2 白い女
高校時代を経て、それから僕は仙台の大学へ進学した。多くが校外や東京への進学を決める中、僕みたいに北へ赴くのは珍しかった。人より少しだけ勉強ができたというのもあるけれど、僕はなるべく遠くに行ってみたかったのだ。そして、そこはかとなく切ない雪の香りに惹かれていた。雪が見たかったのだ。
僕の地元は比較的暖かい土地で、ほとんどと言っていいほど雪が降らない。降ったとしても、せいぜい地面の土が透けて見える倉の深さが精一杯だ。内陸のこどもたちが海に憧れるように、僕の中にも自然と雪への憧憬が芽生えたのかもしれない。張り詰めた空気の透明な夜、オレンジ色の街灯を背にして、羽毛のような雪が舞う。音も感覚もないまま軽く袖に触れた雪の欠片は、冷たいと感じるより先に消えてしまい、遅れてやってきた僅かな冷たさの名残以外には何も残らない。視界の全てが混じり気のない白に包まれる。そんな雪のはかなさに憧れていた。
雪に身近な東北の人々は、雪はそれほどいいものではないと語る。確かに、雪の積もった道に足を踏み入れれば当然靴は濡れるし、風によって乱れる雪で傘は意味をなさない。雪があまり降らないと言われる仙台でさえそうなのだ。東北の奥地など、雪の不便さが美しさに勝るだろう。実際に仙台に暮らせば、道の端に寄せられた雪の山は溶けていびつな雪の塊に変わり、土が混じりお世辞にもきれいなものとは言えなかった。
今の僕が好きな季節を聞かれても、おそらくもう冬とは答えない。
それでも、あの日の憧憬が僕の中にまだ残っている気がする。
今から五年前の話になる。
その年は仙台で過ごす三回目の冬だった。日付は今でも覚えている。三月十四日、世に言うホワイトデーだった。いかにも季節のイベント面をするが、僕にとっては何ら変わりのないありきたりな平日だった。ホワイトデーは男がバレンタインのお礼を贈り返す日だ。恋が片思いで成り立つのに対して、愛は一方通行では成り立たない。貰ったチョコレートに見合うものを贈り返すことで、男女は二人の関係を確かめ合うのだ。バレンタインよりもホワイトデーはもっと落ち着き成熟した雰囲気がある。
結局はバレンタインの付属品だ。二月十四日に何も贈られることのなかった男は取り残される。が、そもそもバレンタインという日に何の期待もないのだから、淡い哀愁なども感じない。あのチョコを貰うイベントさえも、今では女性が自分用の甘い菓子を買うか、申し訳程度のお徳用菓子を配るイベントに成り果てている。それは時勢だろうか、それとも僕が大人になったということなのか。果たしてバレンタインやホワイトデーを愉しむのは男と女どちらなのだろうか。
窓の外を眺めながら僕は呆けていた。
「しかし、だれも来ないな。なにもしなくていいから問題ないけどな。真面目なのはいいけど、窓の外をにらんでも客を吸い込めるわけでもないぜ」
中川さんは個包装されたロッテの小さなチョコを一つ僕の前に置いた。俺からのホワイトデーとつまらない一言を言い添える。社員さんの休憩用兼お茶菓子としてストックされたそれこそお徳用のものだ。中川さんはそれをいたづら少年のように拝借してくる。本人としてはそんな他愛もないいたずらが楽しくて仕方がないらしい。特に返す言葉もなく、代わりに僕は曖昧な笑みで返事をした。
僕のバイト先の本屋はアーケード街の中にあった。アーケード街と言うからには道は店に囲まれ、その上をドームのような屋根が覆っているが、道の真ん中だけ空が見えるように屋根が取り外されて設計されている。窓の外では道の真ん中に雪がぱさぱさと降っているのが見えた。雪に晒される中央を避け、屋根のある店の前に人が集まる。しきりに反応する自動ドアから流れ込む冷気と、通行人のもこもこした厚着、吐く息の白さが外の寒さを物語っていた。目の前の餃子の王将の明るさと、こちらの深夜ならではの人気のなさだけがいつもと変わらない。
