3 マシュマロの降る白い夜
真っ白なマシュマロが地面に吸い込まれていく。店の外に出て、僕は改めてそんな光景を目の当たりにした。視界は白濁とし、遠くまで見通すことはできない。とうに群青に染まった天井からマシュマロが降ってくる様子は明らかに不思議な光景だった。僕の知る市販のそれよりは小ぶりだと言えたが、それでも空から雪でもなく雨でもなくマシュマロが降るのには違和感があった。
僕がこの話をするとき、マシュマロが降る夜を美しいと誤解する者がいる。幻想的だと錯覚するなら、もう一度あの白い菓子を想像した方がいい。雪は羽毛のように軽く、儚いからいい。僕があの夜見た景色は異様ではあれ、決して美しいとは言えなかった。
ただただ僕らの常識から外れた景色だ。空気の澄んだ夜に絶え間なく降るマシュマロ、その中を人々は黙々と傘をさし、帰路についていた。雪と異なり多少の風の影響を受けないマシュマロは、産み落とされた雲から垂直に傘に降りていった。
傘や地面にぶつかってもマシュマロが降り積もることはない。文字通り吸い込まれ、後には何も残らない。何かに触れた瞬間、マシュマロは鈍い光を孕んでそのまま消えていってしまうのだ。次のマシュマロが絶えず降り続ける。その終わりは見えない。
冷たい風に甘い砂糖とバニラの香りがした。あれは僕の気のせいだったのだろうか。
あの白く柔らかい菓子はどんな味がしたのだろう。何かに触れた途端に消えるのだから、手で触れることもましてや食べることもできなかっただろう。それでも、今になって僕は妄想してみる。
しかし、その時その場にいた僕は目の前にあるものを目の前にあるまま受け入れるので精一杯だった。
驚いたのは、僕以外の人間が皆マシュマロをさも当然のように通り過ぎていくことだ。皆と言うほど多くはない、飲み会帰りのサラリーマンやキャッチーだが、空気の冷たさに顔を上気させ、平然とマシュマロの降る道を歩いて行く。
どうやら僕だけがマシュマロを目にすることができるらしい。
そうでないなら僕の視界だけが誤作動を引き起こしていることになる。
「あなただけには見えるのね」女の些細な呟きが頭の内側でぐるぐると行き場もなく弾んでいた。
それとなく僕は雪がマシュマロに変わったと中川さんに伝えてみた。中川さんは僕を怪訝そうに見つめた。が、手帳を取り出すと何やらメモをし出した。比喩か何かだと思ったらしい。小説に関しては真面目な人だ。中川さんにもマシュマロは見えていない。
明らかに僕だけが降りしきるマシュマロを視界に捉えていた。
僕のバイト先のあるアーケード街の隣は仙台一の繁華街になっている。それ故、深夜のバイトでは酔っぱらい客が絶えないのだ。国分町と大きく掲げられたネオンの真下、その入り口にスターバックスはあった。
城壁のような灰色のレンガに覆われ、一枚のガラス窓がはめられた建物は洒落ているなと目視することはあっても僕とは無縁だった。
このとき僕はまだ半信半疑だった。
まるで夢のようだ。明晰夢でも見ているのではないか? そうとしか思えなかった。僕の自由な妄想を世界は超えていかない。白い女も僕をからかっただけではないか。わずかに高揚する胸をむりやり冷水で冷ますような、枯れた思い出僕はそこにいた。
横断歩道を挟んですぐそこまで来ると赤い無地の傘が開いていた。夜も更け、盛り上がりも萎みつつある歓楽街の入り口で口紅のような朱は目立っていた。そしてその下に立つ女は霞のように白い。目に刺さるほどの赤い傘の下で、女は危ういほど儚いコントラストでそこにいた。僕に気づくとひらひらと手を振る。夢以上に夢のような景色に思えた。
「お疲れ様。随分遅かったのね」
女は言った。店を閉じても、裏で戸締まりや売り上げの精算の業務が残っていたことを説明すると、女は「ああ」と興味なさげな声を漏らした。
「お腹は空いていないでしょ? 夜も眠る時間だもの。私も空いていないの、長話をするつもりはないし、ここでいいでしょ」
女はスターバックスへ入っていった。
MacBookを広げ、さも仕事をしている雰囲気を醸し出す数名のサラリーマン程度で店内にほとんど客はいなかった。飲み会の後にコーヒーや冷たくて甘いドリンクを欲しがる人間はいないだろう。当然の結果だと思った。
