鴨?がネギを背負ってやってきた

花札羅刹

第1話

 午後二十二時すぎ。孝之は冷蔵庫を開けたまま立っていた。一人暮らしを始めたばかりのときに中古屋で買ってきたオンボロの冷蔵庫。その中には賞味期限一日前の鶏肉が入っている。他には発泡酒の缶が一缶。それから雑多な調味料一式。夕食はカップラーメンで済ませたものの、この時間になって腹が減ってきた。だが冷蔵庫には、鶏肉が一パック。卵があれば親子丼にするのも良かったが、とうの昔に切らしている。そのままフライパンで焼くのは味気ない。冷蔵庫の扉を一度閉じると、孝之はキッチン収納の引き出しを開けた。そこには使わずに放置されていた竹串が入っていた。鶏肉と、竹串。キッチンの壁にはフックに掛けられた焼き網。


「焼き鳥にしよう」


 そう呟いて焼き網を手に取りコンロに置いた。鶏肉を冷蔵庫から取り出そうとして、ふと気が付いた。ネギが無いではないか。孝之にとって焼き鳥といえばネギま。ネギの無い焼き鳥など焼き鳥ではない。孝之はキッチンから顔を覗かせてリビングの時計を見る。どう考えてもスーパーは閉まっている時間だ。とはいえ、ネギだけは妥協したくない。仕方が無い、今日は諦めて水で空腹を紛らわせるか、と思ったその時、ふとどこからか視線を感じた。


 この家には孝之しか住んでいない。思わず背筋がひやりと冷える。恐る恐る視線を感じる方を向くと、リビングの窓に掛かったカーテンの隙間から、ぎらりと何かが光った。——目だ。二つの目が、カーテンの隙間からこちらを覗いている。孝之はそうっと窓に歩み寄ると、パッと思い切りカーテンを開けた。室内の明かりを浴びてそこに立っていたのはお化けではなく、鴨だった。鴨は背中にネギを背負い、孝之をじっと見上げると「ここを開けてくれ」と言った。


 孝之は困ってしまった。この茶色い鴨はなぜ日本語を話せるのか分からないし、ネギを背負っているのも不思議だ。ここは一旦無視した方が都合がいい。だが、一つの欲がむくむくと湧きあがる。鴨の背負っているネギがあれば、ネギまが作れる―—。


「この部屋に入ってどうするんだ?」


「腹が減ったのだ。なんでもいいから食べ物を分けてくれ」


 鶏肉ならあるが、というのは言わずに、孝之は窓を開けて鴨を迎え入れた。鴨は水かきのついた足でぺたぺたと部屋の中に入ってくると、ぐるりと辺りを見回した。


「質素な部屋だな」


「失礼な鴨だ。男の一人暮らしなんて、こんなものだろ」


「それもそうか」


 そう言って、鴨は無遠慮に部屋の中を歩き回り、テレビの向かいに置いてあった座椅子に座った。その背中に背負われているネギを、孝之はじっと見つめる。


「ところでそのネギは何なんだ?」


「ネギ? ああ、背中のこれか。これは私達の権威と男らしさを示すためのものだ。要するに、鳥でいうところの飾り羽のようなもの」


「へぇ。時に相談なんだが、それを貰う事はできないか?」


「とんでもない! これが無ければ私たちはアイデンティティを失ってしまう。いくら金を積まれてもそれだけは無理だ」


「そうか。なら仕方が無い」


 まるで納得したようなフリをして、孝之はそうっと鴨に近づいた。鴨の後ろまでやってくると、突然鴨の首をひっつかまえて持ち上げた。驚いた鴨はバタバタと足を動かして暴れる。


「何をする!! 離せ! これは私達に対する冒涜だ!!」


「鴨がネギ背負ってくるのが悪い。お前を食べないだけ感謝してくれ」


 そう言ってネギを奪い取ろうとしたとき、鴨はぐわっと口を大きく開けた。そのくちばしの中には、とがった牙が生えていた。鴨は大きく開けた嘴で、自分を掴んでいる孝之の腕にがぶり、と噛みついた。