その時、視界の先に白いものが通った。白い冷気をまとった人のようなものを見た気がした。
「おい、何ぼーっとしてるんだよ。バイト中だぜ」
「はい・・・・・・」
再び外を見ると白い人影はとうに通り過ぎてしまったようだった。見間違いだろう。全身白いコーディネートに身を包んだ通行人を偶然見たに過ぎない。
「しかし、今日は寒いな」
「今夜は0度を下回るみたいですよ」
「らしいな。まあ、雪降ってるし。そして心なしかカップルも多い・・・」
独り言のように中川さんは呟いた。僕はそうですねと生返事をして、レジ下から取り出したブックカバー用の紙を折っていた。暇な深夜バイトの僕たちにとって、ブックカバーの予備を作っておくのも業務の一つのようなものだった。
「天気が悪い日は売り上げが見込める。晴耕雨読! そうだろ? いつも以上に真心を込めて取りかかるように!」
たどたどしく、どこか偉そうな声で中川さんは発した。
「店長ですか」
「正解!」
吹き出すまではいかないものの、中川さんの声まねは僕の口角を上げさせた。深夜の緩やかな時間に中川さんのくだらなさとコミュニケーション能力はよく合っていると思う。その点では、中川さんの事を僕は尊敬していた。
シフトが深夜ということもあり、定時で帰る店長と僕らは始めの三十分ほどしか顔を合わせない。深夜に当店が繁盛していると勘違いしている程度には店長の発言は的外れで、僕たちバイトは皆バイトのけだるさをぶつけるように店長のことをばかにしていた。アメリカの子供のような見た目で、精一杯厳格に振る舞う姿がどう見ても滑稽で、特にそんな店長のまねを中川さんは十八番にしていた。
中川さんについて語るとするならば、彼は僕とは違う大学ではあるが同じ三年生だった。ただ、中川さんの方が先輩である。それは年齢にしても、バイト歴、大学の在学歴にしてもだ。留年を繰り返して卒業崖っぷちの七回生であるとか、バイト歴八年の大台に乗る最古参が自分よりも前からいたと中川さんについて語っただとか出所のしれない噂だけがまことしやかに語られていた。事実が定かかどうかは知らない。週二で顔を合わせるが、その学部さえしらない。僕としても聞くまでの興味はなかった。とにかく、自分よりも年上だと言うことだけは知っていた。
「今日レジ入ったの何回?」
「二回です」
「俺は一回。しかし、この時間に店を開ける必要があるのか。光熱費と人件費の分だけ赤字だぜこりゃ。俺が店長だったら迷わず八時閉店だけどな」
常日頃、中川さんはこんな風にぼやくのだった。深夜営業でバイト代を得てはいるが、おそらくそれは僕等の総意だった。そもそも、勤務時間中の私語は業務連絡以外禁止されているが、まず第一僕らの会話に聞き耳をたてるような客がとしていない。無理にでも客の数を数えようとするならば、時々トイレに駆け込む酔っぱらいを勘定する程度だ。
「今三年生だっけ?」
僕は無言で頷いた。
「そろそろ就活の時期でしょ? どうなの始まってる感じ? それとも優秀だから逆に大学院とか考えてるタイプ?」
「いや・・・。就活ですかね。ほとんど手をつけてないのが正直なところですけど」
考えていない、考えないようにしているというのが本音だった。当時の僕はこの手の質問に半ば飽き飽きしていた。迫るタイムリミット。社会人と学生で何が変わると言うのだろう。周りの大人はさぞ違いを語るように問い詰めてくる。大学に行けば何かになれるわけではない。僕は自分がレールに乗っていないことを知った。
職業に貴賎はないという。本当にその言葉が正しいのなら敢えて言葉にする必要もない。仕事によって人の価値が決まるというのが、薄々と僕らの感じているこの世の基本理念だ。世の大人同様僕もまた、大した価値の持たない何かにならなくてはならない。
「学部はどこだっけ」
「文学部の英文学科です」
僕は数人、有名な外国人作家の名前を挙げて見せた。中川さんは関心したようだが、僕でなくても誰でも知っているような知識であった。それ以上語れることもなかった。
