エピローグ:最高の思い出を──

【白帯の向こうに】

 体中の血が、沸騰しているようだ。

 頬を伝う汗が先程からずっと止まらない。酸素が欠乏している。酸素量の不足が、そもまま動きの悪さに直結している。拾えていたはずのドロップショットに、足がまったくついていかない。得意のクリアも、浅いところに上がってしまう。そんな軌道じゃダメだ、押しこまれる。

 悪い予感は的中し、相手の放ったスマッシュが眼前に落ちた。


「くそっ」


 膝に手をつき、肩で息をしながら悪態をついた。顔を上げスコアボードを見やると、七対十一だった。そうか、もう、インターバル。


 額の汗を拭いながらスポーツドリンクを口に含み、小さく息を吐く。

 あれから三年。僕は、日南市の公立高校に通う二年生になっていた。中学の時と同じくバドミントン部に所属した僕は、今、秋季全県大会に向けた、地区予選会に挑んでいた。

 対戦相手は、市内の私立高校に所属している林君。組み合わせ次第ではベスト四進出を狙える、第五シードの強豪選手だ。一方の僕はというと、彼の初戦の相手。いわゆる、シード下。全県大会に進める枠の数は全部で八個。『仮に』林君に勝てたとしても、次は第十二シードの選手に勝たないと全県大会に行けない。

 ともすると残酷な組み合わせのように思えるが、これが実力の無い選手の実情である。チーム内で七番手登録の僕は、団体メンバーに名前こそ連ねているが、実際のところ団体戦で使われる事など先ず無い。

 それこそ、怪我人が複数出ないことにはね。

 あまり弱気な発言などしたくないが、この試合も敗色濃厚。ちなみに現在二ゲーム目なのだが、第一ゲームも十四対二十一で僕が落としている。このスコアですら、僕としては粘れたほうだと思う。


「よし……」


 ラケットを数度振って感触を確認しつつ、前後にステップを踏んでウォームアップをする。

 インターバルが終了し、試合再開だ。

 サーブは当然、最後にポイントを決めた相手から。なんとかここで一本切りたい。

 審判のコールで、第二ゲームの後半戦が始まる。実に情けない話なのだが、サーブの精度。フットワーク。スマッシュの速さと角度。体幹の強さ。極めつけに技術と経験。全てにおいて相手の方が上だと思う。だからこそ僕は、基本的な戦術をしっかり守り、自分が得意なショットでゲームを組み立てていくしかない。

 僕が得意としているのは、『クリア』だ。クリアというのはシャトルを高く打ち上げるショットの事で、体勢を整える目的で高く打ち上げるハイクリアと、低めの速い弾道で相手コートの奥深くを狙う攻撃的なドリブンクリアの二種があるが、僕が得意としているのはハイクリアの方。

 高さと精度双方において、林君より僕の方に一日の長があると思う。

 ……ところが、だ。

 今日はこのハイクリアが絶不調。

 普段と比べてシャトルが飛ばない。狙った高さと深さが出せていないため、相手にスマッシュを許すチャンスボールに度々なっている。おまけに疲労が溜まり始めたことで、腕の振りまで悪くなっているんだろう。ゲームが進行するほどに、精度を欠いていた。

 案の定、第二ゲームの後半も劣勢な展開が続く。気が付けばスコアは十二対十九になっていた。もう後がない。

 だがここで、僕にチャンスが到来する。林君の放った渾身のスマッシュは、やや弾道が低くネットに阻まれた。


 十三対十九。


 ここでようやく、サーブ権が僕に移る。

 さて、どうしようか。バドミントンのサーブは基本的に二種類。ネットすれすれに放つショートサーブと、高く打ち出すロングサーブだ。ショートサーブは低い弾道でサービスライン近くに落とすため、相手が対応しにくい反面、ネットに引っ掛ける危険性と、高く浮くと押し込まれるリスクがある。双方疲れがでてくる後半戦やシングルスでは、ロングサーブが無難なのだが、こちらも浅いとやはり攻撃の起点にされてしまう。

 ついでに言うと、今日、僕は高いショットがそもそも打てていない。ここは、リスクを避けショートサーブにしておこうか。膝に手を付き、そう決断したその時、高くて澄んだ声音が会場の空気を震わせた。


