第49話 トラウマの音

 ◆◆◆

 土曜日の朝になると配信サイトにお気に入りのアニメが更新される。それをネットに接続したテレビで見るのが、子供の頃のリンのルーティンだった。大抵は彼女の父親がソファにかけて、テレビの前に座っているリンの後ろ姿を眺めていることが多かった。

 ただしその日、父親はいなかった。彼は海外出張中で、その日の夕方着のフライトで空港に帰ってくる予定だった。そのため、リンはその週だけ、一人でアニメを眺めていたのである。今日はなんだか寂しいが、来週にはまた普段通り、父親とアニメを見る生活に戻る。


 アニメの中では、魔物が主人公に倒されてハッピーエンドを迎える。展開のスパンの差はあれど、その流れに狂いはなかった。今日もきっと主人公が勝つと信じて疑わないリンは画面の中の激闘を見つめていた。


「……あれ?」


 ところが…ある時、画面はノイズに飲まれてしまい、映像が止まってしまった。抽象画のようなさまを見て、リンは少し怖くなってしまう。“プツプツ”と音声も不規則で五月蝿いノイズを立てるばかりである。

 リンはテレビから離れる。ふと時計を見ると、針ががたがたと振り子のように震えていた。電波時計の針は同じ方向にずっと同じ速さで動くはずだったのに、電池が急に切れてしまったのか、時計は身震いを起こして機能を失っていた。


 ますます怖くなり、リンは母親を探し始めた。母親は今頃、洗濯物を干しているところのはずだった。


「ママ、ママー……、テレビうつんなくなったー!」


 リンはベランダから外出て、物干し竿のところへと向かう。ところが、そこに母親の姿はない。


「ママ?」


 一帯では風が吹く音しかしない。急に世界に独りぼっちになったような気分がした。“ひょうっ”と空気の流れる音がすると、庭の緑の草が風に踊り、空を見れば黒い雲が浮いていた。只ならぬ空模様に、リンは息を呑む。得体の知れない恐怖を感じていた。

 普段は白いのに黒くなる雲のことをリンは子供ながらに知っていた。は雷雲というのだ。

「ま、ママー、いないの?」

 冷たいものが頰に触れた…小さな水滴である。とっさにリンは顔を上げた。

 その時、彼女はあるものを雲の向こうに見たのである。


 本来であれば積乱雲の向こうに漂うものを見つけられるはずはない。ところが「それ」は強い光りを放ち、上空を這いずっていたので目についた。その光は雷ではなかった。音はしていない。光には輪郭があった。羽のようなものを大きく広げ、細い尾を長く引いている。エイか、マンタのようなシルエットだった。リンは水族館で見たことがあった。水族館は楽しい場所だった。けれどエイが空を泳いでいるのは初めて見た。泳ぐ光がとおりすぎた場所から神々しい光のカーテンが地上に降り注ぐ。やがてリンの頭上にも光は泳いで来た。嫌な予感がじっとりと背中を伝い、リンは眩しそうに眼を細める。静かだった。水が頬に当たって冷たい。背中の冷や汗も普段より冷たく感じる。風がシャツの中をすり抜けて体を冷やしていた。まつ毛の影が目にかかるほどに鋭い光が――

 



―――毘沙嗚呼唖唖唖唖唖暗!!!―――




「わあっ!!」

 雷鳴のような咆哮が轟いた。

 リンは頭を抱えてうずくまる。やがて恐る恐る、彼女は顔を上げた。空に光はなく、今は雷雲が浮かんでいるだけだった。不規則に水滴が落ちてくる。心臓が早鐘を打っていた。雨だった。

 街路樹の一つが、幹からざっくりと避けて、なぎ倒されていた。何が起きたのかリンには分からない。ただただ怖く、空を思い切り見上げることができないまま、俯きつつも上目遣いで空の機嫌を窺っていた。


「リン、はやく部屋に戻りなさい!」


 母親が玄関から彼女に呼びかける。まるで現実に呼び戻されたように、リンは慌てて部屋の中に戻っていった。

 一、二時間もすると、空の雷雲はどこかへと消えて、晴天が広がっていた。リンはこわごわと空を見上げて、あのエイをもう一度探す。

 けれど見つからなかった。

「リン、何をみてるの?」

「さっき、お空にへんなエイがとんでた。光ってて」

「へー、そうなの? ママも見てみたかった」

「や、やだよ」

「え? そうなの?」

 母親はしばらく、一緒に空を見つめていた。リンはようやく安心してきた。雨の後の空は格別に青く見えた。光のシルエットはもういない。

「じゃ、パパのお迎えに行こう」

「うん!」 


 ――その日の夕方。空港にて。

 リンは大きな窓の外でのろのろと小さなタイヤを動かす飛行機を眺めていた。あっちが動くと、こんどはこっちが、順番に滑走路に入って空に飛んでいく。なんだか既視感があった。リンは白いペンギンが羽を広げて、氷の上を滑って、冷たい海に次々に飛び込んでいく映像を思い出していた。