「じゃあ、将来的には通訳とか、翻訳かね。海外の出版社とかどうよ」
赤の他人の無責任さに任せて中川さんは続けるのだった。僕がこの話題を避けようとしていることに彼は気づいていないようだった。人の神経を逆なでするような、そんな空気の読めなさを中川さんは持っている。僕はもうこの手の話題にうんざりしていた。
「僕たちが知っている仕事は特別な仕事ですよ。通訳とか、翻訳とか。文学を学んだから小説家になれないように法律を学んでも弁護士になるのは一握りだ。でしょ? 僕たち特別ではない人間は全員、日陰で下請けするのが現実ですよ」
そこまで言って僕は後悔した。中川さんに言うべきではなかったと思った。中川さんはどこかで特別になれると信じている人だから。
「そうか」と急に萎んだような返事をして、中川さんはそのまま黙りこくった。見方によれば、少し首を傾げたように見えなくもなかった。
「でも、君のいる大学なら将来は安泰でしょ」
今度は僕が「ああ」とか「ええ」とかはっきりしない返事をする番だった。僕の通う大学は東北の中では多少名の知れた大学だった。名前だけ見れば、中川さんの学校とは大学の名前に「学院」という言葉がつくかつかないかの違いだけだが、その程度の違いだけで実はそこそこ違うらしい。
「まあ、ピンキリですから」
どんな場所にでも優秀な人間はいるし、その逆もまた然り。違いがあるとするならば、その比率だろう。僕は自分が完全なキリの方だとは思わないが、どちらかと言えばそっち側の人間だと自覚していた。
「頑張ってよ。俺はもうこれにかけるしかないから」
自分の腕をさする。それだけ言うと中川さんはレジの奥の社員控えに引っ込んだ。四時間業務の僕らに休憩は許されていない。しかし、控えの一角には監視カメラの写らないスペースがあり、中川さんはそこで店長の監視を避け、小説を書いているのだった。
本人に隠すつもりはないらしく、中川さんと同じシフトの時はペンと原稿用紙がいつもその一角に置かれている。今時珍しい手書きの原稿が彼のこだわりらしい。中川さんは自分が物書きになれると確信しているようだった。そのために留年という強引な方法で在学期間を延長しているのだと僕はなんとなく察していた。どうしてそんなにも自分に自身がもてるのだろうか。不思議でならなかった。
僕は中川さんの小説を読んだことがあった。中川さんが席を外している瞬間に書きかけの原稿用紙を十数枚盗み読みしたのだった。本人に言えば二つ返事で読ませてくれそうではあるが、その後に感想を求められるのが億劫だった。小説の内容は、正直に言ってしまえばつまらないものだった。
ありきたりの設定で内容のない恋愛小説が、外国人も驚くような甘ったるい愛のささやきで綴られていた。アメリカの甘い砂糖菓子を口にしたときのように僕はうんざりした。小説を語るほどの目を僕は持たないが、それでも駄作だと察するほどに駄作だった。
きっとあれは一生をかけてもものにはならないだろう。
それでも、僕は中川さんとシフトが被るたび、盗み読みを繰り返していた。どうしてなのだろう。生涯をかけて紙くずを生み出す中川さんを見て僕は安心したかったのだろうか。わからない。今の中川さんはまたチープなタイムスリップものの恋愛小説に取りかかっている。
「今の彼女とはどうなの? 今日はホワイトデーでしょ? 何かないの?」
「何もないですよ」
裏に引っ込む前に中川さんは聞いてきた。僕の彼女の話だ。
バレンタインにチョコはなかった。ホワイトデーには何もないのが道理だろう。
「今度また聞かせてよ。現実を帯びた話が一番参考になるからさ」
手のひらに架空のペンで空に何かかく真似をして、中川さんはいなくなった。
僕は手持ちぶさたにレジの番をした。