「下向くな! まだ終わってないぞ!」


 僕に向けられた声援なのか、と顔を上げた。声の主を探してスタンドに視線を走らせると、柵から身を乗り出すようにして叫んでいる女子高生の姿が見えた。

 初めて目にするブレザーの制服。胸元で鮮やかな色の赤いリボンが揺れる。


「茉莉!? 何でここに?」

「スコアばっかり気にしないで。目の前の一本に集中しろ! 最後の一本が落ちるまで勝負は決まってないぞ、頑張れ!」


 細い体躯から声を搾り出すようにして叫んでいたのは、水瀬茉莉みなせまつり。数年前まで交際していた恋人にして、僕の妹。もっとも僕らの血縁については、未だ明白な証拠がないままだが。

 あの日、駅のホームで彼女を見送ったのち、僕は暗く後ろめたい気持ちを抱え日々を過ごした。慣れない地に引っ越しをする水瀬の方が、僕よりずっと大きな不安に晒されていたはずなのに、気の利いた言葉ひとつかけることなく別れたのを後悔していた。そんな自分が、酷く惨めだった。

 そんな、収まりのつかない気持ちを引き摺ったまま僕は卒業式を迎え、なんとなく地元の高校に進学して今に至る。

 高校では自分なりに頑張った。中学の時より積極的に振る舞った。性格改善が功を奏して、少しずつだが友人もできた。中学の時同様、バドミントン部に入って鍛錬を続けた。体力も、心も。裏を返せば、そうして何かに没頭していないと、頭がどうにかなりそうだった。

 そうやって、新しい環境に馴染んでいくうち、僕は水瀬のことを完全に忘れた。そしてそれは、きっと水瀬も。

 過去のしがらみに囚われていると、ただ生活をしているだけで悲しみがそこここに降り積もる。細かな塵や埃が気づかぬうちに堆積しているみたいに、心の中に切なさだけが満ちていく。

 だから、これでいいはずだった。

 僕も水瀬もお互いのことを忘れ、新しい恋を見つけていくべきなのだ。この三年間で、会えない日々が続くなかで、僕たちはそのことを学んできたはずなのだ。

 それなのに、なぜ──


「翔! 頑張れ!」


 当時から大きな声を出すのが苦手だった水瀬が、顔を真っ赤にして叫んでいた。

 あの頃と変わらない色白の肌を紅潮させて、けれど、あの頃よりさらに伸びた長い髪の毛を振り乱しながら。


 実のところ、僕たちは一定期間、固定電話を使って時々連絡を取り合っていた。長電話をすると両親に咎められるため、時間や日にちになんとなくルールを作って。しかし、お互いの近況に詳しくないことから話題に困るようになると、次第に連絡の回数も減っていく。数日に一回が週一回に変わり。週一回が月一回に変わり。そのまま数ヶ月ほどの交流で途絶えてしまう。結局、『漠然とした時間と距離』が、なんとなく二人の間を引き裂いた格好だ。僕も、水瀬も、将来を意識して語り合うにはまだ幼く、断絶に抗うだけの勇気もなかった。きっと、それだけのこと。

 連絡がないのは良い知らせ。彼女は新しい土地で元気にやっているんだ。そう、自分に言い聞かせて。

 そうこうしているうちに一年が過ぎ、彼女のことを忘れ始めた中三の冬。水瀬からの手紙が届く。

 自宅のポストの中に薄紫色の封筒が入っていて、裏面に水瀬の名前を見つけたとき、嬉しいと思うよりまず戸惑ったのをよく覚えている。なぜ今ごろ、とすら思った。水瀬がいないこの世界に、ようやく心身が慣れ始めたころだったのに、ここで水瀬の手紙なんて読んだら、また振り出しに戻ってしまう。水瀬と別れたあの駅の光景と寂しさが蘇ってしまう。

 それでも、水瀬と過ごした夢のような日々を追憶するうち、僕の体は懐かしさと喜びに打ち震えた。現金な奴め、と辟易しながらも、水瀬からの手紙を何度も読んだ。学校でも、自宅でも、通学中も、繰り返し。