営業時間も二十五時半となっていた。本屋の終業はちょうど二十四時。僕と彼女はあの日一時間も話さなかったことになる。その事実に僕は時々驚く。
僕たちは別々に飲み物を購入し、向かい合うように席に着いた。先に購入した彼女が、外から見えない橋の席を選んだ。僕は、そのとき僕らが選んだ飲み物がそれぞれ何であったのかを記憶していない。しかし、コーヒーでなかったのは確かだ。それだけは覚えている。コーヒーは苦手だと彼女が言ったから・・・・・・。
ちょうどホワイトデーに合わせたチョコレートのドリンクだった気もするのだが定かではない。コーヒーにしても、スイーツに近い飲み物にせよ、どちらにせよその場にあったことが不自然なように感じてしまう。
帽子とマスクを彼女は順に外した。
ほとんど隠されていた顔がようやく顕わになる。が、印象は外す前とほとんど変わらなかった。決して、整っている顔立ちではないけれど、その白さによって独特な魅力が保たれている。彼女にだけ優しい曙光が当たっているようだと思った。存在感の希薄な透明な白さが逆に彼女の存在を浮きあがらせるのが僕は不思議だった。
勿体ぶるように最後、彼女はサングラスを外した。色彩のない白い瞳だった。僕はそんな色の目を初めて見た。大理石でもはめたような作り物のようにも見える。そして、まつげも霜が降りたように白かった。僕は彼女の虹彩の中で象を結ぶのだろうか、ふとそんなことを思っていた。
「初対面の女性を食い入るように見つめて失礼だと思わない?」
僕はようやく我に返った。僕にしては随分と大胆だった。
「すいません、そんなつもりはなくて」
「ただ?」彼女はわざとらしく聞き返す。
「珍しくて・・・・・・」
「素直ね」彼女は鼻で笑い、飲み物で口を湿らせた。
「好奇な目にはもう慣れた。実際、気になるのは事実でしょうし、でしょ?」
「そんなつもりじゃ・・・」
「わかってる。からかっただけ。お返しね。それに慣れたのは本当だから」
彼女はガラスの外を気にするそぶりを見せた。
彼女の声は女性にしては低く落ち着いていた。姉御肌と言えば連想しやすいのかもしれない。正直な所以外だった。一度レジを挟んで聞いていたが、僕のイメージするところとはややベクトルの違いがあった。
僕がもう一度謝ると、彼女は首を振った。
「何度も言うけど慣れているの。それに悪意のある視線は分かるから。貴方のは少し違う。研究者とも少し違う。どちらかと言えば絵を描く人の視線に似ている気がする」
「絵を描く人?」
その先彼女はそれ以上何も言わなかった。僅かに微笑んだだけだった。
代わりに彼女は僕の身元を聞きたがった。まるで僕を知ることが目的のように。実際僕という人間を見極めるのが彼女の目的だったのかも知れない。今思えば、彼女は僕の反応を小動物のように注意深く伺っていた。そんな気がする。しかし、冬至の僕はそれに気づかなかった。
彼女に問われるまま僕は学生で、仙台の中心にある大学に通っていることを明かしたが、彼女の反応は大して芳しいものではなかった。ほんの少し眉を動かした程度だった。
「随分と優秀なのね。大学ではどんな勉強を?」
「英文学です」
「だからね、モームは好き?」
「好きですけど・・・・・・」
「さっき私の買った本見てたでしょ。月と六ペンス。私も好きなのよ。私は大学を出ていないから結局の所、読んだところで何もわからないけれど。あの突き放す感じが好きなの。夜の道に一人で堂々と立ってるみたいなあの偏見がすき」
「分かります」彼女は首を振った。
「分からないわ。私は文章を追うだけで一度も理解したことがない気がする。きっと貴方みたいな人には分かるのね。羨ましいわ」
「僕は、自分が分かること、知っていることだけは鏡のように写して、それを文章から理解した気になっているだけ、そんな気がします」
「そうかもね」
僕たちは信じたいものだけを信じる。信じたいこと以外には盲目になるのだ。そう考えると文字を辿り、それを噛み砕く行為ほど無為なものはないと思う。僕たちは自分の中にあるものを物語を通して再び反射してみせるだけだ。成長も何もない。
同時にそのとき僕は退屈していた。目の前の時間がとろとろともたついて、噛み合わない感覚があった。このまま外で空を見上げた方が有意義な気さえした。見えないように、あくびをかみ殺していた。
