向かった。キッチンカーが出店しており、学生や家族連れなどで賑わっている。

 二人はどの店でドリンクを買おうかと見て回ることにした。初夏に相応しい水色をベースにした綺麗なドリンクや、身体に良さそうなグリーンスムージー、甘酸っぱいレモネードなど女性受けする商品が多い。穂積がレモネードにしようと決めてお店に近付いたら、キッチンカーで人通りから死角になる場所で穂積と同年代の女性が怖そうな男性に絡まれているのが目に入った。


「――あれは、稀星と同じ学校の制服だな。よし、デューク少し待っていてくれ」

 穂積は、稀星と同じ学校ということで見過ごすことができなくて、絡まれている女性に近付くと、男の前に割って入った。


「よう、楽しそうだなぁ」


「ああん?」


 その男は怪訝そうな声を出し、穂積を睨みつけた。男はそんなに大きな身体ではないが、パンチパーマをあてており、派手なアロハシャツを着てグラサンをかけているなど柄の悪さは一目瞭然の風貌だ。

 サングラスをしているせいか、穂積には男の顔がよく分からなかったが、男が穂積を認識すると「ひっ」と喉から短い悲鳴をあげ、直立不動になった。若干、顔色も悪い。


「――ブラックエンジェルのねーさん……」

 穂積はこの呼ばれ方をされた途端に眉間に青筋が立つ。そして、ギロリと迫力ある目つきで下から男をすくい上げるように睨みつけた。

「――誰だてめぇ」


 男は穂積にすごまれて背筋に冷たいものが伝わったが、しどろもどろになりながらも必死で説明する。

「お、俺は、前にねーさんと喧嘩した……嫌、そうじゃなくてっ、ねーさん達に助太刀をお願いしたグループっす……」

 男は目を白黒させながら、白旗を示しているのか胸の前で両手をひらひらしている。

「以前に例の高架線下の空き地で、ねーさん達と話してて、――でも、それからがよく覚えていねぇ。何故かねーさん達はいなくなっていたし、俺らも逃げ出していた……」


「ふーーん、そうか、お前はあの時のヤツか」

 穂積は腕を組みながら、鋭い視線で睨み続ける。

 かつて穂積は、この不良グループと一戦交える直前にラドメフィール王国に召喚されたのだ。召喚されると元の世界に平行世界が築かれるので、穂積達に関与した人の記憶が曖昧になるのだ。


「そんなことはどうでもいいが、今はこの子にチョッカイ出しているのかい? ええっ?」


「いえ、そうではないっす……。実は、――――ぶぶっ、ぶひひいぃーーっっ」


 パンチパーマ男が何かを言い終わる前に、絡まれていたはずの女性は、思いっきり力を込めてパンチパーマの頭を上から抑え込んで、地面に押し倒した。男は突然のことにすっかり顔を地面に押し付けられて潰されている。

 穂積は目前で繰り広げられた展開に一瞬呆気に取れた。しかし、膝をついて男を押さえつけているその女性が、やたら敵意むき出しの顔で穂積を睨み上げてくるから、この女性も、もしかして知り合いだったかなと気になってしまう。


「だ、大丈夫なのか? この男に絡まれていたんじゃないのか?」


 穂積の問いかけに、女性は穂積を睨みつけたまますくっと立ち上がった。向けられる感情は紛れもなく、尖ったナイフのような鋭い敵意だ。

 稀星と同じ学校の生徒なら間違いなくお嬢様なはず。見た目からしても、セミロングのストレートヘアは、前髪の両サイドに特徴がありフェイスラインに沿って段が入っていて、第一印象はかぐや姫を彷彿させた。

 女性は凛とした空気を纏いながらも冷酷な笑みを浮かべ、蟻を踏みつけるのと同等の行為のように、足元に倒れている男の頭をいとも簡単に踏みつけた。


「いいえ、こんなクズ、どうってことありませんわ」

 パンチパーマ男の頭の上に足を乗せギリギリと力を入れる。


「ぐふっ、い、いてぇ……」

 男は苦しそうに顔をしかめているが、反撃の素振りを見せない。反撃できない程痛いのか? 何故、されるままなのかが気になるが、見ていられなくり穂積は叫んだ。


「ちょっと、何もしていないなら、そこまでやる必要ないだろうっ!」


「――ご心配なく……」


 女性は穂積に止められても足の力を緩めるつもりがなく、更にギリギリと力をこめた。その視線は力が込められたと思えばうつろに揺らぎ、視点が定まっていないように見える。

 とうとう男の耳の辺りから赤いものが流れてきて、流血が見て取れた。


「やめろよ!!」

 バシッ!!!


