水辺の街

 僕は昔から叔父さんが大好きで、叔父さんの家によく行っていた。叔父さんの家は「水辺の街」と呼ばれる場所にあった。元々別の街に住んでいたのだけれど、最近引っ越したのだ。叔父さんの家は川のすぐそばにあって、都会からは川を船で渡らなければ行けなかった。

 船賃を船頭さんに渡して、川を渡る。

 川はどこまでも清く、水面は太陽の光を受けてキラキラ輝いている。川底まで見えるほどの透明度で、魚はそれほどいない。

 岸に着く。

 「水辺の街」はいつも霧がかかっている。視界が悪いため、迷ってしまうことも多い。船から降り、船頭さんに礼を言って、僕は叔父さんの家を目指し歩いた。

 今日は一段と霧が濃い。慎重に歩いていく。

 気がつくと僕の足元に猫がいた。にゃあと鳴きながら、僕の足にすり寄ってくる。人懐っこい猫のようだ。首輪がないから野良猫だろう。この街には野良猫が多いのだ。その猫は僕についてきた。ついてきても餌はあげないよ、と言ってみたが、無駄だった。猫はどこまでもついてきた。

 叔父さんの家は何度も行っているはずなのに、この日はなかなかたどり着けなかった。

 迷っていると、猫が僕の横を通り過ぎて、僕の目の前で立ち止まった。そして僕を振り返った。

 彼が案内をしてくれるのだろうか。

 猫は歩き出した。僕は彼について行くことにした。

 何分か歩いたあと、もと来た川に戻ってきた。

「さて、君はこの街の住人ではないのだろう?」

 猫がそう言った。低く、魅力的な声をしていた。

「うん。僕はこの川を渡ってこの街に来たんだ」

「ならもう帰るべきだな。この街は一時的に顕現しているに過ぎない。本来人の目に触れるべき街ではないのだ。君の目にはこの街は霧がかかって見えるだろう?それは君がこの街をきちんと認識していないからだ。否、認識できていないからだ」

「でも、この街には叔父さんが」

「だからもう、おじさんと会うべきではない。もうじきこの街はもとの姿に戻る。そうなれば、君はもうこの街から出られなくなるぞ」

 僕はそれでも叔父さんに会いたかった。猫を振り切って、走った。叔父さんに会いたい。僕はただそう願っているだけなのだ。

「待て!」

 後ろから猫の声が聞こえた。でも僕は走った。

 息が切れる。霧でほとんど何も見えない。どこへ行けばいい?

 ふと上を見上げた。

 もう一つの街があった。

 どういうことだ?空にも街があるのか?家々は下に伸びていて、逆さまだった。地面もしっかりとある。

 左右を見渡すと、垂直に街が伸びていた。四方を街で囲まれている。

 どうしよう。出られない。どこへ行けば。

 街はだんだんと僕の方に迫ってきた。外側から何か大きな力がかかっているようだ。球体の内側にいるような格好になった。僕はこのまま押し潰されてしまうのだろうか?

 僕は叔父さんのことを考えた。叔父さん。僕に色んなことを教えてくれた。花の名前や動物の名前、星の名前は全部叔父さんから習った。絵を一緒に描いたり、歌を一緒に歌ったり、釣りをしたり。たくさん遊んでくれた。叔父さんがいることで僕は人生が楽しいものに思えた。

 僕がいじめられている時、叔父さんは何時間でも僕の話を聞いてくれた。

 そう、僕だってわかっていたんだ。もう叔父さんに会えなくなるって。この街に叔父さんが引っ越した訳も、気づいていたんだ。僕は目を背けていた。辛い現実を受け入れたくなかったから。

 街が迫る。あっちに行ったら、僕も叔父さんと一緒に暮らせるかなあ。こんな世界にいても辛いだけだし、楽しいことなど何もない。叔父さんがいたからこの世界に意味があったんだ。両親もクラスメイトも、僕が突然いなくなったとしても、きっと悲しまないだろう。僕がこの世界にいる意味なんてないんだ。僕は死んだように生きている。そんな風に生きていたって、結局、どうにもならない。僕はこの世界に不要な存在なんだ。