「僕の話はつまらないでしょ? ありふれた学生の話ですよ。あなたの話を聞かせてください。僕はマシュマロの話を聞きに来たんです」
白目以上に白い虹彩が僕を冷たく見つめ、そこから感情を読み取るのは不可能だと思った。静止した彼女を目の前にするとき、現実感がなくなる感覚がある。
時が止まったような寒空。建物や木々はその体に薄い白銀の衣をまとう。音が澄んだ空気に吸い込まれるようだ。僕はまったく汚れていない白い大地を踏みしめる。そんな僕が黒い点に見える程の高さからもうひとりの僕が見つめている。
彼女は溜息をついた。僕にもはっきりと聞こえるほどの大きさで。
「あなたが聞きたいと思うような話は出来ないと思うわ」
僕は黙っていた。
「体が白い人間は実は珍しくないわ。アルビノって知っているでしょ? 名前が付いていて、それなりの人が知っているってこと。そうでしょ?」
「ええ」
メラニンという色素を作るための遺伝子が欠けたため、白い体をもつ生き物を指す言葉だ。僕にそれ以上の知識はない。
「生まれたときから白かったの。産んだ母が私を初めて見たとき、呪いだと思ったそうよ。仕方ないわね、きっと私でもそう思う。そうでしょ?」
「本当ですか? 僕はそう思わないな。むしろ神秘的だ」
彼女は口を閉じ、そのまま視線を外さず僕を見つめていた。
単に僕の返事に言葉を詰まらせただけなのかもしれない。しかし、僕はまた何かを掛け違えた気がした。
「基本的に男の人はそう言うわ」
彼女は静かに言葉を紡いだ。
「それにあなたはまだ親という年齢じゃないもの。自分の中から自分とは違うものが産まれる怖さがきっと貴方には分からないでしょうね。母が呪いだと感じたのも、ある意味仕方ないことかもしれない」
僕は雑に顔をゆがめることしかできなかった。
実の両親に忌み嫌われた幼少期。暗い性格の娘と育ち、学校でもありがちな雪女というあだ名でいじめをうけた。なんとか高校まで出たが、仕事は続かず、転々として生きてきたという。彼女の身の上を要約すればその程度になる。彼女は事細かに語ったはずだがその大部分を僕は忘れてしまった。こうして再び並べてみると、彼女の身の上の幾つかは僕の妄想にも思えてしまう。僕は疲れていたのだ。バイト終わりであると考えれば納得して貰えるはずだ。体はすでに眠気で悲鳴を上げていた。
それでも彼女の話が随分と流暢だったことは印象に残っている。人生は散漫に散らかっていて、それを要約して語るのは決して容易ではない。僕との出会い以前に、彼女は自身の人生を振り返り、語り慣れていたのだろうか。総じて、十分から十五分ほどだったと記憶しているが、体感ではその倍ほどあった。正直な話、随分と重たい時間だった。
「悲しい話ですね」
僕だけではなく、聞いた者全てが同じように答えるだろう。悲しいだけの話、それ以外の感想はあり得ないんじゃなかろうか。
「ええ」
彼女は小さく頷いた。同情を求めているのではない。そんな強がった表情にも見えた。
絶えず降り続ける白い砂糖菓子はどこで雪と変わるのだろうか。雲から落ちる時点でマシュマロなのか、それとも長い落下の末にマシュマロに変わる? そんな取り留めのないこと考えて、窓の外を眺めた。
髪の後退したおじさんが不思議そうに空を見上げていた。マシュマロに驚いたわけではない。首筋に手を当て、雨粒の冷たさに驚いたのだろう。何事もなかったかのように自分の首筋を拭いながら帰路についた。
「きっと悲しい人生だったんでしょう。僕にはそれくらいしか言えません。安易に同情するのもむしろ白々しい気がしてしまう」
「ええ」
「でも失礼ですけど本当にそれだけですか? あなたが僕に話したかったのは本当にそれだけですか?」冷たく色を持たない彼女の目が揺れることなく僕を見つめていた。まるで僕がこの先の言葉を発するのを否めるかのようだった。ただ僕は続けた。人の内側に踏み入れるのは僕にしては珍しい。しかし、そこに迷いはなかった。
「マシュマロが降るのはなぜですか? それはあなたの人生と何の関係もないんですか? そしてどうして僕だけが? 僕と貴方の上だけにマシュマロが降るのだろう」
貴方は雪を見たことがある?
