忠犬マル
鏡りへい
忠犬マル
買い物から戻ってきたお母さんがハジメを呼んだ。
「お腹好いたでしょ。これ、おじいちゃんとこで一緒に食べなさい。焼き立てだから、温かいうちに」
お盆に載せられていたのは焼き鳥だった。炭火で焼かれたいい匂いがする。おじいちゃんが好きな塩味とハジメの好きなタレ、両方ある。つくねもあるのに喜んだ。
「やった。全部食べていいの?」
「いいわよ、お父さんのは取ってあるから。夕飯はこれからするから、もうちょっと待っててね」
「わかった」
ハジメはお盆を持っておじいちゃんの部屋に行った。声をかけて引き戸を開ける。相撲を観ながらうとうとしていたらしいおじいちゃんはハジメを見て笑顔になった。
「おじいちゃん、焼き鳥」
言って、置きながら座卓の反対側に座る。
と、横で寝ていたマルが顔を上げた。マルはハジメが生まれる前からおじいちゃんに飼われている雑種の小型犬だ。全体に白く、頭と背中にだけ丸いブチ模様がある。すでにかなりの老犬らしく、寝てばかりいる。
匂いに気づいたのか、マルが鼻先をひくひくさせるのと同時におじいちゃんが言った。
「ああ、いい匂いだ。お父さんのお土産かい?」
「お父さんはまだだよ。お母さんが買ってきたんだ。きっとスーパーに入ってるお店のだよ」
「今はこんなのがスーパーで買えるんだね。――ああ、美味しそうだ。マル、半分こしよう」
「おじいちゃん、焼き鳥好きだよね。僕もだけど」
「昔、おじいちゃんの家は居酒屋をやってたからね。学校から帰ると、お店の手伝いをしながら、おじいちゃんのお父さんが焼き鳥を焼くのを毎日見てたもんだよ。日が暮れ出すと、炭火でタレが焦げるいい匂いが辺りに漂ってね……」
「何度も聞いたよ」
おじいちゃんは軽く笑ってから、マルを見て目を細めた。指を折り、数を数える。
「……もう六〇年か……」
「え、何?」
聞かれておじいちゃんは、ハジメが初めて聞く昔語りを始めた。
……六〇年前、おじいちゃんは今のハジメと同じくらいの年齢だった。家は居酒屋だ。仕事帰りにご近所のお父さんたちが集まる店で、毎日賑わっていた。みんな顔見知りだから、店にいるとよく可愛がられたよ。料理やジュースをもらえたりしてね。
近所にみっちゃんという年下の女の子がいた。お父さんとおじいさんがうちの常連で、小さい頃からよく連れて来られてたな。
あれはみっちゃんが小学校に上がった頃だ。みっちゃん家のお父さんがうちで飲んでると、お母さんに言われるんだろうね、みっちゃんが迎えに来るんだよ。ほとんど毎日。飼ってた犬を連れてね。
でもみっちゃんのお父さんはすぐには帰ろうとしない。みっちゃんと犬はおとなしく待っているんだけど、その間に誰かしら焼き鳥をあげるんだ。
みっちゃんは焼き鳥を一本もらうと、まず半分を自分で食べて、残りは串から外して犬にあげた。毎回そうするんだ。二本もらっても、必ず半分こして食べるんだよ。
犬もまだ子犬で可愛かったな。くるんとしたしっぽを振りながら、嬉しそうに食べててね。微笑ましい光景だったよ。よく覚えてる。
それから少しして、みっちゃんはいなくなってしまった。
病気じゃない。突然姿を消したんだよ。
学校から帰る途中でいなくなったみたいだった。
もちろん、町内は大騒ぎだ。みっちゃんちのお父さんもお母さんも、うちのお父さんもお母さんも、町中の人が何日も探して回った。でも見つからなかった。
うちは街場だったから、山や川はない。だから一人で遊んでいるうちに足を滑らせて、なんてことは考えられなかった。
子どもが間違って落ちそうな道路の側溝なんかは全部調べたはずだよ。井戸も。
調べられないとしたら、人が住んでる家だ。誰かが閉じこめて隠しておいたなら、見つかるはずはない。
結局、人攫いに遭ったのだろうということになった。誘拐だね。いや、身代金の要求なんかはなかったよ。何もわからずじまいだった。
そのまま半年くらい過ぎた。
今度は飼っていた犬がいなくなったんだ。
その頃は犬なんて放し飼いだったから、好きにどこへでも行けた。犬はある日出かけたまま、一週間も戻らなかったらしい。
また悪い人にさらわれたのかと、みっちゃんの家族もうちのお母さんも随分と不安がったよ。近所の子どもたちはみんな、一人で外に出ないようにきつく言われたくらいだ。
でも、そうじゃなかった。
ある晩、みんなが寝ている時刻に誰かの叫び声が響いた。
何かに襲われているような大変焦った悲鳴で、起き出した近所の人たちが様子を見に行った。その際、犬のうなり声のようなものを聞いた人もいるらしい。
でもどこで誰が叫んだのかよくわからない。そのうちに重い物が井戸に落ちるような音がした。
井戸のある場所は限られるからね、見当がついて何人かで見に行った。そこで、涸れた井戸に落ちて亡くなっている男の人を見つけたんだ。
そして一緒にね――骨になったみっちゃんも見つかった。男の人が落ちた井戸の底に横たわっていたんだ。
その井戸は、その男の人が一人で住んでいる家の庭にあったんだよ。
翌日、犬はいつのまにか帰って来ていた。いつも寝床にしていた玄関で、何ごともなかったように丸くなって寝ていたらしい。
その犬はもともと、捨てられていたのをみっちゃんが見つけて飼い始めたものだった。子犬のときに拾われたからよく懐いてね、みっちゃんと犬は姉弟か恋人みたいだったよ。
名前もみっちゃんがつけた。頭と背中に丸いブチがあるからマルって。
そう言っておじいちゃんは、丸いブチのある頭を優しく撫でた。
忠犬マル 鏡りへい @30398
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