チョコレートのないバレンタイン マシュマロの降る白い夜

深 シユン

1 コーヒーヌガーの思い出

 曇天という言葉が当てはまる鬱屈した雲の間から、白いマシュマロが降ってくる。重力に従い、落ちてくるマシュマロはまるでスローモーションで再生したかのようだ。それを僕は唖然として眺めていた。そして、その視界の先に、真っ赤な傘をさした女が独りだけ平然と立っている。

 「彼女」の話をするとき、僕は決まって思い出すことがある。

 コーヒーヌガーのチロルチョコのことだ。僕はあまりコーヒーヌガーのチョコレートにいい印象をもっていない。お菓子の中では苦手な部類だ。中に入ったほろ苦いキャラメルの歯にくっついいて離れない感じがどうしても好きになれないのだ。

 僕が中学生の頃、思い出すのも恥ずかしい幼かった過去の話だ。バレンタインといえばあの頃はほんの少しだけ僕らの心を躍らせるイベントだった。貰えることがないのは分かっていた。僕は決して目立つような、ましてやモテるような子供ではなかった。顔がいいわけでもなければ、一芸に秀でるわけでもない。むしろ比較的成績がよく、教師からの評価が高い優等生であるという、その一点だけで辛うじてクラスで居場所を保っているつまらないやつだった。そんな僕が誰かにチョコレートを貰えるはずがない。当時の僕もそれは重々承知だった。しかし、そんな僕にも妄想と淡い期待を抱く権利はある。顔に靄のかかったいまだお目にかかったことのない清楚な少女に偶然チョコレートを手渡される。楽しいのは2月14日の前日だった。そもそも、前日からお菓子の類いを持ってこないように、耳が痛くなるほど教師に言われていたし、チョコレートのやり取りは年の割にませた男女の間で密約が交わされ、放課後に行われることも知っていた。それでも、淡い期待を抱いてしまうのは仕方がないことだろう。黒塗りで検閲したくなるような思い出だけれど、僕もまたバレンタインに惹かれるロマンチックな少年の一人だった。

 結果だけ言えば、中学二年生のバレンタイン、その日の僕の机の奥には黒いコーヒーヌガーのチロルチョコが一つだけ入れられていた。

「誰だよ。机にチロルチョコを入れたのは」

 クラスの中心人物を気取ったサッカー部の一人がうんざりとした、からかいを含んだ声で叫んだ。僕だけではない、それは几帳面にもクラス全員の机の中から出てきたのだった。声の大きい女子達がそんな回りくどいサプライズを試みるはずがない。教室が沸き、すぐに犯人捜しの流れになったのはある意味当然だった。女性陣が首を傾げる中、隣の席の青井さんだけが我関せずと静かに読書を続けていた。

 クラスの喧噪を無視する彼女をクラスの誰もが疑いもしなかったが、それも仕方がなかった。内気で寡黙、必要がなければ誰とも話さないそんな独りでいるような女の子が青井さんだった。目元が隠れるほど長く伸ばした前髪は、そのまま彼女の心の壁を具現化しているようだった。青井さん自身誰とも関わろうとせず、他の誰も青井さんと進んで関わろうとする者はいなかった。

 当時、隣の席の僕だけが彼女が意外と気さくなことを知っていた。カタカナの意味のない羅列としか思えない外国の小説をこちらが受け止められないほどの熱量で彼女は語った。長い前髪の下には綺麗な瞳と可愛らしいえくぼが隠れていた。おそらく気づいていたのは僕だけだ。

 そして、チョコの犯人も青井さんだということを僕だけが知っていた。

 その日たまたま僕は朝の早い時間に登校した。そして見てしまったのだ。青井さんがコンビニの袋から何かを取り出し、男子の机の中に入れていた。後から思えば、それは紛れもなくチロルチョコだった。見てはいけないものを見たような気がして、僕は見えない位置に身を隠し、その様子を見つめた。チョコを入れ終わった後、机の位置を丁寧に整えるのが几帳面な青井さんらしかった。全てを配り終えた、彼女はまたいつものように自分の席でお気に入りの小説を読み始めた。安易な表現だが、まるで夢を見ているようだった。

 犯人が見つかるはずもなく、チョコの謎は迷宮入りした。犯人を知る僕としても、青井さんの動機が検討もつかなかった。ただ、一つ思い当たることもある。僕が貰ったコーヒーヌガーに対して、皆の貰ったものは白黒で牛の模様をかたどったミルクのチロルチョコだったようだ。全員に確認したわけではないが、僕の知る限りコーヒーヌガーを貰ったのは僕のほか誰もいない。

 それとは別にもう一つ覚えていることがある。青井さんは僕の机に最後にチョコを入れた。そして、僕の思い違いでなければ、僕の机を元に戻す仕草だけ丁寧だった。もちろん遠い席から自分の席にむかって配っていけば、隣の僕の席が最後になるのは当然だろう。が、果たしてそんな偶然があるのだろうか。僕だけが青井さんの友達だったのだ。

 結局、居間の僕にも真相が判然としないように、過去の僕もまた判然としない確信を抱えたままだったし、それを明らかにしようとする気概もなかった。肝心の青井さんもいつもと変わらなかった。僕の視線に気づいて、彼女は読みかけの本の話をした。赤毛の男と南国に住む白人の会話によって進んでいく、少しひねくれた恋愛小説の話だった。

 それからも僕がコーヒーヌガーのチロルチョコの話をすることも、青井さんがチョコについて何か言うこともなかった。そのうち、席替えがあり、毎回のようには話さなくなり、クラスが変わって、自然と縁もなくなってしまった。

 高校をでて数年後くらいに、帰省のために乗った地元行きの鈍行の中で、久しぶりに青井さんの姿をみた。黒くて真っ直ぐな黒髪はいつの間にか、薄い茶色がかって垢抜けたものになっていた。相手もこちらに気づいたそぶりはあったが、互いに声をかけることもなく、手にしていたスマートフォンに再び目を落とした。

 

 

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