意味深な空白を挟んで、彼女はゆっくりと口を開いた。単純な問いだが、とっさの返答に困るくらいにはおかしな問いだ。確かに彼女はそう尋ねた。雪を見たことなんてあるだろうか。南国の島国ならまだしも、ついに時間前まで降っていたのだ。
「大きさはどれくらい? マシュマロより大きい?」
「雪の大きさですか? マシュマロより小さいですよ」
「じゃあ雪の冷たさは? 本当に冷たいの?」
「そりゃ、肌に触れれば冷たいに決まってるでしょう」
「冷たいってどのくらい? どんなふうに」
「雨と大して変わらない、肌に水滴が付く程度ですよ。むしろ、体温でゆっくり溶けるだけ、冷たさはあまり感じないかもしれない」
「そう。じゃあ見た目は? 雪とマシュマロは似ているのかしら」
ああ言えば、次にはこう帰ってくる。
「あの・・・・・・、この質問にどんな意味があると言うんですか」
彼女は少し笑った。ただ少しシニカルな笑いだった。思いがけない反応に僕はさらに困惑した。
「ごめんなさいね。みんな同じような反応をするから」
彼女は唇に人差し指を立て、僕の問い返しを遮った。元々人のいない、店員さえも気だるそうな店内は凍り付いたように静まりかえる。満を持して発せられた彼女の声と共に、ゆっくりと開かれる唇の動きを僕は確かに読んだ。
わたしはゆきをみたことがないの。
彼女の顔を見た。目を見つめた。僕の反応を面白がっているように見える一方、目は笑っていないように思えた。その言葉の真偽は伺えない。雪を知らない? 理解出来なかった。雪を見たことがない人間なんて果たしているのだろうか。
「信じられない」
「本当のことよ」
何から聞けばいいのか戸惑う。そんな僕に整理の時間も与えず、彼女は語りだした。
「私の視界にはいつも雪の代わりにマシュマロが降る。ずっと昔から。小学生まで本当にマシュマロのことを雪だと思っていた。スーパーのお菓子コーナーで普通の子供みたいにおやつをせがんだの。マシュマロを指さして、雪が欲しいってね。母は怪訝そうな顔をした。その時からかな? しだいに私の雪と他人の雪が違うことに気づいたのは。
まだ申し訳程度にカップの底に残ったコーヒーを口に含み、彼女は続けた。
「本やインターネットで雪について知る事はできる。でも、それは本当に知ったことにはならない。そうでしょ? どんな大きさで、どんな冷たさで、どんな風に降るのかを私はしらない。私の上に降るのはいつもマシュマロだから」
「写真では見れるでしょうに・・・・・・」僕は言った。それが精一杯だった。
何の意味も持たない水を刺す問いかけに、彼女は首を横に振った。
「写真でもだめ、私には全てマシュマロにしか見えない。たかが雪の話なのかも知れない。でも、私にとっては違うの。だからいつも聞くようにしている。雪ってどんなもの? そんなにいいものなのかしら」
「僕は雪が降らない土地の生まれなんです。だから、僕も余り雪をしらない。僕の地元では時々羽を散らすように降ってはその景色が嘘だったかのように次の朝には溶けている。手に入らない儚いもの、僕にはそんな気がします」
時が止まったかのような間があって、僕はのろのろと語った。
「そう、いいわね」
あしらうような返事だ。真面目に答えた僕がバカみたいだ。
「僕は、マシュマロが降るのも好きです。幻想的な景色に見える」
「ありがとう。お世辞でもうれしい」
彼女は窓の外を眺め始めた。相も変わらずマシュマロが降っている。彼女にとってはうんざりするほど繰り返してきた景色だろう。ただ、今は僕にも同じマシュマロの景色が見えていた。絶えず降り続けるマシュマロは絵本のように滑稽な景色でありながら、でも、どこか魔法のように僕を掻き立てた。
「一点だけいいですか? あなたが雪を見たことがないのはわかった。雪の代わりにマシュマロが降ることも。そのマシュマロは本物ですか?」
「どういう意味?」