「痛ッ!!」


 孝之は鴨から慌てて手を離す。鴨の方もさっと孝之と距離を取る。ふと見ると、鴨に噛まれたところにくっきりと歯型が浮き上がり、傷から血が流れている。


「お前、なんなんだ? 鴨に歯なんて無い筈なのに……」


「私は鴨ではない。お前たちが鴨と呼ぶ生物と似ているのは知っているが、鴨では無いのだ」


「まあ日本語を話す時点でおかしいとは思ったが」


 鴨は嘴についた血を舌でべろりと舐めとると、怪しく笑った。


「ああ、やはり人間の血は旨い」


「え?」


「さっき言っただろう。私は腹が減ったんだ。そして私は、肉食だ」


「……」


 じり、と孝之は一歩下がった。逆に、鴨の方は小さな足で近づいてくる。じりじりと下がり続けていた孝之だったが、ついに背中が壁にぶつかった。これ以上、下がれない。鴨は牙を見せつけながら、すぐ前までやって来ていた。辺りには武器になるようなものは無い。素手で鴨に勝てるだろうか? 危険を感じた心臓が早鐘を打つ。


「さあ、観念してもらおう、地球人!」


 そう言って鴨が飛び掛かろうとしたとき、窓から異常な程まばゆい光が差し込んだ。


「待て、五十五号!!」


 目が光に慣れてくると、眩い光の中に小さな影が見えた。それは、ネギを背負った鴨だった。鴨が二羽に増えた。


「せ、船長……! どうして地上に?」


 五十五号と呼ばれた鴨は、孝之に飛び掛かるのを止めてその場に膝まづいた。


「ここの地域に見覚えがあって、嫌な予感がしたから様子を見に来たんだ。五十五号、その人は駄目だ、食べてはいけない」


「なぜです? 人間なら一緒でしょう」


「一緒ではない。その人間はボクが子供の時に、他の人間に虐められていたところを助けてくれた。念のために様子を見に来てよかったよ。恩を仇で返すところだった」


「鴨が、二羽……」


 頭に帽子を被って、”船長”と呼ばれた鴨を孝之はまじまじと見つめた。左目に傷があるのを見つけて、幼少期にそんな鴨を助けたことがあったのを思い出した。だが、それも十年以上前の話だ。


「忘れていても仕方ありません。人間にとって十年なんてあっという間でしょうから。でもボクはあの時のことを今でも鮮明に覚えている。地球に来たばかりで不安だった。人間に虐められても小さかったボクは反撃できず耐えるしかなかった。貴方はそんなボクを助けてくれた。だから今回は、恩を返しに来たのです」


「は、はぁ……。まあ良かったよ、あの小さい鴨がこんなに大きくなって。鴨なんだか別の生き物なんだか知らないけど」


「正確には鴨では無いのですが、詳細を説明するのは控えましょう。ボクたちの存在は、出来るだけ隠しておきたいので。さあ、五十五号。そろそろ戻るぞ」


「了解しました」


 そう言った五十五号は残念そうな目を向けた。そんな顔をされたところで、喰われてやるつもりはない。


「ああそうだ、実は通信で聞いていたのですが、我々のこの象徴が欲しいのだとか? たしか地球語でネギと呼んでいましたか」


「あ、ああ。まぁそれどころじゃ無くなったけどな」


「もし宜しければ、ボクのを差し上げましょう」


「せ、船長!? でもそれは船長の——」


「いいんだよ。もう嫁も子供もいる。今後男の象徴なんて無用の長物だ。それを恩人に使ってもらえるなら、これ以上の喜びは無い。さ、ここに置いておきますから煮るなり焼くなりお好きにしてください。ではボクはここで。きっとまた会う事はないでしょう。お元気で、良き人間」


 そう言うと、船長は五十五号を引き連れて窓の外に出ていった。再び眩い光がぱあっと辺りを包む。その光が遠ざかったと思うと、鴨の姿は消えていた。疲れすぎて夢でも見ていたのかと思ったが、部屋の真ん中に置いてあるテーブルの上には、一本のネギ。孝之はそれを手に取ってまじまじと見つめると呟いた。


「これワケギだ……」


 結局ネギまは食べられなかったが、ワケギと鶏肉に梅肉を和えた炒め物を作り、酒と一緒に嗜んだ。

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