 穂積の声と同時に女性の足が払われて、女性が再び膝をついた。

「デューク!!」


 デュークは何のためらいもなく、女性の足を自身の足で払った。

「女性といえど、弱者に暴力を振るうのはこの国で認められていることなのか? 俺の目には見苦しいので、止めてもらいたい」


 デュークは超絶冷たい視線を女性に向ける。その目からは吹雪が噴き出そうだ。

 穂積は女性に手を差し出して、起き上がるのを助けようとしたが、彼女はその手を無視してゆっくりと立ち上がった。一瞬、反撃されるのではないかと身構えるが、予想外に女性は落ち着き払っている。背筋を正して穂積とデュークの前に立った。


「わたくしは、セント・エターナル女子学院高等部で生徒会長をしている徳永花蓮と申します。何かに憑りつかれていたとしか思えない振舞い、大変失礼いたしました。お許し下さいませ。本日はこれで失礼いたします……」


 徳永花蓮は穂積に一礼すると、デュークをチラッと横目で確認して踵を返した。

 花蓮が立ち去ると地面に倒れていたパンチパーマの男も起き上がり、頭をさすりながら、ヒョコヒョコと花蓮について行った。


「おい! 大丈夫なのか!?」


 穂積が男に声をかけると、振り返ってペコっと愛想笑いをし、急いで花蓮の後を追って行った。


「……一体、どうなっているんだ? あの二人の関係は……。あんなに痛めつけられてもついて行くなんて、意味が全く分からん」


 デュークは固い表情を崩すことなく、ずっと花蓮の後ろ姿を睨みつけている。

「穂積、日本人は魔法を使うことができないんだよな?」


「ああ、もちろんだよ」


「あの女からは微量だが、かすかに魔力を感じた気がする」


「気のせいだろう? 彼女がデュークみたいに異世界から召喚された人なら話は別だけど、実際にはそう簡単には在りえないだろうし」


「いや、気のせいならいいんだが……」


 穂積だって、デュークだって召喚の経験をもつ。

 頭ごなしに在りえないと決定づけるのは間違いなのかもしれない。


 *****


 教室にカノンが流れ始めると授業開始の合図だ。

 セント・エターナル女子学院高等部2年櫻組の御門稀星は「あふっ」っと、小さく欠伸をしながら席についた。今日は月曜日、一昨日待ちに待っていた穂積がラドメフィール王国からやっと戻り、皐月と3人で泣きながら再会を喜んだ。

 まさか、ラドメフィール王国人であるデューク・ウルフェンまで一緒に日本に来てしまったなんて驚いたけど、想い合っている二人が離れなくて良かったと思う。

 早速、デューク氏の住むところを整えたり、穂積と一緒に買い物へ行ってもらったり、皐月と一緒に和食を振舞ったりと、色々と濃い週末だった。こんなに充実した週末は久しぶりなのに、心のどこかで寂しさを感じてしまうのは何故だろう。


「――穂積のことを羨ましいなんて思ってはいけませんわね……」


 稀星は、ラドメフィール王国に剣の弟子であり恋人だったウィリアム・ブラウンがいる。自分だって本当は無性に彼に逢いたくなる。逢って、手を取って、強く抱きしめてほしい。彼の匂いや体温を肌で感じたい。

 でも、それは過ぎた願いで、異世界人と逢うことがとても難しいからこそ稀星は自身の気持ちにケジメを付けてお別れしてきたのだ。それなのに、我ながら女々しいかもしれない。こんな時こそ剣術に磨きをかけ稽古に精進しなければと、稀星は唇をぎゅっと強く結んだ。


 稀星は大病院の院長の娘で、グループ傘下には沢山の病院を抱えており総資産は計り知れないほどのセレブの娘だ。

 母親においてもイギリス貴族の血が1/4入るクウォーターで、外資系ホテル創業者の一族の出であり、両親の系統から見ても稀星は生粋の令嬢である。

 そんなお嬢様の稀星だからこそ、一般の人より危険度が高いのは誘拐である。実際に小さなころから誘拐未遂事件が度々発生し、常にボディーガードが側にいる生活が強いられた。