 文面から、成長した水瀬の姿を想像できるようになってから、返信の手紙をしたためた。そこから、文通めいたやり取りが二度続いた。

 そう、たったの、二度。

 高校に進学してスマホが手に入れば以前のように。そんな淡い期待が実を結ぶ前に、二人のやり取りは自然消滅してしまう。

 切れてしまった運命の糸はこの時一度だけか細く繋がり、けれど、あまりにも頼りない二人の幼い恋心は、漠然と横たわる断絶に関係を修復する勇気ごと挫かれた。

 そして、冒頭の話に繋がる。


「茉莉……」


 完全に忘れていたはずの、愛おしいという感情が湧きあがってくると、自然と漏れる呟き。違う、ダメだ、と感傷に浸りそうになる心の芯をぴしゃりと叩いた。

 今は先ず、目の前のことを。

 ラケットを握る手に力がこもる。

 でも、ありがとう水瀬。

 確かに、君の言う通りだ。下を向いてなんかいられない。勝てる見込みがないと、半ば諦めムードになっていた。無難な試合運びをして、このままなんとなく負けるつもりになっていた。まったくもって恥ずかしい。彼女だって、あんなに声を張り上げているのに。


「すいません、ラケット替えても良いですか?」


 審判に声をかけ、サブのラケットに変更した。疲れから鈍くなった振りをカバーするため、ヘッドが軽く、かつガットの張りが二ポンド柔らかくたわみで飛びの良いラケットだ。こいつならば、普段通りのクリアが打てるかもしれない。


「一本ー!」

 水瀬の声が鋭く響く。

「ああ、任せろ」


 ショートサーブなんてやめだ。ここは基本に立ち返って、ロングサーブを選択する。

 左手でふわっとシャトルをリリースすると、右手のラケットで打ち上げる。

 パアン、と乾いた音が会場に響く。

 よし、良い感触だ。バックステップしながらコート後方に下がった林君は、一瞬、アウトが脳裏にちらついたんだろう。やや、遅れ気味の反応でショットを返してくる。僕のサーブが深い位置に入ったのも相まって、少し甘い一打だ。


「浅い」


 そう判断して即座に反撃に移る。返しの一打は、サーブを入れた位置と逆サイド側に押し込む、低い弾道のドリブンクリアを選択した。

 一度中央にポジションを変更していた相手の対応が遅れる。林君のレシーブがネットにかかった。


「よし!」


 これで十四対十九。


 次もロングサーブを選択する。さっきよりも高く、深くシャトルが飛んだ。だが──


「しまった強すぎたか?」


 少々高く上がりすぎた気がする。瞬間的に、アウトを覚悟した。

 恐らく、林君も同じことを考えたのだろう。一瞬の躊躇を見せたのち、シャトルを見送った。シャトルが床に落ちる。線審の判定は──イン。


「よおし!」


 僕らしくもなく、反射的にガッツポーズが飛び出る。林君は判定に不服だったようで一度主審に抗議を試みるが、判定が覆ることはなかった。十五対十九。

 さて。そろそろ高い軌道のサーブが相手の意識に刷り込まれた頃合だ。一転して速い仕切りから、ショートサーブを選択する。

 深い位置にポジションを意識していた相手の反応が遅れる。おそらく彼は、時間を稼ぎポジションを整えるため、シャトルを高く上げるはず。コースを予測しながらバックステップすると、読み通りのロブが上がった。しかし体勢が十分ではなかったのだろう、やや浅い。

 スマッシュは得意ではない……なんて言ってる暇はない。ここで打たずに何時打つんだ? 軽く跳躍しながら渾身のスマッシュを打ち込んだ。僕のスマッシュはさほど速さが無いが、このコースだったら決まるだろ! 相手コートの深い位置にシャトルが落ちる。

 十六対十九。


「ナイスショットー! 良いよ、行けるよ~」


 水瀬の歓声が一際おおきく響く。


 しかし、僕の反撃もここまでだった。

 次のショートサーブをネットに引っ掛けると、攻守が逆点する。「ストップー!」と言う水瀬の黄色い声援を背中に受けつつ必死にシャトルを追うが、元々の技術の差が出始めると次第に着いていけなくなった。

 相手のスマッシュがコートに落下した瞬間に、僕の秋季大会は終わりを告げる。

 負けたか──と思わず天井を振り仰いだ。


「ゲームセット。マッチウォンバイ林。ゲームカウントツーゼロ。十四対二十一、十七対二十一」

『ありがとうございました』

 ネット越しに握手を交わすと、「思ってたより強かった。また、そのうち戦おう」と林君が声をかけてくる。僕は頷いた。「次は絶対負けないからな」


 顎から滴る汗をタオルで拭い、ラケットを片付けると、「惜しかったね」とマネージャーの女子が声を掛けてくる。「ああ」と頷いた後でコーチに指導を仰いだ。すっかり重く感じられる足を引きずるように体育館を出て扉を後ろ手に閉めると、正面に見える玄関前のホールに、水瀬が待っていた。