店の外に出した電飾看板とセールのカゴを店の中にしまい、残りの時間をレジで足踏みしながら過ごした。レジは自動ドアのすぐ脇にあるため、通行人が通るたび冷えた空気が入り込むのだ。時計は十二時の十五分前を指していた。閉店は十二時までだが、十分前に七つの子を流し、客を追い出しても罰は当たらない。店内の時計の秒針を見ながら文字通り僕は終業までを秒読みした。
そのせいで客が気づいたことに気づかなかった。
いつもはそんなことがないのに、その日は何かがおかしかった。
「最後にいいかしら」
落ち着いた声に急かされてはっとした。顔を上げると女が立っていた。
僕がさっき視線の端で捉えたのは間違いではなかったのかもしれない。そこには白い女が立っていた。
先天的に身体に色素をほとんど持たず、白い毛や肌を持って生まれるものがいる。突然変異などによる遺伝子の変異らしい。赤い目をした白い蛇の写真を教科書かなにかで見たことがある。アルビノという名前に聞き覚えがある。女はきっとそれだった。
大きな丸いつばの帽子に、サングラスとマスクで芸能人のように人目を忍ぶ格好。僕が勘違いだと思ったのはそのせいだ。しかし、透き通るような白い肌は隠すことができず確かに見えていた。
違和感があった。ただ白いだけではない、人とは違う不思議さを彼女は持っていた。単にアルビノの女というだけなら、僕の記憶の底に沈んでしまったはずだ。変わった客であれば、飲み会帰りに訪れる酔っぱらいで十二分なほど抵抗がついていた。
女の白さは体の内側から淡い光が差しているようだった。日の光を受け止める雪のような透明な色だ。それはこの世の色ではないように、また雪と共に通り過ぎていく隙間風と相まって安易に僕に雪女を連想させた。
帽子から覗く白い髪も決して人が美容院で出すことの出来る色ではなかった。
「いいかしら」
彼女が本を差し出すまで、僅か一瞬の間ではあるものの僕は彼女に失礼なほど視線を注いでいた。
女が差し出したのは、モームの『月と六ペンス』だった。女の買った本まで記憶しているのは『月と六ペンス』が当時の僕の研究対象であり、僕の一番好きな物語だったからだ。意外な偶然に僕は彼女に親近感を抱いていた。
「カバーはお付けしますか」
「ええ」
「今日は雪がとてもきれいね」
小説のカバーをかけさせながら、女がぽつりとそう漏らした。店員に話しかける客は深夜でも珍しいが、女の調子は誰にでもする簡単な挨拶くらい軽いものだった。
当然、僕が窓の外を見るのは自然な流れだった。女に言われて出来心で外を確認したに過ぎなかった。
薄い自動ドアを隔てた空を舞うのは雪ではなかった。もっと白く大きい何かに見えた。
目を凝らす。それは僕の知る世界の景色ではない。
「マシュマロ・・・・・・?」
僕は呟いていた。人は自分の頭で許容できないものを見るとき呆然としてしまうらしい。後にも先にも僕の人生でこんな経験はこの一度しかない。
大きな雪の粒かも知れない。
そんなことを思いながら、僕は手を止め窓の外を見ていた。地面にとめどなく落ちてい白い欠片は雪とは思えないほどの厚みがあり、柔らかい形をしていた。
どうしてもそれはマシュマロにしか見えなかった。
「あなたは見えるようね」
空気に触れて飛散してしまうような微かな声であったように思う。が、その声は僕の耳元ではっきりと響いた。確かに聞いたはずなのになぜかそれは幻のように思えた。
それから女は溜息をついたようにも見えたが、マスクとサングラスに阻まれてその表情はよく読めなかった。
窓の外は何度見てもマシュマロが降っている。さもそれが当然の景色であるかのように。
いつもの倍かかって仕上げた文庫本を持って彼女は去って行った。が、女の声は僕の耳の奥で何度もこだましていた。
最後に女は僕に言った。
「私に興味があるならバイト終わりにスターバックスへ来て。待ってるから」
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