 この状況を心配した母親は、稀星自身に危険に対してある程度防衛できる力を付けさせる必要があると思い、稀星の祖父にお願いをして道場へ通わせたのが剣術を学ぶきっかけだった。

 稀星の祖父は、戦国時代からの流れをくむ剣術の御門流総師範代である。御門家は医術と武術の二刀流で代々繁栄した家柄であり、祖父も医者であったが、早々に稀星の父親に経営を任せ、自分は武術に精進した人だ。祖父の血を色濃く受け継いだのか稀星は生まれ持った才能があり、かなり筋が良くて、水を得た魚のように御門流の剣術を習得していった。そんな稀星だからこそ、御門家のご隠居は孫娘を溺愛している事で有名だ。もし、祖父が稀星に恋人がいると知れば卒倒するかもしれない。

 稀星は、ウィルを思い出して目線を手元に落とした。


「ストレスなのかしら……」


 最近は胸やけが高頻度で起り、むかむかするのか、もやもやするのか、自分でもよく分からなくなっている。

(お父様にお薬を処方してもらわなければなりませんわね)

 稀星は気分を変えるため、ミントのタブレットをカリッと一粒噛んだ。


「稀星様、ごきげんよう」


 隣の席の久保さやか嬢が明るい声で話しかけてきた。さやかは櫻組の友人で、親が稀星の病院に勤務する医者なので、家族ぐるみで付き合いがあり昔から知っている。緩やかなウェーブヘアをポニーテールにまとめていて、制服に合わせていつも赤いサテンのリボンを結んでいた。やや釣り目でキュートな生徒だ。


「さやかさん、ごきげんよう」

 稀星は口元にハンカチをあてながら、優雅に微笑んだ。一方のさやかは黙っていられないといった好奇心いっぱいの顔ですぐに本題に入った。


「稀星様ご存じですか? 英語の先生が産休に入られるので代替の教師を探しているのですって! 今の先生も外国の方ですから、同じくネイティブの外国人教師を探しているらしいですわ」


「――そう、なんですの?」 稀星はピンと閃いた。


「男性でもいいのかしら……?」


「もちろんよろしいのではないでしょうか? 他の教科で普通に男性の教師はおられますし、わたしくしも男性の先生の方がなんだか嬉しいですわ」

 さやかは自分の推しを想像して目をハートにした。


「女子高に男性教師なんて、しかもイケメンなんて、ピラニアがいる池にウサギを落とすようなものかもしれませんが、でも、……わたくし、もしかしたら当てがあるかもしれません。さやかさん情報を有難うございます。――っ、わたくし、急いで学院の理事長へ推薦に行かなければ! ごめんあそばせ!!」


「あっ、稀星様、授業は??」 さやかは理由が分からなくてキョトンとした。


 稀星はすぐにデュークを思い浮かべた。昨日の会話でも、大抵のものは魔法でなんとかなりそうだったが、食料品を魔力で出すことはできないとの事だった。食品を買うにも、日本の生活に適応するにもお金が必要だから、何かしらのアルバイトを提供しようと思っていた矢先だった。


「デュークさんは、この学校で英語の臨時教師になればいいのですわ!」


 稀星は自分のアイデアに我ながら嬉しくなって、踊り出したいような気分のまま理事長室へ急いだ。デューク氏が英語を使えるかどうかとか、教員免許をどうしようとか疑問はあるが、それこそは魔法でどうにかなりそうだから問題ないはず。

 気が逸り、急いで廊下を走っていた稀星はそのままの勢いで角を曲がったら、出会い頭にドンと肩と肩がぶつかる衝撃を感じた。


「いたた……っ」


 周りをよく見ていなかった稀星は、他の生徒の肩にぶつかってしまったと慌てて後ろを振り向いた。


「ごめんなさい。急いでいるからといって、廊下を走るなんて淑女の振舞いではございませんでしたわ。お怪我はありませんでしたか」


「――御門稀星様……」


「あら、生徒会長の花蓮様でしたのね。大変申し訳ありませんでした」


「――いえ、大丈夫です。では、わたくしも急いでいますので、これで失礼します……」


 ぶつかった相手は隣の薔薇組の徳永花蓮だった。頭脳明晰で頼りになる生徒会長であるが、この時はいつもの花蓮のキレがなく、ぼんやりしている様子だった。

 花蓮に怪我はなさそうだったので、そのまま後ろ姿を見送った稀星は、彼女の立ち去った後に1枚の紙が落ちているのを見つけた。


「あっ、花蓮様、メモを落とされていますわ……って、行っちゃいましたわね……」


 まあ後で渡せばいいかと思い、何気なしにメモに目を向けた。


(何、これっ)