 彼女は何も言わず両手を広げると、僕の体を正面から抱きしめた。


「惜しかったね。次、勝てるよ」

「うん、ありがとう。そんなことより驚いたよ。どうして茉莉が、宮崎にいるの?」

「ああ、えっとね」


 抱きしめていた腕を一度解し、困惑している僕の手を握り水瀬が説明を加えてくる。


「不思議でしょうね。どうしてあたしがここにいるのか」


 そう言って、いたずらっぽく彼女が笑う。


「本当は、試合が終わったあとでこっそり声をかけて驚かせようと思ってたんだけど、諦めて下向いちゃうんだもん」

「ごめん。それについては言い訳できない。マジでごめんなさい。でも、本当にどうしてここに?」

「えっとね……。あたしのお母さん、再婚することになったの」


 水瀬いわく、福岡で交際を始めた相手が、出張で福岡に来ていた宮崎の男性だったらしい。そこで、入籍が決まったのちに、こちらに引っ越すことになったのだとか。


「再婚相手ってまさか」

「違う、違う。全然別の人。ちゃんといい人だから心配しないで」


 僕の質問は言葉が全然不足していたが、水瀬が事情を汲み取って否定してくれた。


「インターネットで情報調べてみたら、翔君がでる大会そろそろだな~と思って。タイミング丁度よくなって良かったよ。ごめん。急に来て迷惑だった?」

「迷惑だなんて! そんな事ないよ、凄く嬉しい」

「うふふ、そっか良かった。ねえ、翔君」

「ん?」


 水瀬の瞳が、ほんの僅か意地悪な色を湛えた。っていうか、いつまで手、握ってるの? 嬉しいけれど、反面なんだか照れくさい。こうしてまじまじと観察すると、また少し背が伸びたみたい。とは言っても、百五〇センチ半ばくらいだけど。胸も……高校生らしく成長してる。薄っすらと陰影を描きだすブラウスの生地。女性らしい部分にばかり目がいってしまうのは、悲しい男のさがなのか。


「久しぶりに恋人に会ったんだから、何か言うことはないんですか?」

「え、恋人!?」

「えええ……なにその反応……」とたんに水瀬の顔が不満気に変わる。「まさか、あたしたちの関係が自然消滅したなんて思ってないよね?」


 すいません。思ってました。


「あたし、別れようなんて一言も言ってない」

「確かにそうだったね。でも……本当にいいの?」


 心底呆れたように水瀬が嘆息した。


「そこまで女の子に言わせないでよ……」

「ごめん、茉莉。もちろん好きだよ。今でも」

「あたしも。ふふ。けど、今でもは余計」


 顔が赤くなっているような気がしてそっぽを向いて言うと、被せ気味に水瀬も愛の言葉を囁いた。向けられている視線がやたらと眩しくて、顔の火照りは増すばかり。

 それにしても、だ。

 僕は物事を悪い方にばかり考え、水瀬を忘れなくちゃいけないと勝手に決めつけてきた。でも、水瀬は違った。諦めることを受け入れようとしていた僕を笑い飛ばすかのように、こんなにも堂々と胸の内を晒す。こんなにも僕の事を想い、信じ続けてくれていた。日々塞ぎ込むばかりで、何一つ行動を起こしてこなかった自分を意識すると、情けなくなる。


「ねえ、茉莉」

「ん、なあに?」

「膝枕、して欲しい」


 急激に湧き上がってきた、水瀬に縋りたいという感情。欲求を素直に口にしてみると、彼女はぎょっとした顔でこっち見た。

 え、と呟いたあと何度か瞳を瞬かせる。絡めていた僕の手を思い出したように解放すると、水瀬は近場にあるソファに膝を閉じて座った。首だけをこちらに向けて、「ほら、早く」と照れくさそうに囁いた。

 え、いいのかな……?

「失礼します」と言いながら、水瀬の隣に座った。加速していく鼓動を必死に宥め、体をゆっくり横たえ彼女の太ももに頭を載せた。柔らかい感触が頬に伝わり、同時にふわっと漂うなんともいえない甘い香り。これは、香水の匂い? それとも、水瀬の匂い?