僕達以外に見えていないのは、中川さんや通行人の反応からして明らかだった。今、マシュマロが見えているのは僕達だけだ。マシュマロという幻覚を現在僕達が見ている、そう考えるのが常識的だろう。じゃあ、どうしてマシュマロは降っているのか? 僕の疑問はまだ明かされていないように思えた。
彼女は首を振った。
「私にもわからないわ。あまり興味もない」
「自分の身に起こったことですよ。気にならないんですか」
「あまり…」
彼女は本当に興味がないようだった。彼女の興味は店内の装飾に注がれていた。それこそ僕との会話を切り上げるタイミングを見計らっているようだった。ちょうどホワイトデーで、さらに桜模様にするのも気が早いからだろう、店内は雪を連想させる白い小物で飾られていたのだ。
「昔、物理のせんせいとお話ししたことがあるわ。学校の先生じゃない、あなたが通うような立派な大学のせんせい。そのせんせいが理由を粒子が何とかって説明してたけど忘れてしまったの、ごめんなさい。ただ、一つだけ覚えていることがある。人の見る世界がどうして同じだと言えるのか、そう言ったの。同じリンゴという言葉でも、あなたが思っている赤い果実と私が思っている赤い果実が異なる可能性は否定できないってね。でも、実際に考えてみるとそうでしょ」
「哲学的ですね。じゃあ、マシュマロが降っていることに大した意味はないと?」
「そうかもしれない。マシュマロと雪の差なんて、私が気にするほどたいしたことがないのかもしれない」
「じゃあ、僕は? 僕はついさっきまで雪が見えていた。僕にマシュマロが見えているのはなぜですか?」
その答えを彼女が持ち得るはずがなかった。彼女にさえ、雪がマシュマロに変わる理由は分からないのだ。ただその時、僕は聞かずにはいられなかった。堰が切れたように問いを投げかけた。彼女は微かに息を吐いた。
「理由は分からない。でも、あなたみたいな人がごくまれにいるの。それだけは確か」
「え?」
「私が側にいるとき、あなたみたいな人はマシュマロを見てしまうの」
「僕みたいな人?」
「ええ、今までも何人かいた。さっきの物理の先生もそう」
「あなたが側にいるときだけ、ですか?」
「そう、私が何か影響を与えてしまうのかも知れない。そんなに特別な能力でもないけれどあなたたちも私と同じように少し変なのかも知れない」
「僕が・・・」
「安心して、私がいなくなれば元の景色に戻るわ」
「あなたが、特別なんだ」
「そう、私は特別なの。時々貴方のような人にも出会うけれど、やっぱりいつもと違う景色には我慢できなくなるみたい」
彼女はそう言って笑った。驚くほど調和のとれた笑みだったことを覚えている。そして、蜂の巣のような六角形が並ぶ焦げ茶の棚から、彼女は一つ飾られた装飾を手にすると、僕の目の前に置いた。彼女の手のひらに包まれるくらい小さかった。
「スノードーム?」
氷を象った台座に丸いガラス玉が付いている。中にはソリを引く小さいサンタと赤い屋根の家が入れられていた。ガラスに満ちた液体に白い雪のような粒が流れていた。軽いお土産として見るような簡単な小物だ。彼女が軽く逆さにするとガラスの世界に雪が舞い、我々の目を奪った。全ての雪が落ちると彼女はもう一度雪を降らせた。
「これみたいって思うのよ」
彼女は再び静かな独白を始める。僕ももう、彼女の語りを遮るつもりはなかった。
「この水晶玉の中にいるのが私。偽物の雪が降っているのは分かっている。ガラス越しに外の世界が見えているんだもの。でも、抜け出せない。いつまでも狭い世界に居続けなければならない」
僕はもう一度スノードームの中を覗いた。賑やかな赤い服を着て、プレゼント袋を抱えたサンタは笑っている。ガラスの世界が窮屈な世界だという彼女に僕の想像は追いつかない。本物の雪と虚構の雪にどんな違いがあるというのだろうか。
「・・・」
沈黙が僕等の間を流れていた。その隙間を埋めるように僕は三度、スノードームを反転させた。音を吸い込むように嘘の雪は、穏やかに空を舞い、地上に吸い込まれていった。何を言っても、僕の思いは言葉にならないような気がした。こんな時、何と言えばいいか僕には分からず、その言葉を探しつつも半ば諦めていた。