 そこにはたった一言、『助けて』と走り書きがある。

 意味は分からないけど、文字運びから急いで書いたような筆跡で、背筋に冷たいものを感じた稀星。とても気になったが、後で本人に確認すればよいかと思い、今はデューク氏の推薦を優先すべく理事長室へ急いだ。



 その翌日のこと、学園で事件が起こった。



 *****


「きゃあああああぁ」

「誰か救急車を呼んでください」

「先生、先生を呼んで!」


 高等部2年薔薇組で集団ヒステリーが発生した。

 授業開始前の休憩時間に、閃光のような光と共にバタバタと生徒が倒れたというのだ。中には過呼吸や興奮状態の生徒もいたらしい。

 思春期で敏感な年代だけに学校のクラスという心理的にも結びつきが強い集団では稀に発生すると言われている集団ヒステリー。


 稀星は騒ぎを聞いて、急いで隣の薔薇組へ向かった。クラスの中は混乱していて、10人くらいの生徒が倒れており、近くの生徒が介抱している。稀星は、スマホを取り出して、実家の病院に電話をかけた。ここから救急車が向かう先はきっと、御門総合医療センターに違いない。


「もしもし、稀星です。お父様はいらっしゃる? えっ、会議中ですの?  じゃあ、救命救急の先生と精神科の先生にお伝えして。学校で生徒が10名程倒れて、救急車を要請していますから。状況は集団ヒステリーのような感じですが原因は不明です。――はい、受け入れをよろしくお願いします」


 受け入れ可能を確認した稀星はホッとしたものの、倒れた生徒の座席を素早くメモした。

 薔薇組には生徒会長の徳永花蓮がいる。彼女は倒れてはおらず、冷静そうに席に座っていたので、稀星は近寄って話しかけた。


「花蓮様、お加減は大丈夫ですか? 一体何が起こったのでしょうか??」


 花蓮は目線を静かに稀星へ向けたものの表情が無く無言だった。


「花蓮様? 本当に大丈夫ですか??」


 こんなに騒ぎになっているのに花蓮が冷静すぎるのが、稀星の目に異様に映る。

 花蓮は顔を稀星に向ける事なく前を向いたまま、酷く淡々とした声を出した。


「――大丈夫ですわ。きっと、皆様方は貧血でしょう。大事はありません」


「でも、――こんなに大人数が一度に貧血で、しかも同じタイミングで倒れますでしょうか?」


「ええ、皆さまそれぞれ事情があって、例えば寝不足とか、月の障りとか、体力が落ちている事がありますでしょう? それよりも稀星様こそ、学園内で起ったことを大袈裟に騒ぎ立てるのは、生徒会長としてどうかと思いますが……」


 花蓮は言い終えると同時に稀星を上目遣いで睨んだ。低い声色で語る様は、暗に騒ぎ立てるなと脅すような凄みがある。


「――っ、えっ、――で、も……」


 稀星は花蓮の雰囲気に吞み込まれそうになり、一歩後ずさりした。

 いつもの花蓮ではない禍々しい雰囲気があり、別人に感じてしまう。混乱して戸惑いを感じていると後ろから、バタバタと慌てた足音が近づいた。


「白百合の上様! いえ、会長!!」


 生徒会役員で書記の水森女史だ。黒縁の眼鏡をかけているせいなのか、水森女史には固いイメージがある。

 彼女は甲斐甲斐しく生徒会長に寄り添って、即座に教室からで出ていこうとしたので、「お待ちください」と稀星は彼女達の前に立ちはだかった。


「花蓮様、皆さまが倒れる前には閃光のような光が発せられたとか言われる方もいます。もし、何があったのかご存じなら、まもなく到着する救急車の隊員に伝えますので、教えてくださいませんか――っ」