「ママー、パパはどれにのってるの?」


 リンは振り返って問いかける。改めて見ると、空港の中は慌ただしさを増していた。喧騒に似た声すらしている。

 母親の姿を探す。彼女は口に手を当てて、不安げな眼差しを電光掲示板に向けていたが、リンの視線に気づくと笑顔を作って見せた。


「ねえ、パパのひこうきは?」

「……パパ、今日は帰ってこれないかも。明日まで待てる?」

「えー?」


 リンは不服そうに唇を尖らせた。母親は我が子を抱き寄せて囁いた。


「お願い、リン。いい子だから」

「……うん」


 その日、リンは父親に会えずじまいだった。

 その次の日も。

 その次の日も。

 その次の日も、

 その次の日も、次の日も、次の日も……


 ……土曜日の朝になると配信サイトにお気に入りのアニメが更新される。

 リンはアニメを見ていた。今日も一人だった。そうしていると、父親が後ろにいてくれる気がした。


 父親の乗っていた飛行機は墜ちていた。


 原因は不明だが、突如位置が分からなくなり、それ以降の航路も不明のままで、最後には大破した残骸だけが発見された。衛星の記録によれば、突如発生した嵐に巻き込まれて、撃墜された可能性があった。

 “パパの飛行機は墜ちた”。

 母親がそう言ってもそんなのは嘘だと、ある日アニメの更新が途絶えるときまで、ずっと彼女は信じていた。

 そうして1ケ月ほどたった。その日は、いつまで待ってもアニメが更新されることはなかった。配信サイトトップのニュースがBGVのように流れていて、リンはその字幕を見つめていた。


『ニュースです。先月墜落が確認されて以来、乗客乗員の身元の確認が進められている〇〇便ですが、同時期に発見されたグロウムの襲撃を受けた可能性が…―――』

『――臨時ニュースです。たった今、日本に詳細不明の魔物が出現し、FORCE日本支部が攻撃されたとの速報が入りました。繰り返します、FORCE日本支部が――』


 アニメの更新は途絶えてしまった。最終回を見ることはできなかった。

 父親が戻ることもなかった。


「……ぐろうむ……」


 不思議なもので、当時のリンは“グロウム”のことをよくわかっていなかったのに、その名前が脳裏に残った。そして成長するにつれて多くのことを知り、子供の頃に分からなかったことが分かるようになると、あの時何が起こったのかを知り始めた。

 雷や電磁場、飛行機の仕組み、魔法の存在。

 そして、グロウムという世界最初の特別指定魔物。

 その魔物は雲よりも高い位置からでも雷を落とすことができる。電磁場への影響力が地磁気を掻き乱し、海洋上で方角を知る術を失わせる。もし飛行機が太平洋の上でグロウムに出くわしたらどうなるか。

 世の中の理を知れば知るほど、彼女は子供の頃に信じていなかったことを、時間が経つにつれて次第に認めるようになっていったのだ。「飲み込めるようになった」ともいえるかもしれない。

 “パパの飛行機は墜ちた”のだ。

 理不尽で悲劇的な最期であることは変わりないが、リン本人が事実を飲み込んで、自分なりの過去としてとらえられるようになるまでに何年も要した。大人になったと言えるかもしれない。



 ……だがフラッシュバックは、FORCEに入ってから起きた。

 彼女はグロウムのデータベースにアクセスしたとき、音声ファイルを見つける。音声ファイルがついた四天王は雷王だけだった。

 その題は『グロウム:出現音』とされていた。リンはそれを再生した。


“―――毘沙嗚呼唖*唖*唖暗!!!―――”


 ノイズ混じりの大きな音声。

 リンは心臓が止まるほどに驚いた。その音量や、恐ろしい音質に驚いたのではない。その音を聞いて、飲み込んでいた子供の頃の記憶が強制的によみがえったからだ。

 父親を迎えに行くときの朝。映像の乱れたアニメ、身震いを起こした電波時計、空に見た光のシルエットと、それを見上げる幼い彼女――頬に当たった冷たい雨粒と、真っ二つに裂けた街路樹。

 あの時の全てが鮮やかに頭に浮かんで、追体験した。

「あ……」

 あの頃は理解できていなかったことを彼女は音声一つですべて理解した。


 あのシルエット。

 光のシルエット……!


 “あれ”こそがグロウムで、彼女はあやうく殺されかかっていたのだ。代わりに真っ二つに裂けたのは近くの樹だった。彼女が真っ二つにされることはなかった。

 ――だが、父親は――?

 考えたくないことが脳裏によぎった時、子供の頃の記憶は、トラウマに置き換わったのだ。

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