 至福の時間だ。


「膝枕ってみんな言うけどさ。正しく言えば、太もも枕だよね?」

「そ……そうかもね。でも、改めてそんな指摘をされると、なんだか凄く恥ずかしいんだけれど。それはそうと……翔君?」

「ん?」

「それこそ普通の膝枕って、後頭部を下にして顔を上に向けるか、もしくは、横向きに頭を預けるものだと思うの」

「普通は、そうだろうね」

「じゃあ、どうして翔君は、顔を下に向けてるの? それだと……その……凄く言い難いんだけど……あたしのそこに顔を埋めてるみたいで、もの凄く恥ずかしいんだけど」

「ああ、そう?」と惚けたように言い、すん、と鼻先を擦り付ける。「僕はとってもいい気持ちだよ。なんだか甘い匂いもするし」

「そんな事言われると、余計に恥ずかしい……」


 ちょっとだけエッチな感じがして心地良いってのもあるんだけど、顔を見られたくない事情が、僕にはあった。


「ねえ、翔君。もしかしてだけど泣いてる?」


 しまった、バレてたか……。


「あ~なんて言うかさ。僕は大して強くもなければ上手くもないし、勝てないのは最初から分かってたけど、でも、やるからには勝ちたかったというか、ね」

「そうかもね」と水瀬は言った。「でも、いいじゃない。最後まで諦めないでよく粘ってたし、確かに負けはしたけれど、いいゲームしたと思うよ」

「……でも、負けたら意味ないよ。なんにも残らない」

「そんな事ないよ。翔君、凄くカッコ良かった。あたしの記憶の中に、ちゃんと残ったよ」


 惚れ直したぞ、と言って、あやすように水瀬が僕の頭を撫でると、止め処なく涙が溢れだした。大した目標もなく惰性でバドミントンを続けてきた僕でも、存外に、悔しいとか悲しいとか思うらしい。


◇◇◇


 なんてね、と水瀬茉莉は心中で舌を出した。ごめんね、翔君。さっきの話、全部嘘なんだ。

 本当はお母さんの出張の都合で、一週間こっちにいるだけ。つまんない嘘をついたのは、あたしが弱い女の子だから。君とやり直せる可能性があるか探りをいれたかったけれど、また直ぐ福岡に戻るって告げたら拒絶されちゃう気がして、怖くて言えなかった。

 は~あ、最悪。

 卑怯だよね。嘘つきだよね。嘘だって言ったら、今度こそフラれちゃうかな。

 本音を言うと、訊ねること自体が凄く怖かった。もう、他に恋人がいるんだ、なんて言われちゃったらどうしようって、ずっと心が震えていたの。あたしもきっと翔君と似たようなもの。内心では君のことを諦め、忘れなくちゃいけないんだとずっと自分をいましめてきたから。

 でも、無理だった。

 諦めることなんて、できるはずがなかった。

 翔君と駅のホームで別れたあの日から、寝ても覚めてもあなたの事ばかり考えていた。この広い空の向こう側は、確かにあなたのいる場所と繋がっているのに。もしもあたしに翼があったなら、今直ぐにでも飛んで行くのに。そんなことばかりを、毎日のように考えていた。

 だから今は縋りたい。こんな僅かな絆でも。

 ちょっとだけ長くなった、サラサラとした彼の頭髪を梳くように撫でながら、彼女は数年前の記憶に思いを馳せる。


 学校祭──通称『たなばた祭り』の当日。彼はあたしに最高のサプライズを起こしてくれた。

 一度完成させたクラスアートに手を加えるという大胆なやり方は、あたしと、あたしのお母さんの心を強く打った。あの日からお母さんは、あたしに優しく接してくれるようになり、あたしも昔みたいに、ごく自然に甘えられるようになった。仕事が終われば真っ直ぐ家に帰って来てくれるようになったし、学校の話にだってちゃんと耳を傾けてくれる。もちろん、怖い男の人を家に連れてくることなんて最早ない。


 水瀬茉莉の頬を、熱いものが滴り落ちる。あれ、なんで、と目元を拭いながら、『ありがとう』と彼女は心中で囁いた。


 だから今度は、あたしからあなたに――サプライズを送るね。


 手荷物の中にそっと忍ばせた描きかけのスケッチブックに目を向けて、水瀬茉莉はそんなことを思った。

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