 水森女史は、稀星の肩をドンと小突いた。

「――邪魔です、御門様。会長にも休養が必要です。ご質問は会長が落ち着いてからになさってください。」


 稀星の目には花蓮はとっても落ち着いて見える。それなのに、2人が去ろうとするのを止める術がなく黙って理不尽な気持ちでいると、ゆっくりと花蓮が振り返えって、肩越しに稀星と目を合わせた。


「わたくしは、何も見ていません……」


 その目は潤んでいて、凛として、いつもの花蓮そのものだった。稀星には何が何だか全く分からなくて混乱するばかりだ。


「……稀星様」


 急に声をかけられて振り向くとさやか嬢が心配そうに立っている。

 彼女は保健部の部員で、救急車がまもなく到着すると知らせにきた。


「さやかさん、生徒会長に状況を伺おうとしたのですが、何も見ていないと言われてしまって……」


「そうですか。わたくしが知り合いに聞いたところでは、今回倒れた生徒十数名は生徒会長と一緒に遅れて教室に入ってきたそうです。そして一人の生徒が突然、興奮状態になって騒ぎ出した途端、ピカって閃光のような光が突然発生して、バタバタと生徒が倒れたとのことでした」


「――随分と不思議なお話です。しかも、何も知らないと仰っていたのに、生徒会長はやはり何かをご存じですわね……」


「あ、稀星様、救急隊が来ました」


「承知しました、急いで案内と誘導を!」


 このあと、十数名の生徒を運び出すのに時間を要し、その後も授業どころでなくなり、高等部2学年は休講になった。

 稀星は病院で状況を説明するため最後の救急車へ同乗することになり、昇降口で自分の靴箱からローファーを取り出したら、靴と一緒にひらりと紙が落ちてきた。


「なんでしょう?」


 手に取ると、稀星は驚愕した。

 そこには見た事のある筆跡で『助けて』の一言だけ書いてあった。


(この前、花蓮様が落としたメモと似ています。2回目ですわ)


 このメモについて花蓮と話す機会がなかったのを急に思い出す。

 明らかに誰かが稀星に助けを求めているのだと感じた。しかも、徳永花蓮が何かを握っているは間違いないだろう。


「御門稀星さん」


 茫然と立ち竦んでいたら、突然呼ばれてビクリと肩を跳ね上げた。稀星が振り返ると声をかけたのは、理事長先生だった。理事長先生は、初老の年齢にも関わらずほっそりした身体といつも女性らしい清楚な装いで、稀星の憧れの先生でもある。


「ごきげんよう、理事長先生」


「御門さん、この度はご迷惑をおかけします。お嬢様達を御門先生の総合医療センターで診て頂けるなんて、こんな安心なことはありません。一度に生徒が大勢倒れるなんて、こんなこと今まで無かっただけに不安ですが、くれぐれもよろしくお伝えください」


「はい。承知しました。父も仕事ですから当然ですが、しっかり診察してもらいます! では、わたくしも付き添いますので、先生、失礼いたします」


「御門さん、待って下さい。こんな時に申し訳ありませんが、先日の英語の臨時教師の件、御門さんの推薦なら間違いありませんので、前向きに検討いたします。早目に履歴書を持ってきてくださいね」

 理事長先生はお茶目にウインクしてみせた。


「有難うございますうぅ、理事長先生。では、その件は後日、なんなら面接も兼ねて本人に持参させますので、どうぞよろしくお願いいたします」 


 そう言い残し、急いで最後の救急車へ乗り込んだ。



 集団ヒステリーで倒れた生徒は特に身体的なダメージはなく翌日から学校に登校できたが、2年薔薇組は、この事件をきっかけに体調不良で欠席する生徒が増え、生徒が突然倒れたり、または突然興奮状態になるということが度々発生することになる。

 倒れた生徒を診察した稀星の父親は、これといって身体的な問題はなく、何かきっかけがあって、それによる強いショック症状又はアレルギー症状が出たのではないかと結論づけた。

 ただ、生徒達は口を揃えてその『きっかけ』を全く覚えていないといい、もはやお手上げ状態でもあった。


 この由緒正しいセント・エターナル女子学院でこのような事件が起こったことは未だかつてなく、対応に苦慮した学校は、スクールカウンセラーを増員して、高等部2学年の生徒を中心にカウンセリングを行う毎日であり、原因が分からないため根本的解決ができないままとなっていた。







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