 もうどうなっても構わない。

 

 目を閉じようとしたその時、空間が弾け飛んだ。

 僕は暗闇の中に一人立っていた。上下左右の感覚がない。宇宙に放り出されたみたいだ。呼吸はできるし、指を鳴らせば音が響いた。宇宙ではないようだ。

 瞬きをすると、次の瞬間には目の前に猫がいた。

「俺の忠告を聞いてくれたって良いじゃないか」

 僕はその口調で気づいた。猫は叔父さんだったんだ。

「でも、僕は叔父さんに会いたかったんだよ。こんな世界、叔父さんがいないのなら生きている意味がないし」

「そんなことはない。この世界には十分生きる価値がある」

「僕は時々生まれなければ良かったと思うことがある。こんなに辛いのなら、最初から存在しなければ良かったって。そう思うんだ。夜に眠れない時なんか、ずっとこのことを考え続けている」

「サトル」

 叔父さんは僕の名を呼んだ。

「それでも、生きなければならないんだよ。サトルは多分まだ知らないんだろう。恋の素晴らしさや、友情の大切さ、仕事のやりがい、芸術の美しさ、自然の持っているエネルギーを、きっと感じたことがないんだ。サトルは結論を急ぎ過ぎている。生まれてきた意味とか、自分がこの世界に生まれて本当に良かったのか、なんて、生きてみなければわからない。サトルはまだ若い。これからゆっくり見つければ良い。気づけば良い。そう焦るんじゃない。先は長いんだ。これからゆっくりで良いから、物事を知り、そして考えれば良い」

「そんなことはわかっているよ。でも辛いんだ。今この辛さから逃れたいんだ」

「それでも人は生きなきゃならないんだ。誰しも辛い時期というものはある。色んな人に助けてもらって、時には自分を甘やかして、ちょっとずつ前に進めば良い。逃げても良い。でも安易に逃げては駄目だ。自分を甘やかすために逃げるのではなく、自分を守るために逃げるんだ。この世界には優しい人がいる。これは本当だよ。願えば、優しい人に巡り会える。助けを求めれば、助けてくれる人がいる。勇気が出ない時は、芸術作品を見て、励まされたら良い。サトル、お前は一人じゃない。お前を必要としてくれる人はいるし、お前を支えてくれる人もいる。すぐに答えを出そうとするんじゃない。生きてみればわかる。この世界は捨てたもんじゃない」

 叔父さんは大体こんな感じのことを言った。

「そうかもしれない。でも叔父さんに会えないのは寂しいよ」

「俺はどこへも行かない。この街にずっといる。お前には見えない姿かもしれんが、大丈夫、俺はずっとここにいるよ。いつでも会える。本当だよ。サトル。願いは強ければ本当に叶うんだ。いつか俺たちはまた巡り会う。

 矛盾したことを言っているかもしれない。でも全部本当のことなんだ」

 叔父さんはもう猫の姿ではなくなっていた。いつもの優しい叔父さんの姿だ。

 叔父さんは最後に僕を抱きしめた。僕は涙が溢れた。叔父さんに何かを言いたかったのだけれど、何も言うことができなかった。ただ叔父さんの温もりを全身で感じていた。

 いつの間にか眠っていたみたいだ。目が覚めると、家にいた。夢だったのだろうか?

 いや、きっと夢なんかじゃない。叔父さんの抱きしめてくれた時の温もりを、優しさを、僕はちゃんと覚えている。


 次の日に川に行くと、「水辺の街」は消えていた。森になっていた。

 僕は時々この森を眺める。辛いことがあっても、叔父さんが僕を見ていてくれると、そう思えば、何とか乗り越えようと思うことができた。

 叔父さん、優しい人に出会えたよ。最近好きな人ができたんだ。

 僕は心の中でそう言ってみる。

 「水辺の街」は今でも心の中にある。

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青空泥棒 春雷 @syunrai3333

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