「スノードームの雪も僕にとっては大して変わらないように思えます。むしろ、汚れて消えることない雪だ」
「うん」
「あなたの気持ちも分かる気がします。でも、僕はこのスノードームの中も悪くない気がする」
「そうね」彼女は言った。
さあ行きましょうか。僕の言葉を聞いた後に彼女は立ち上がった。始めからそうすることを決めていたような後腐れのなさだった。対する僕は、まだ話し足りないことがあった気がしていた。何か些細なことを忘れているような、そんな漠然とした心残りがあった。しかし、そんな僕の引っかかりを飲み込むようにクラシックが流れるのだから仕方がなかった。耳馴染みのある音楽は、心地のよい空間の演出ではなく、僕達を追い出すためらしい。店内に唯一残る僕達の帰り支度を見てどうやら早めに店じまいとするようだった。
外は相も変わらずマシュマロが降っていた。雪の結晶よりも粒の大きいマシュマロが空気に乗り落ちてきては、人の身体や地面に触れ消えていく。僕等が店にいる間に、その密度は随分と濃くなり、視界は白く霞んで判然としない。
ひび割れそうに冷たい外気が温い部屋で緩んだ僕の身体を張り詰めさせた。
僕より先に出た彼女は道の真ん中で僕が出てくるのを待っていた。繁華街の入り口に面する歩道ではあるものの、そうしても問題のない程にすでに人通りが絶えた時間帯であった。それにしては、ネオンや街頭が随分と眩しい。
「今日はありがとう。私はこっちだから」
余韻も何も感じさせない挨拶を告げると、彼女は右手に曲がっていった。彼女の背中を僕は為す術なく見送った。実を言えば、僕の住むアパートも同じ方向にあった。しかし、彼女の背中と打ち切るような別れ際は、僕に「実は・・・」の一言を言いづらくさせていた。
彼女の背中が遠ざかっていく。既に百メートルほどは離れていた。
僕は走っていた。冷たい空気を肺一杯に取り込み、白く熱い吐息を吐き散らした。肺は凍り付くように冷たく、同時に熱い血が躍動した。彼女に追いつくのにさほど時間はかからなかった。
「あら」追いついた僕に彼女は小さな声を上げた。
「僕は、マシュマロが降る夜も好きです」
「そう」
「それだけ言いたくて」
切らした息を整えながら、僕は彼女の表情を伺うことが出来なかった。冷たい視線が僕のうなじに注がれているのがひしひしと感じられた。彼女は一度返事をしたきり、沈黙を貫いていた。
僕もまた、彼女に伝えたいのはそれ以下でも以上でもなく、それ以上伝えたいこともなかった。ただ何かこのまま彼女を黙って見送ってしまうことだけが物寂しく思えただけだ。ほとんど見切り発車で飛び出したことを僕はじわじわと肺に水が染みこんでいくように後悔しつつあった。
「あの・・・」
「なに?」
「また、会えますか?」
彼女は黙って僕の目を見ていた。それからゆっくりと首を振った。
答えはそれだけで十分だった。
「会わないわ」彼女は続けた。「ずっとそう生きてきたから。また、マシュマロを見える人がいない土地へ行く。あなたともう一度出会うことがないわ」
それだけ告げると彼女はまた僕に背中を向けた。
僕もまた今度は彼女の背中を追わなかった。彼女が消えていくのを、僕はその場で立ち尽くして待った。マシュマロの粒による、白い壁が彼女を飲み込み、そのままマシュマロ以外のものを僕の視界から消し去った。彼女の姿が見えなくなった後、僕はようやく進み出した
マシュマロはやがて、白い小さな雪へと変わり、みぞれに変わった。予報では確か翌日に積もる予定だったが、この天気では積もる筈もなかった。さらに、僕が家に着く前に、みぞれは雨へと変わった。僕は全身を濡らし、一人暮らしの我が家へと帰った。
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