【匂蕃茉莉(においばんまつり)①】

 水瀬と待ち合わせをした場所は、一時間に一本電車が出るだけの、辺鄙へんぴな最寄駅だ。何の変哲もない地方沿線の小さな駅だというのに、なぜか駅舎の壁は、目が痛くなりそうな赤。

 元々白かった壁が、目に優しくない色に塗り替えられたのは、確か今年の初めころ。人伝に聞いた話では、なんでもとあるプロ野球チームをイメージしたものらしい。

 僕には到底理解できないセンスだが、色々な大人の事情とか思惑が絡んでのことだろう。いや、よく知らんけど。

 ちなみに、このチーム。九州地方に本拠地を持つ球団ではない。むしろこの点が、一番のミステリー?

 さて。

 ぼんやりと駅前に一人佇み、真っ赤に染色された壁と、駅舎入り口付近の壁に設置された時計とを交互に眺めていた。

 時計の針が示している時刻は、午後六時十五分。

 彼女と約束した時間は六時半。

 少々、早く着きすぎただろうか。夜の帳が下りはじめた駅前通りを、車幅灯を点けて行き交う車の列に、ただ、物憂げに視線を配っていた。

 車の列が途切れる。辺りをしん、とした空気が包み込むと、とたんに手持ち無沙汰を感じ始める。

 顔を再び駅の方に戻した時、誘蛾灯ゆうがとうの青白い光が目に入った。

 時折響き渡る、パチパチという何かが爆ぜる音。理不尽な最期を迎えたのは蛾か、それとも別の虫か。散り行く儚い命に、暫し、冥福を祈った。


「ごめん、待った?」


 その時、背中の方から聞こえた透き通るような声に振り返ると、肩越しに水瀬茉莉の姿が見えた。

 彼女の服装は、清楚なデザインの白いブラウスに、赤と黒のチェック柄のプリーツスカート。裾から覗く細い脚は黒いストッキングに覆われており、頭に麦わら帽子を被ってこそいるものの、およそ山に入る格好には見えない。

 両耳には小さなイヤリングが揺れ、いつもより唇が赤い。リップか何かを塗っているのだろうか。夕暮れ時の空の下、それでもなお色が抜けたように白いうなじと、艶やかな唇の色に目を奪われた。


「あ、いや……僕も今きたところだから」


 場を繋ぐため咄嗟に口から漏れたのは、感情のこもっていない安っぽい台詞。それこそ、テレビドラマか何かで、恋人たちが待ち合わせのシーンででも語られそうな感じの。

 それにしても、どういう風の吹き回しか。

 彼女がこんなにお洒落をして現れること自体、完全に想定外だった。ありふれたデザインの質素なシャツとジーンズ。動きやすさだけを重視した自分の冴えない服装に、なんとも釣り合わないなと感じてしまう。

 水瀬は……デートかなにかのつもりだったんだろうか。

 自室の一角で鏡台の前に腰かけ、薄く紅を差す水瀬。着ていく候補の衣服を何着か床に並べ、首を捻って吟味する。

 なんて──いくらなんでも不相応過ぎる妄想。かぶりを振って邪念を追い払う。

 なにを考えているんだろうな僕は。平常心、平常心……。


「じゃあ、行こうか」


 気を取り直すように、水瀬に声を掛けた。だが、彼女の視線はこちらに向いてはおらず、駅そばにある、街灯の真下に真っ直ぐ注がれていた。


「どうしたの?」

 彼女の視線に釣られて顔を向けると、街灯の下には、カラスか何かに食われたであろう虫の死骸が落ちていた。

「カブト虫」と呟いてから、季節柄まだ少し早いな、と思いなおした。

「可哀そう」

「でも、所詮は虫だから、悲しいとか辛いなんて感情はないと思うよ」

「それはまあ、そうかもね」

 しんみりとした水瀬の呟きが、夕方の空気と静かに混じりあう。

「それでも、”痛い”という感覚はあるのかも。それに、例え小さくても命なんだから、誰かが悲しんであげないと、やっぱり可哀そう」


 街灯が落とす寂しげな光の輪。その中心で息絶える黒い亡骸に、水瀬がそっと両手を合わせ黙祷する。

 彼女に倣って僕も手を合わせると、小学生の時、猫の亡骸を抱いて静かに涙した水瀬の姿が胸をよぎった。

 花や動物だけじゃない。水瀬は、全ての生きとし生けるものに愛情を注げる女の子なんだ。無口だから一見冷たい印象を人に与えるけれど、そんなことはない。やはり水瀬は、優しい。


「じゃあ、行こうか」

 僕の二度目の問い掛けに、ようやく水瀬は相好そうごうを崩した。

「うん」


◇◇◇


 電車に乗って、二つ先の駅まで揺られること二十分。そこから市営バスに乗り換え更に十数分。バス停で降り、暗い町道を歩くこと五分。こうしてようやく、小さな公園の前にたどり着いた。

 その公園は、錆び付いた遊具が幾つかと薄汚れたベンチがあるだけで、もちろん誰の姿はない。寿命が間近なのか、チカチカと明滅を繰り返す街灯に照らされた景観は、もの悲しく目に映る。公園の更に奥の方、雑木林の間を貫くように伸びる散策路の姿が見える。水瀬は散策路の前まで進むと、薄暗い坂道の上に顔を向ける。


「この上なの?」

 思いの外物寂しい場所だったことに不安を感じつつ尋ねると、水瀬はこくんと頷いた。

「この坂を登りきった先に、目的地があるの」


 日は既に没し、藍色が次第に空を侵食し始めている。太陽が沈む際に放たれた赤き光が、山々の輪郭に沿って長く細い尾を引いた。

 足元が暗くてよく見えない。持ってきた懐中電灯を取り出して地面を照らしてみると、所々木の根が張り出している箇所があった。注意して歩かないと、躓いて転んでしまいそう。


「水瀬。足元暗いから、気をつけて」


 彼女の方にそっと手を差し延べて、同時に、指先が僅かに触れ合っただけで怯えるように手を引っ込められた過去を思い出す。

 繋いでくれるだろうか──僕が感じた不安ごと包み込むように、水瀬が僕の手を握った。彼女の大胆さと、想像を遥かに超える手の柔らかさに、制御を失った心臓が暴れ出す。

 水瀬は俯いたままこちらに目をむけず、こみ上げる羞恥から僕も彼女の顔を直視できない。結局、後ろ手に彼女の腕を引き、視線は正面に戻した。

 何か話をしなくちゃ。

 そんなことを意識して、気持ちだけはどんどん焦ってくるのに、反面、気の効いた台詞は何一つ頭に浮かんでこない。そのまま口を噤んで、歩き始めた。


 僕が彼女の手を引いて。

 彼女が少し遅れて着いてきて。


 どんどん闇の色が濃くなっていく散策路を、二人で歩いていく。左右に広がる鬱そうとした木々の姿が、心細さを加速させた。薄っすらとした恐怖すら感じる暗い林の中で、縋れるものは足元に落とされた懐中電灯の光と、繋いだ手のひらから伝わってくる彼女の温もりだけ。

 静寂が落ちた空間に、サク……サク……という二人の足音だけが奇妙なほどに響きわたる。

 いく年にもわたって落ち葉が降り積もったであろう坂道は、靴越しに、柔らかな感触を伝えてくる。

 共通の話題を殆ど持たない二人。

 無口な水瀬と、そもそも女の子を苦手としている僕との間に、その後も会話は生まれない。そのまま暫く、無言のままで歩き続けた。

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